第637回:カルロス・ゴーン被告はレバノンへ “逃げる”という選択肢の是非を考える
2020.01.10 マッキナ あらモーダ!ゴーン被告、舞妓に変身?
日産自動車元会長のカルロス・ゴーン被告が2019年12月末、保釈条件に違反して海外逃亡した事件は、欧州メディアでも即座に報道された。
筆者が住むイタリアで最初に報じられたのは、2019年12月31日の朝だった。筆者が公共テレビ放「RAI」のニュース専門チャンネルを見ていると「元ルノー・日産会長のゴーン氏、東京から逃亡」の速報文字が突如現れた。
フランスのメディアによる報道は、日本のニュースでも伝えられているので、ここでは繰り返しを避ける。
その後はというと、仏・伊とも日本のメディアほど大きな扱いとはならなかった。
年が明けて2020年になってから、フランス人の知人に「なぜゴーン被告逃亡が、大きく扱われないのか」と聞けば、即座に「もっと大切なニュースが数々あるから」と答えが返ってきた。
確かにそのとおりだ。フランスでは年金改革に反対するための大規模デモが年を越すことが確実となった。イタリアでも連立与党「五つ星運動」における所属国会議員の相次ぐ離脱や、高速道路の運営権をベネトン家の資産管理会社からはく奪するか否かといった、直近の内政問題が山積している。
2020年1月3日になると、アメリカ軍によるイランのソレイマニ司令官殺害の報道で、さらにゴーン報道は小さくなってしまった。
それでも自動車愛好家の間では、それなりに注目されたようだ。フランスの知人は、舞妓(まいこ)に変装したゴーン被告のパロディー合成写真をSNSでシェアしてきた。そして「日本人で逃亡を手助けした人物が出てこないのが不思議だ」とメッセージを送ってきた。
彼は「残念なことに人は金の亡者となりやすく、金が簡単に手に入ると、すぐに横領することを考える」と話す。「もし彼が横領をしたのなら、法の裁きを受けるべきであった」と話す。
いっぽうで「自動車そのものに関心のある私としては、彼の貢献で、ルノーは大変いいクルマを生み出した」とも振り返る。
逃げた政治家たち
年明け、筆者が住むイタリア・シエナで新聞・雑誌販売店に赴いてみた。客待ち中に売り物の新聞をよく読んでいる店主だが、ゴーン被告逃亡の記事は見逃していたようだ。
筆者が詳細を教えると、店主はひとこと「クラクシを思い出すな」と答えた。クラクシとは、1980年代にイタリアの首相を務めたベッティーノ・クラクシである。
イタリア社会党の書記長や欧州議会の議員も務めた彼だが、1992年に大規模な汚職事件が発覚すると、たちまち捜査の対象となった。
やがて行われた裁判で形勢不利となったクラクシが選んだのは、地中海の対岸であるチュニジアへの亡命だった。ゴーン被告と同様に旅券が押収されていたにもかかわらず、であった。
結局クラクシは亡命から5年半ほどチュニジアで暮らして、2000年1月に現地で死去する。だが、時にインタビューに答え、時にイタリアから訪ねてきた家族と過ごしながら、穏やかな気候のもとで悠々自適の日々を送る晩年の彼の様子が、当時たびたびテレビで放映されていたものだ。
逃亡という行為を日本的価値観で「潔くない」と判断するのは簡単だ。筆者も日本で生まれ、教育を受けたから、当時のクラクシの行動を知って真っ先に頭に浮かんだのは同様の感想であった。
イタリアでも、クラクシの汚職が露呈した直後、感情をあらわにしたローマ市民が、彼や彼の公用車だった「ランチア・テーマ」に無数の卵を投げつけた。
しかし今日でも、この国では、左派政党をまとめ上げたクラクシの功績を評価する声は少なくない。彼の逃亡行為に関しても、比較的容認する空気がある。各地に「ベッティーノ・クラクシ通り」の名がそのまま残るのは、その表れである。
その解釈を善悪や今日の評価ではなく、歴史的事実としてさらに記すなら、1940年のドイツ軍によるパリ占領後、フランスのシャルル・ド・ゴールは英国に亡命している。
近年では、スペイン・カタルーニャ州元首相のカルラス・プッチダモンが、2017年に国家反逆罪でスペイン政府に起訴されると、ベルギーに脱出した。
当然のことながら、ド・ゴールもプッチダモンも政治家であり、脱出先からも本国の同志と連絡を維持しているので、実業家のゴーン被告とはあまりに状況が違う。
しかしながら、一般人の視点からすると、要人の「脱出」といった行為は、日本で考えるよりも身近だと言っても過言ではないのである。
「逃げる」ことを恥としない文化
こうした政治家たちの「逃亡」については、これからも議論が続くだろう。ゴーン被告の今回の行動も、またしかりだ。
しかしながら、彼らの行動は間接的に、一般市民にも「国外脱出」という選択肢があることを認識させたと筆者は考える。
過去10年間で、国外に移住したイタリアの若年層は25万人に及ぶ(レオーネ・モレッサ財団が2019年10月に発表した統計による)。
彼らの多くは、停滞するイタリア経済や改善されない雇用状況に見切りをつけて、国を後にした。
フランスにも、18歳から24歳の10人中7人が国外で暮らしたいと答えているというデータがある(2018年10月、ユーゴヴ調べ)。
日本では、政治でも企業でも、一度失敗すると復活はかなり困難である。海に囲まれた島国という地理的立場ゆえの閉塞(へいそく)感もある。
いっぽうで「国境をまたげば、新たな活路が見いだせるかもしれない」という、大陸に住む人々がもつ希望は、最悪の選択、つまり自殺を抑止するセーフティーネットの役割も間接的に果たしているのではないかと筆者は推察する。
世界保健機関(WHO)の2016年統計によれば、人口10万人あたりの自殺者数は、日本が14.3人に対して、フランスが12.1人で、イタリアに至っては5.5人にとどまる。
再び歴史を引き合いに出せば、第2次大戦中のイタリア海軍の人間魚雷「SLC」、通称“マイアーレ”や爆装ボート「MTM」は、操縦士が脱出・退避できる構造になっていた。知人で、それらを数々の著書で紹介しているイタリア軍研究家の吉川和篤氏によれば、「イタリアにはスーサイドアタック(自爆攻撃)用の軍備はなかった」と語る。兵士の士気を維持するためにも、不要な犠牲を出すことは極力避けたのである。SLCは、アレクサンドリアでイギリス戦艦2艦を爆破着底させたり、ジブラルタルで輸送船を沈めたりしている。MTMもクレタ島で戦果を上げた。それらはいずれも「彼らのメンタリティーの効果の現れではないか」と吉川氏は分析する。つまり、逃げることを恥としない思想が奏功したといえる。加えて、氏は日本ではMTMに影響を受けて、海軍・陸軍とも同様のボートを開発・実戦投入しているが、いずれも脱出装置はなかったことも指摘する。
最後に、あるイタリアの自動車販売関係者に、「もしゴーン被告の立場に置かれたら、どうする」と聞くと、「俺だって逃げる」という答えが返ってきた。「ま、金があれば、の話だが」というオチが付いていたものの、「自身の正当な主張を抱いたうえで逃げる」ことは恥辱的行為ではないのだ。
今回ゴーン被告が実行した逃亡という行為を判断するには、司法制度の現状や国家の主権といった諸問題に言及する必要があり、本欄では結論に達することは到底できない。日本の、いわば「恥」の文化を否定するつもりもない。
しかし、「逃亡」という選択肢が歴史的メンタリティーとして存在する地域があることも、今回の事件を考えるのに決して無駄にはならないだろう。
(文と写真=大矢アキオ<Akio Lorenzo OYA>/編集=藤沢 勝)

大矢 アキオ
Akio Lorenzo OYA 在イタリアジャーナリスト/コラムニスト。日本の音大でバイオリンを専攻、大学院で芸術学、イタリアの大学院で文化史を修める。日本を代表するイタリア文化コメンテーターとしてシエナに在住。NHKのイタリア語およびフランス語テキストや、デザイン誌等で執筆活動を展開。NHK『ラジオ深夜便』では、24年間にわたってリポーターを務めている。『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)、『メトロとトランでパリめぐり』(コスミック出版)など著書・訳書多数。近著は『シトロエン2CV、DSを手掛けた自動車デザイナー ベルトーニのデザイン活動の軌跡』(三樹書房)。イタリア自動車歴史協会会員。
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