第56回:緊迫の日米自動車紛争
貿易摩擦が生んだグローバル化
2019.08.22
自動車ヒストリー
今や日本国内より海外で生産される台数の方が多い“日本車”。日系メーカーにグローバル化を促し、現地生産を加速させたのは、1980年代に起きた日米貿易摩擦だった。第2次オイルショックに端を発する自動車紛争は後世に何を残したのか? その歴史を振り返る。
石油ショックで日本車の優位が拡大
1971年、通商産業大臣の田中角栄は訪米して日米貿易経済合同委員会に臨んだ。繊維製品をめぐる貿易摩擦が問題化しており、アメリカは強硬に輸出規制を求めていた。田中は自由貿易の原則を掲げて反論するが、もはや理屈だけでは解決できない状況となっている。対敵通商法の発動も匂わせる姿勢に日本は折れ、アメリカの要求を飲む形で政府間協定を結んだ。
戦後の日本の経済復興はめざましく、安価な労働力と高い技術で競争力を高めていた。大量の製品を輸出する主な相手となったのはアメリカで、さまざまな摩擦が生じる。製造業においては、アメリカの衰退がすでに始まっていたのだ。新興工業国の日本は、世界の市場を席巻しつつあった。
1965年に日米貿易収支は逆転し、アメリカの赤字が拡大していく。まず大きな政治問題となったのが、繊維製品の貿易だった。その後も形を変えて貿易摩擦が繰り返されることになる。10年後には、規模をさらに拡大した紛争が起きる。問題にされたのは、自動車であった。
ヨーロッパや日本と違い、戦災を免れたアメリカは戦後になってスムーズに工業生産を再開することができた。自動車産業でも、パワフルなV8エンジンを搭載した派手な大型車が販売を伸ばし、黄金時代を迎える。フォルクスワーゲンなどの小型車も進出を始めていたが、しょせんメインストリームではない。ビッグスリーは泰然としていた。
1960年代後半になると、新たな勢力が参入する。実力を蓄えてきた日本の小型車だ。価格と品質で攻勢をかけて欧州車を追い抜き、次第に存在感を高めていた。1969年には輸入自動車の18%にすぎなかったが、1975年には半数を超える。それでもアメリカの自動車産業の動きは鈍かった。70年代末になって状況が一変する。第2次石油ショックによるガソリン価格の高騰が、消費者の小型車志向を加速させたのだ。日本車の優位は拡大する。ビッグスリーには、対抗すべき小型車の用意がなかった。
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ビッグスリーの苦境で政治問題化
1980年には、アメリカの自動車産業に従事する労働者の約4割が一時帰休を余儀なくされる。一方で、日本における年間の自動車生産台数は1000万台を突破し、アメリカを上回って世界一となった。急増する日本車の輸入が、アメリカ自動車産業の苦境の原因だと考えられるようになっていく。自動車メーカーや全米自動車労働組合(UAW)は、政府に対して日本との輸出規制交渉を進めるように圧力を強めていった。
ビッグスリーの一角であるクライスラーは、1970年代後半から深刻な経営危機に陥っていた。破綻を回避するため、アメリカ政府は重大な決断をする。1980年1月、クライスラーに対して15億ドルの連邦保証資金を提供する決定を下したのだ。自動車会社の苦境は、政府を巻き込んで政治問題化し、世論は次第に保護主義的な傾向をあらわにしていった。
UAWとフォードは、アメリカ国際貿易委員会(ITC)に対して通商法第201条の適用を申請する。国内自動車産業の不振が日本車の輸入拡大によるものと判断されれば、セーフガード措置の実施が勧告されることになる。しかし、ITCは石油価格の上昇や消費者の関心が小型車にシフトしたことが自動車産業不振の原因だと結論を出し、貿易制限強化の勧告は行われなかった。自動車の輸入制限を実施するには、通商法301条を適用して日本が不公正貿易を行っていると認定する方法もあるが、それはいかにも無理があり、日米関係に致命的な打撃を与える可能性があった。
そもそも、安価な日本車の輸入制限は消費者の利益に反するものでもあり、場合によっては独占禁止法の規定に触れる恐れがある。また燃費のいい日本車を排除することは、エネルギー資源の節約を放棄することを意味する。雇用創出というメリットだけを押し出して規制を推進することはできなかったのである。
保護主義政策発動の危機
それでも、自動車産業はアメリカの労働者の6分の1が関係するといわれる大産業であり、衰退を座視することはできない。日本にとっても、貿易立国を支える柱が自動車である。両国にとって簡単には譲れない問題だったが、なんとか解決策を探ろうとする動きが進められていた。繊維摩擦で日米関係にヒビが入ったことが教訓となり、穏便に収拾を図る努力が続けられたのである。
アメリカは自動車貿易に関して3つの要求を提示していた。ひとつは規格・基準の問題で、アメリカ車を日本に輸出する際の規制を緩和するように求めた。第2は輸入制限の撤廃である。日本は1978年に完成車への関税をゼロにしていたが、自動車部品への課税は残っていた。第3の要求が、最も重要な課題だった。日本がアメリカに投資することを求めたのである。日本車をアメリカで生産し、雇用を創出することが目的だった。
マンスフィールド駐日大使は、トヨタと日産が対米進出を早急に決定しなければ、アメリカは保護主義的な政策を取らざるを得ないと警告。UAWのフレーザー会長も日本を訪れ、大平首相と大来外相に会ってアメリカ国内に組立工場を建設するように要求した。
ホンダはすでにアメリカに乗用車工場を建設することを表明していた。生産台数の40%を対米輸出に向けていたホンダにとって、現地生産のハードルは比較的低かったのだ。一方、トヨタと日産はその割合が20%ほどであり、安易にアメリカでの生産を決断することはできなかった。ビッグスリーは新たな小型車開発を進めており、競争力を取り戻すことも十分に考えられる。またアメリカでは日本と労働事情が異なり、高賃金でストライキが多発する。日本式の生産様式をうまく適用できるか、不安要素が多かった。
現地生産と“自主規制”
トヨタはカリフォルニアに小型トラックの組立工場を保有しており、日産もトラック工場を建設することを決定した。それでも乗用車工場の進出には両社とも二の足を踏んでいたが、次第に状況は切迫してくる。アスキュー通商代表が来日して貿易問題について日本政府と交渉し、重ねて対米進出を要求した。これを受けて通商産業省は、アメリカの輸入制限を防ぐためには日本の自動車メーカーがアメリカで生産を始めることが必要だという判断に傾いていく。
時間切れが迫る中、1980年7月にトヨタとフォードが共同生産に合意したとの声明が発表された。ニューモデルをフォードの工場で生産する計画があることを明らかにしたのである。結果的にはこの合意は翌年に撤回されるが、日本のメーカーの対米進出は既成事実となっていく。トヨタはゼネラルモーターズと提携して自動車生産を始め、1985年には単独での進出を決定することになる。
日米がお互いに配慮を見せることで、致命的な対立は避けられることになった。しかし、喫緊の課題である失業問題はすぐには解消しない。政治問題となっていたこの問題を沈静化させるには、わかりやすい行動が必要だった。1981年にはレーガン政権が発足し、何らかの決着が求められることになる。アメリカの議会には、日本車に対して年間160万台の輸入枠を設けるという法案が提出されていた。
1981年5月、ブロック通商代表と協議を重ねた通商産業省は、日本車メーカー各社が対米輸出を7.7%削減すると表明した。1980年の182万台という実績から14万台減らした168万台という輸出枠を設定したのである。政府間の協定ではなく、“自主規制”という形をとった。日本車は供給不足になり、一部の車種ではプレミア価格がつくまでになった。
輸出枠は1984年に185万台になり、1985年には230万台まで拡大し、1993年に撤廃。その後は日本車の海外生産が急速に進み、2007年には国内生産を上回った。今や日本のメーカーは、中国や東南アジア、欧州、中南米、アフリカにも生産拠点を抱えている。自動車産業のグローバル化は、2国間の貿易の枠をはるかに超えて進展していったのである。
(文=webCG/イラスト=日野浦剛)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。
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