第169回:悲劇の真実を世界に伝えたキア・ブリザ
『タクシー運転手~約束は海を越えて~』
2018.04.20
読んでますカー、観てますカー
1980年の光州事件を描く
ソウルの街をタクシーが走る。道は大渋滞。至るところで通行止めになっていて、なかなか目的地にたどり着けない。デモ隊が大通りを行進しているせいだ。焦る運転手は腹立ちまぎれに叫ぶ。
「学生たちは勉強していればいいんだ。デモなんてやられると迷惑なんだよ!」
彼はまだ知らないのだ。韓国の政治史における大転換点が訪れようとしていることに。
『タクシー運転手~約束は海を越えて~』は、1980年5月に起きた事実を描いている。韓国民主化運動の画期となった光州事件である。前年の10月26日に朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が暗殺され、1961年からの独裁体制に終止符が打たれた。朴は超法規的な措置を連発して“維新体制”を築き上げていたが、これで民主化への期待が膨らんでいった。
大統領代行となった崔圭夏(チェ・ギュハ)によって1980年2月に金大中(キム・デジュン)らが公民権を回復され、金泳三(キム・ヨンサム)、金鍾泌(キム・ジョンピル)を加えた三金時代が幕を開ける。5月になると早期改憲を求める学生が全国でデモを展開し、15日にはソウル駅前に10万人の学生が集結した。しかし、市民の反応は鈍く、指導部はいったん矛を収める決定を下す。
運転手の言葉は、当時の庶民の気分を反映しているものなのだろう。朴政権下で韓国は“漢江の奇跡”と呼ばれる経済成長を実現しており、暮らしの質は確実に向上していた。1961年の1人あたりのGNPは82ドルだったが、1979年には1640ドルに達していたのである。政権と関係の深い財閥に利益誘導する“開発独裁”だったが、政治に関心を持たない一般大衆は理屈より目先の利益がありがたかったに違いない。
運転手のキム・マンソプを演じるのは、ソン・ガンホ。韓流非イケメン俳優の代表的存在である。彼の出演作に凡作なしと言われる名優だ。『復讐者に憐れみを』『グエムル-漢江の怪物-』『シークレット・サンシャイン』とタイトルを並べるだけで、それが誇張ではないことがわかるだろう。
外国人客を運べば10万ウォン
マンソプは幼い娘と2人暮らし。あまり稼ぎがよくないようで、家賃を滞納している。娘が大家の息子に殴られても泣き寝入りするしかないという、落語『子別れ』のような状況だ。金が欲しい彼は、ほかの会社の運転手がもうけ話をしていたのを耳にする。外国人客を光州まで乗せていけば、10万ウォンもらえるというのだ。タクシーの基本料金は500ウォンで、ひと月働いてもこんな金額は稼げない。マンソプはちゃっかり先回りして客を乗せてしまう。
タクシーをチャーターしたのは、ドイツ人記者のピーター(トーマス・クレッチマン)。東京の国際プレスセンターで韓国帰りのBBC記者から動乱が起きているとの情報を得て、取材のために海を渡ったのだ。記者だとわかれば追い返されるので、宣教師だと偽って入国した。「ドントウォーリ、アイムベストドライバー!」と超ブロークンなイングリッシュで話しかけるマンソプに不安を感じるものの、とにかく光州に行ければいい。
ソウルから光州までは300km弱の距離。高速道路を飛ばせば4時間ほどで着く計算だ。鼻歌まじりでドライブしていたが、途中で通行止めになっていて先に進めなくなる。仕方なく高速道路を降りて山の中の未舗装路を走るが、光州のまわりの道は検問所で封鎖されていて入ることができない。電話さえ不通になっていたのだ。
ソウルでデモ隊が解散した翌日の16日、光州では5万人の学生と市民が街頭で集会を行った。全斗煥(チョン・ドゥファン)が実権を握った軍部は17日に戒厳令を全国に拡大し、18日には金大中らを逮捕する。ソウルの春が息の根を止められようとしていた時、光州では抵抗が続けられていた。危機感を抱いた戒厳司令部は、第7空挺(くうてい)旅団の33大隊と35大隊を投入する。民主化デモを力で押さえ込もうとしたのだ。
運転手は見た!
なぜ光州だけが抵抗を続け、なぜ軍部は必死で弾圧したのか。背景には、韓国の地域対立がある。光州のある湖南と呼ばれる地域に対して、長らく他の地域から差別感情が持たれていたといわれる。原因は百済(くだら)と新羅(しらぎ)の時代までさかのぼるという説もあるが、さすがに怪しい。朝鮮戦争の時期に、“裏切り者”というイメージがついたというのはうそではなさそうだ。この地域の左翼勢力が人民軍と一体となってゲリラ戦を行ったことで、偏見が広がっていった。
朴正煕時代の経済成長期に取り残されたのが湖南だった。重工業化で開発投資が行われたのは、蔚山、浦項などの東南地方。嶺南と呼ばれる地域である。朴正煕は嶺南出身である。故郷を優遇するのは政治家の常だ。冷遇された湖南では人口流出が進み、過疎化が問題となる。故郷を出た人々の多くが向かったのは、ソウルだった。人口が爆発的に増加した首都では、湖南人が低賃金労働に甘んじて成長を支えた。低劣な環境に置かれた彼らが同郷出身者で協力し合ったのは自然なことだ。仲間同士が集団で行動する湖南人に対し、他地域の人々が拒否反応を示すようになっていく。
全斗煥も嶺南人である。それがどのような影響を与えたのかはわからないが、光州の蜂起に対して冷ややかな目を向けるように仕向けたことは確かだ。テレビや新聞では事実が隠され、暴徒がスパイとともに反乱を起こしていると報道されていた。やっとのことで光州市内に入り、マンソプとピーターは学生や市民に対する戒厳軍の残忍な暴力を目の当たりにする。報道では一般市民の死者はゼロだとされていたが、実際には警棒で殴られて血まみれになった死体が道に転がっていた。
マンソプは、ようやく自分が目をふさがれていたことに気づく。ピーターが8ミリカメラをまわして戒厳軍の蛮行を記録するのを助け、空港まで乗せていこうと決意した。当時はスマホもインターネットもなかったので、フィルムを国外に持ち出さなければ事実が闇に葬られてしまう。
英雄的なタクシーが戒厳軍に立ち向かう
マンソプが運転する小さなグリーンのタクシーは、真実を知らせるための英雄的な役割を担うことになる。60万kmを走行したというオンボロのクルマは「キア・ブリザ」。起亜自動車が初めて生産した乗用車だ。「マツダ・ファミリア」のノックダウン生産モデルである。朴政権は1973年に重化学工業化開発政策宣言を発表しており、自動車産業にも重点的な投資が行われた。映画にはブリザのほかに「ヒュンダイ・ポニー」のタクシーも多く登場する。三菱自動車の技術提供によって作られたモデルで、後継車種の「ポニー エクセル」は北米で大ヒットした。
2003年、ドイツ人記者のユルゲン・ヒンツペーターが韓国の民主化に貢献したとしてソン・ゴノ言論賞を受賞した。彼こそが、映画の中のピーターである。彼は光州で起きている動乱を取材するためにタクシーに乗った。運転手のキム・サボクが、映画ではマンソプとして登場している。映画は事実をベースにしているのだ。もちろん細かい部分に演出はあるが、実際に外国人記者とタクシー運転手が危険を冒して光州に入り、映像を世界に送っていた。
フィルムを持って帰ろうとする2人を、戒厳軍は阻止しようとする。非力なブリザでは追っ手を振り切るのは不可能だ。そこに仲間が現れる。タクシー運転手たちだ。ポニーやブリザが入り乱れて走り、戒厳軍に立ち向かう。もちろん、これも演出だろう。チャン・フン監督は『映画は映画だ』や『高地戦』などの作品でわかるように、いかにも真実らしい虚構を構築するのにたけている。
映画で描かれたカーチェイスはなかったが、光州事件でタクシーが活躍したのは事実だ。戒厳軍に怒ったタクシー運転手たちが集結し、光州の目抜き通りを約200台がクラクションを鳴らしながらデモ行進したという記録が残っている。彼らも抵抗する民衆の一員だった。タクシー運転手たちの英雄的な行為は記憶されていいだろう。7年後の5月に全国で光州事件を追悼する集会が開かれ、大規模なデモが発生した。追い込まれた軍事政権は、6月になって民主化宣言を発表せざるを得なくなる。強権政治を終わらせたのは、1980年の光州から始まった民衆の戦いだった。
(文=鈴木真人)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。
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