第29回:アウトバーンとハイウェイ
ドイツとアメリカの高速道路構想
2018.08.02
自動車ヒストリー
ドイツのアウトバーンとアメリカのハイウェイ――。近代的な自動車道路網の原点となった2つの“道”は、しかし全く異なる設計思想を具現したものだった。両者の完成に至る歴史を、日本における高速道路網拡充の経緯を交えて紹介する。
自動車の急増で専用道路が必要に
2018年6月2日、東京外かく環状道路(外環道)の千葉区間が開通した。三郷南ICから高谷JCTがつながったことにより、常磐道、東北道、関越道から京葉道路や東関東道に抜けることができるようになったのだ。首都高を経由するより所要時間が約26分短縮されると考えられている。首都高に流入するクルマの数が減ることで、渋滞解消にも役立つはずだ。2015年には圏央道の寒川北−海老名間がつながり、首都高速の中央環状線が全線開通している。高速道路が開通することで、下道も含めた交通事情は大きく変わる。10年前に比べれば、首都高の渋滞は目に見えて少なくなった。
高速道路の設置は、国土と都市の発展にとって重要な要素になっている。人と物は、高速道路に沿って移動するからだ。デザイン次第で物流をコントロールし、都市の景観も変化させることができる。そのことにいち早く気づいたのが、1933年に発足したドイツのナチス政権だった。国策として、アウトバーン建設が進められたのである。アウトバーンとは、自動車専用道路という意味を持つドイツ語だ。
自動車専用道路の必要性は、ドイツだけで生じていたわけではない。先進諸国では20世紀に入って自動車の数が急増したが、道路の整備は進んでいなかった。未舗装の道路には深いわだちが刻まれ、雨が降ればぬかるみになって走行を妨げる。路上には歩行者、馬、自動車が混在しているから事故が起こりやすい。自動車の性能が向上しても、それを生かすことが難しかった。
ヨーロッパにおける自動車専用道路建設では、イタリアが先行した。1924年にミラノからヴァレーセまでの約50kmに、交差点のない幅10mのアウトストラーダを完成させている。同じような道が続々と建設され、1935年までに478kmが開通した。イタリアではファシスト党が政権を掌握しており、道路建設には独裁者ムッソリーニの強力なバックアップがあった。彼は古代ローマの道路建設を継承する意図を持っていたといわれる。
ドイツのアウトバーンにも、ナチスの独裁政権が大きく関わっている。強権を発動できる体制は、大規模な工事を強引に進めるのに好都合だった。ヒトラーが自動車マニアだったことも、道路建設を重視する原因になったとされている。側近のヒムラーやゲーリングも熱狂的なモータースポーツファンだった。
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失業対策事業の意味もあった道路建設
ナチスの政権が始まる前から、自動車専用道路の計画は始まっていた。1909年にプロイセンのハインリヒ皇太子が、ベルリンに自動車専用試験道路を作る計画を立てている。戦争で中断するが、1921年にベルリン・アヴェニューが開通した。この年、ドイツ道路建設連盟が設立されている。1924年になると民間で自動車道路建設研究会が結成され、翌年1万5000kmの自動車専用道路を建設するよう提案した。彼らは1927年に「ハフラバ計画」を提起する。ハンザ都市-フランクフルト-バーゼルを結ぶ道路の構想で、これが後にアウトバーン建設の基盤になった。
ナチス党は、もともと自動車専用道路には批判的だった。一部の特権階級のためのぜいたくであり、浪費だと考えたのだ。しかし、ヒトラーはアメリカでモータリゼーションが進んでいることを知り、危機感を抱いていた。1933年にナチスが政権を握った直後、ヒトラーはベルリン国際自動車展示会で演説を行う。標語は「モータリゼーションへの意志」で、自動車工業を発展させドイツ全土に道路網を建設することを約束した。5月になると全長7000kmの自動車道路建設計画を発表し、6月に道路制度総監という官職を新設する。9月23日にはアウトバーン建設がスタートし、式典ではヒトラー自ら鍬(くわ)入れ式を行った。
ナチスがアウトバーンの政策を転換した背景には、1929年の世界大恐慌がある。街にあふれていた失業者に仕事を与えることが最優先の課題となっていた。道路制度総監に就任したフリッツ・トットは、アウトバーン建設の意義を帝国の再建に求めた。国土開発とインフラ整備を同時に進め、60万人の雇用を創出することを目指す。総建設費の約6割を失業保険制度で賄っていることが、この事情を物語っている。ただ、実際には雇用創出効果は限定的で、1933年に生み出された雇用は4000人にすぎず、1936年に至っても12万2000人にとどまった。
ほかにもアウトバーン建設の意義はあった。軍事的には非常時に滑走路として使用することが検討されており、トンネルは航空機の隠し場所に転用できるとされた。都市と都市をつなぐ道路網の構築は精神的な意義も担っており、アウトバーンは国家建設と民族統一の象徴とみなされた。「ヒトラーの道路」は、新しい文化価値を創造する時代の記念碑というわけだ。1934年には広報誌『道路』が創刊される。5万部を月2回発行し、詩や小説、絵画、写真などで建設の意義を宣伝した。未来派の芸術家たちはスピードの美を称揚しており、アウトバーンに熱狂した。
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国民車構想が見せた自家用車の夢
アウトバーンには、労働者の福利厚生としての位置づけも与えられていた。スローガンは「週末-歓喜力行団-フォルクスワーゲン」である。週末のドライブが労働者の保養として優れた効能を持つとされた。ドライブするためには、個人で自動車を保有しなければならない。アウトバーン計画と時を同じくして、ヒトラーは国民車構想を発表している。高性能で安価なクルマを普及させ、誰もがパーソナルモビリティーの恩恵にあずかれるという夢を見せたのだ。
国民車の開発はフェルディナント・ポルシェ博士に委ねられ、1938年にほぼ完成形となるプロトタイプが完成している。労働者は毎月5マルクずつ積み立てていくと、4年後に1台のクルマを手に入れることができることになっていた。しかし、その約束通りに完成車を受け取った者はいない。1939年に戦争が始まり、ナチス・ドイツは崩壊した。
実際に利用されることはなかったが、アウトバーンはドライブ道路として設計された。重視されたのは、景観パノラマである。道路制度総監のトットはクルマの中から見る風景を重視し、「時代精神を表現する、何千年も続く建築作品」を作ろうと考えた。異なる考えを持っていたのが、アルヴィン・ザイフェルトである。
彼は郷土保護運動出身で、1934年に景観代理人に任命されている。アウトバーンは技術と自然の融和がテーマとされていて、造園家たちが景観形成について助言する制度が設けられたのだ。トットとザイフェルトは協力関係にあったが、鋭く対立する場面も多かった。ザイフェルトは景観の修復・育成を重視しており、アウトバーン建設を通じてドイツの始原的な森の回復を図ることを提唱した。
ふたりはルート設定で激しく対立する。トットは7kmほどの直線を半径2kmの円弧でつなぐジグザグのコースを提案した。高速走行には直線道路が効率的であり、ドライバーにとっても運転が楽しくなると主張したのだ。ザイフェルトが強調したのは、景観との調和である。谷や丘が形成する自然の湾曲に従うことで、道路は芸術作品となる。生命体のリズムに合致するのは弧を描くルートであり、直線が長く続くのは安全性の面でも問題があると指摘した。
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パークウェイ構想の頓挫とハイウェイの誕生
ザイフェルトが有利になった背景には、アメリカの動向がある。アメリカ政府が進めた研究は彼の主張を裏付けており、アウトバーンでも景観との調和を重視するルートが選択されることになった。しかし、当のアメリカでは少し違う経過をたどることになる。
アメリカ最古のパークウェイとされるブロンクス・リバー・パークウェイは、1907年に建設が始まっている。ゴミによる汚染を防止するためにブロンクス川委員会が設置され、川沿いに帯状に広がる緑地帯や公園の中に、レクリエーション用の自動車道路を通すことになったのだ。ルートは川の蛇行に合わせてゆるやかな曲線とし、道路を景観の中に溶け込ませた。対向車線との間には緑地帯が設けられ、両側には石段がある。トラックやバスの通行は禁止された。
計画は造園家を中心としたメンバーによって推進された。美しい道路は住民に好評で、通勤が便利になったことで不動産の価値も上がる。ブロンクス・リバー・パークウェイをモデルとした道が、ニューヨーク都市圏に広がっていった。1933年にアメリカ大統領に就任したフランクリン・ルーズベルトが採用したニューディール政策の中で、アメリカ全土にパークウェイの建設が行われた。景観を重視した道路建設の方針が、ドイツにも影響を与えたのである。
しかし、パークウェイの方法論は、次第に軽視されるようになる。戦後になるとアイゼンハワー大統領が州間高速道路の構想を打ち出し、全長6万5000kmにも及ぶ道路を整備するプロジェクトが始まった。都市と都市を結ぶには、直線が最も効率的である。時代が必要としたのは、パークウェイではなくハイウェイなのだ。アメリカ全土で見られる単調な道路は、1956年から35年を費やして建設された。
日本でも、1930年代後半に自動車専用道路を作ろうという機運が生じており、1943年には内務省が全国自動車国道計画を策定している。総延長は5790kmで設計速度は最高で150km/hだった。しかし戦況の悪化にともない、翌年になって計画は打ち切られる。戦後、日本は産業の発展を目指したが、道路事情の劣悪さがしばしば障害となった。初の都市間高速道路である名神高速道路が開通したのは、1963年である。1964年に発売された3代目「トヨペット・コロナ」は、名神高速で連続10万km高速走行のデモンストレーションを行って高性能をアピールした。
東京では、1962年に首都高速の京橋―芝浦間が開通している。オリンピック開催を前に、道路の整備が求められていたのだ。それから50年以上が経過した現在、2020年に行われる2度目の東京オリンピックに向けて、各所で路線の拡充とともに大規模な修繕が行われている。
(文=webCG/イラスト=日野浦 剛/写真=FCA、首都高速道路、ゼネラルモーターズ、ダイムラー、フォード、フォルクスワーゲン、webCG)
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鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。