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第487回:“ランボルギーニ・ミウラの父”パオロ・スタンツァーニ逝く

2017.02.03 マッキナ あらモーダ!

歴史的ランボルギーニの開発を主導

ランボルギーニに草創期から携わったエンジニアのひとり、パオロ・スタンツァーニが2017年1月18日、死去した。80歳だった。

スタンツァーニは、イタリアがムッソリーニによるファシスト政権下だった1936年にボローニャで生まれた。ボローニャ大学機械工学科を1961年に卒業後、同年9月30日、当時自動車部門への進出を計画していたランボルギーニ・トラクター社に入社した。

同社では、マセラティ出身の技師長ジャンパオロ・ダラーラ(1936年~)のアシスタントとして従事。在職中は主にエンジンテスト、走行試験、ホモロゲーションのための構造計算を担当。あわせてトゥリング、ベルトーネ、マラッツィ、ザガート、シラットといった、ランボルギーニのボディー製作に関与した、数々のカロッツェリアとの調整役も務めた。

当時開発に関与したモデルとしては、「350GT」「400GT」「ミウラ」「イスレロ」が挙げられる。特にミウラの開発では主導的立場を果たしたことから、後年スタンツァーニは“ミウラの父”と呼ばれるようになった。

1967年にはダラーラの後を継ぐかたちでランボルギーニの最高技術責任者に就任。経営危機で会社を去ることになった1974年まで、「エスパーダ」「ハラマ」「ミウラS」「ミウラSV」「ウラッコ」「カウンタック」の開発に携わった。1987年には、実業家ロマーノ・アルティオーリが立ち上げた新生ブガッティ計画に参画。開発責任者としてスーパースポーツカー「EB110」の誕生に貢献した。

その後、1990年代には元上司ジャンパオロ・ダラーラが興したエンジニアリング企業でF1マシンの設計に参加。続いてジャンカルロ・ミナルディのチームでも同じくF1設計に従事した。

ランボルギーニが生んだ往年のスーパースポーツ「ミウラ」と、“ミウラの父”と呼ばれる故パオロ・スタンツァーニ。
ランボルギーニが生んだ往年のスーパースポーツ「ミウラ」と、“ミウラの父”と呼ばれる故パオロ・スタンツァーニ。拡大
在職中にスタンツァーニが開発に関わった「ランボルギーニ350GT」。
在職中にスタンツァーニが開発に関わった「ランボルギーニ350GT」。拡大
「ランボルギーニ・イスレロ」
「ランボルギーニ・イスレロ」拡大
「ランボルギーニ・カウンタックLP400」。パフォーマンスはもとより、マルチェロ・ガンディーニ氏の手になる個性的なデザインで広く知られる。
「ランボルギーニ・カウンタックLP400」。パフォーマンスはもとより、マルチェロ・ガンディーニ氏の手になる個性的なデザインで広く知られる。拡大
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型破りの実業家との出会い

実はスタンツァーニ死去のニュースは、イタリアであまり報道されなかった。2017年1月18日に、中部でリゾートホテルをまるごと巻き込む雪崩が発生したからだった。

それはともかく、スタンツァーニが産声をあげたばかりのアウトモビリ・ランボルギーニで働き始めたころの逸話には、興味深いものが少なくない。

彼が大学で研究助手をしていたある日、教授を通じて「自動車業界への進出を企てている企業家が会いたがっている」という話が舞い込んだ。その企業家とはフェルッチオ・ランボルギーニだった。フェルッチオは、スタンツァーニに会うなり「いったい大学で何やってんだ?」と尋ねたという。

トニーノ・ランボルギーニ著・拙訳「ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ」(光人社刊)において、ランボルギーニ入社直後のスタンツァーニの追想が紹介されている。

ランボルギーニでは、自動車造りは未知の領域だったにもかかわらず、品質向上は不動の哲学であったという。その一方で、開放的な気風があったようだ。「(雇い主である)フェルッチオ・ランボルギーニは、『金がない代わりに、無理な要求はしないぜ』と言って、(エンジニアたちに)まったく自由にやらせてくれました」と回想する。

スタンツァーニは、牡牛(おうし)座の男・フェルッチオ・ランボルギーニについて、さらなる追想を残している。

スタンツァーニによると、フェルッチオは、今まで抱いていた実業家のイメージと、あまりにもかけ離れていたという。それは初仕事の日に早くも判明した。彼はフェルッチオとともに、ミラノ駅前に2年前に完成したばかりのピレリ本社ビルを訪問した。その真新しい32階建てタワーで、ピレリの重役たちに向かって、フェルッチオは開口一番、ボローニャ方言まるだしで「あんたら、いい仕事してんじゃねえですか」と切り出したという。

デビュー50周年を祝うイベントにおける「ランボルギーニ・ミウラ」。ミウラは1966年のジュネーブモーターショーでデビュー。その名は、闘牛の牧場名に由来する。
デビュー50周年を祝うイベントにおける「ランボルギーニ・ミウラ」。ミウラは1966年のジュネーブモーターショーでデビュー。その名は、闘牛の牧場名に由来する。拡大
前後のカウルを開いた状態の「ミウラ」。高性能の象徴たるV12エンジンは、キャビン後方(写真右側)に横置きされる。
前後のカウルを開いた状態の「ミウラ」。高性能の象徴たるV12エンジンは、キャビン後方(写真右側)に横置きされる。拡大
「ランボルギーニ・ミウラ」のインテリア。6つの計器が並んだセンターコンソールや、助手席用のグリップなどが目を引く。
「ランボルギーニ・ミウラ」のインテリア。6つの計器が並んだセンターコンソールや、助手席用のグリップなどが目を引く。拡大

“彼の時代”を見てみたかった

同時にスタンツァーニは、人間フェルッチオに対して、より深い分析もしていた。

「フェルッチオは絶えず注目される存在で、彼自身もさりげなく振る舞っていました。でも本当の彼は内気な人間でした。彼が常に誰かと接していなければならなかったのは、生来の自分の内気さに打ち勝つためだったのでしょう」

筆者がイタリアに住み始めたのは1990年代の終わりである。だが、スタンツァーニの話に触れるたび、できることならイタリア自動車界が最も輝いていた1960年代にこの地を踏みたかったものだと、つくづく思ってきた。その思いは彼が世を去った今も変わらない。

晩年のスタンツァーニはアウトモビリ・ランボルギーニのイベントにたびたびVIPゲストとして登場。昨2016年5月もミウラ誕生50周年イベントで、マルチェロ・ガンディーニらとともに元気な姿をみせた。

かくもレジェンドとして活躍する一方で、ボローニャ郊外のカルデラーラ・ディ・レーノではベッド&ブレックファストを経営していた。名前は「Locanda del Toro(ロカンダ・デル・トーロ)」。「牡牛の宿」という意味であった。

(文=大矢アキオ<Akio Lorenzo OYA>/写真=アウトモビリ・ランボルギーニ/編集=関 顕也)

「ランボルギーニ・ミウラ50周年記念イベント」でのひとこま。写真左から、パオロ・スタンツァーニ、ランボルギーニの研究・開発部門担当取締役を務めるマウリツィオ・レッジャーニ、ジャンパオロ・ダラーラ、マルチェロ・ガンディーニ。
「ランボルギーニ・ミウラ50周年記念イベント」でのひとこま。写真左から、パオロ・スタンツァーニ、ランボルギーニの研究・開発部門担当取締役を務めるマウリツィオ・レッジャーニ、ジャンパオロ・ダラーラ、マルチェロ・ガンディーニ。拡大
 
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大矢 アキオ

大矢 アキオ

コラムニスト/イタリア文化コメンテーター。音大でヴァイオリンを専攻、大学院で芸術学を修める。日本を代表するイタリア文化コメンテーターとしてシエナ在住。NHKのイタリア語およびフランス語テキストやデザイン誌等に執筆活動を展開。NHK『ラジオ深夜便』では、22年間にわたってリポーターを務めている。『Hotするイタリア』『イタリア発シアワセの秘密 ― 笑って! 愛して! トスカーナの平日』(ともに二玄社)、『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)、『メトロとトランでパリめぐり】(コスミック出版)など著書・訳書多数。

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