第35回:型破りの「レクサスLFA」
おもてなしのスーパーカー
2018.10.25
自動車ヒストリー
希代の和製スーパースポーツカーとして、2009年にデビューした「レクサスLFA」。販売台数は500台限定、価格は3750万円という、国産車としては前代未聞のモデルはどのようにして誕生したのか? “異例ずくめ”の開発エピソードを紹介する。
異例な形で始まったプロジェクト
2005年のデトロイトモーターショーに出展されたレクサスのコンセプトカーは衝撃的だった。「LF-A」である。シルバーの空力ボディーをまとったそのモデルは、最高出力500馬力以上のV10エンジンを搭載していると発表された。驚きが広がったものの、市販化されると信じる者は多くなかった。当時F1参戦中だったトヨタのイメージ戦略だと解釈されたのである。実のところ、この時点ではLF-Aは正式なプロジェクトですらない。商品化が決定するのは、2007年になってからである。
LF-Aのプロジェクトは、トヨタ/レクサスとしては異例な形で始まった。2000年の初め頃に、後にチーフエンジニアとなる棚橋晴彦を中心として水面下で動き出したのだ。自動車大国となった日本だが、いまだ世界に誇れるスーパースポーツを持っていない。真の一流ブランドとなるには、避けては通れないジャンルである。一般的な新車開発ではまずマーケット調査があり、会議を重ねた上で企画がスタートする。しかし、従来の方法を踏襲していては、欧米の先達(せんだつ)を超えることはできない。これまでのスタイルを打破すること求められる。型破りであることが、LF-Aにとっての最大のテーマとなった。
構想の骨格を定めるためには、クルマの性格を左右するパッケージングを決めることが第一歩となる。スーパースポーツカーなのだから、エンジンをドライバーの後ろに置くミドシップという選択が常道だろう。重量物を中心に置けば、旋回性能の面で有利になるからだ。しかし、早い段階でこの案は退けられた。ミドシップは確かに運動性能が高いが、スピンモードに入ると立て直すのは困難だ。限界領域でドライバーを突き放すようなクルマにすべきではないというのはトヨタの基本理念である。おもてなしを身上とするレクサスが、乗員を危険にさらすことがあってはならない。
駆動レイアウトは、エンジンを前方に搭載して後輪を駆動するオーソドックスなFR方式と決まった。エンジンの位置はできるだけ中央に近くするフロントミドを採用し、リアにトランスミッションを配置するトランスアクスル方式とする。エンジン以外の重量物はできるだけ後方に移して重量配分を最適化しようというのだ。バッテリーはもちろん、ラジエーターやウィンドウウオッシャー液のタンクまでキャビンの後ろに持っていくという徹底ぶりである。最終的に前後の重量配分は前48:後52という理想的なものとなった。
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エンジンとボディーをゼロから設計する
エンジンは、もともとあったV8をチューニングしたものを使う予定だった。当然の選択だが、開発陣はそれではもの足りないと考えた。これまでになかったスーパースポーツカーを作りたいのなら、最高のエンジンを搭載しなければならない。特別なクルマのために特別なエンジンを作ることが決まった。そこで選択されたのが、V10エンジンの新設計であった。たった1台のクルマ用に新たなパワーユニットを用意するなど、前代未聞のことだ。会社にとってそれだけの重みがLF-Aにはあった。
2003年に最初のプロトタイプが完成する。オールアルミで構成され、軽量でありながら頑丈で耐久性に優れたボディーを備えていた。このモデルをベースにしたのが、デトロイトモーターショーに出品されたコンセプトカーである。不満のない性能を備えていたが、圧倒的存在感を示すには何かが足りない。
ショーが終わってしばらくすると、開発陣は技術担当の経営トップから呼び出しを受けた。そこで思いもよらないミッションを厳命される。ボディーを炭素繊維強化プラスチック(CFRP)で作れ、というのだ。CFRPは軽さと強さは飛び抜けているが、自動車では高性能なレーシングカーなどに使われる高価な素材だ。もちろん、トヨタでは誰も扱った経験がない。
エンジンだけでなく、ボディーもこれまでにない最高のものを用意するべきだという決断である。エンジンとボディーがともにゼロからのスタートとなった。2005年11月にようやく正式プロジェクトとして認められたが、まだこの時点では商品化のOKは出ていなかった。とはいえ、これだけ大ごとになってしまえば、後戻りはできない。CFRPの製作に向けて試行錯誤を重ねた末、思い切った決断をする。工場内に専用の窯を作ってしまうというのだ。世界一のスーパースポーツカーを作りたいという思いが、非常識ともいえる選択を促した。
チーフエンジニアの棚橋は、開発にあたって「誰の意見も聞かなかったことがよかった」と語っている。実用車とは違い、スポーツカーは組織で作るものではない。個人の強い希求や願望が込められていなければ、魅力的なモデルは生まれないのだ。型破りであることが、成功への条件だったのである。
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レースで鍛えられた基本性能
棚橋が自分の意志を貫くことができたのは、絶対の信頼を置けるテストドライバーの存在があったからだ。トヨタの“マスタードライバー”として知られる成瀬 弘である。開発陣が構想を実現するための指針となるのは、彼が走ることで得た情報なのだ。舞台となったのは、ドイツのニュルブルクリンク・ノルドシュライフェである。世界中の自動車メーカーが開発のためにクルマを走らせることで知られるタフなコースだ。
路面は荒れて波打っており、土やホコリが浮いて滑りやすいうえに、狭くてエスケープゾーンのない道が約20km続く。過酷な環境で高速テストを行うからこそ、弱点が徹底的に洗い出されるのだ。ニュルブルクリンクで好タイムを記録することは、クルマの総合性能が高いことの証明だった。現場では、テストドライバーの指摘を受けて修正と補強を行い、さらにテストを重ねる。その積み重ねでクルマの開発が進められた。2008年からは、ここで開催される24時間レースにも出場。市販されていないモデルがプロトタイプで参加するのは、極めて珍しいことだ。
ニュルブルクリンク24時間レースへの参加は、開発のスピードを加速させた。レースでは周回ごとに状況が変わり、意図せぬ急ブレーキをかけなければならなくなったり、エンジンの回転数がレッドゾーンに飛び込んでしまったりする。より厳しい状況の中でテストするようなものだ。順位を上げることが目的ではないので、ノーマル仕様のモデルにスリックタイヤを履いただけの状態で走った。現社長の豊田章男もドライバーとして参加し、最終的な味付けに関わっている。
トヨタには、以前にも冒険的なプロジェクトがあった。1967年に発売された「トヨタ2000GT」である。日本の自動車産業は発展途上で、庶民が乗用車を所有することなど夢の話だった。モータリゼーションが始まっていない時代に、欧米メーカーに対抗できる高性能なスポーツカーを発売したのだ。2リッターの直列6気筒エンジンを搭載し、最高速は220km/hを誇った。世界に挑戦する気概と最新技術への意欲的な取り組みが、40年を経て再現されたともいえる。
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2000GTに通ずる挑戦と技術
発売前からレースに参加していた点も同じで、2000GTは1966年の鈴鹿1000kmレースでワンツーフィニッシュを果たしている。両車ともヤマハとの協力関係で作られていることも共通点だ。2000GTではシリンダーヘッドのDOHC化をヤマハが担当した。LFAのV10エンジンも、ヤマハとの共同で開発されたものだ。バンク角72度の4.8リッターで、最高出力560ps、最大トルク470Nmの強力なユニットである。大排気量ながら9000回転まで回すことができ、10連独立スロットルによりレスポンスは鋭い切れ味を持っていた。
スポーツカーには、心地よいエンジンサウンドも欠かせない。この分野にもヤマハが関わっている。エンジンで協力したヤマハ発動機ではなく、楽器製造のヤマハの方だ。コックピットで後方からの排気音と前方からの吸気音がバランスよく響くよう、楽器製作のノウハウが役立てられているのだ。サージタンクを共鳴装置として活用するため、素材をアルミニウムから樹脂に替え、理想的な400Hzの周波数を求めて、リブの位置をミリ単位で調整した。バルクヘッドに小さな穴がうがたれているのは、美しい音を室内に取り込むことを意図している。コンサートホールを設計するノウハウが使われているのだ。
2009年の東京モーターショーに、市販型モデルが発表された。LF-Aからハイフンを除いた「LFA」である。Lexus Future Advanceというコンセプトは、市販モデルでも継承された。販売台数は限定500台で、価格は3750万円。日本車としては並外れた高価格だが、性能と盛り込まれた技術を考えれば破格の安さである。予約は早々に埋まり、2010年末に満を持して生産が開始された。
最後の一台が作られたのは2012年12月14日。LFAは元町工場内に作られた“LFA工房”で選ばれた職人によって手作りされ、1日1台ずつ、丁寧に仕上げられた。
(文=webCG/イラスト=日野浦 剛/写真=トヨタ自動車、Newspress、webCG)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。