第670回:かつてのフィアットの“大番頭” 「鉄の経営者」と呼ばれたチェーザレ・ロミティの最期
2020.08.28 マッキナ あらモーダ!アリタリア航空からフィアットへ
2020年8月18日、元フィアット会長が97歳で死去したことをイタリアのメディアが伝えた。
ただし、夏休みシーズン真っ盛りのことである。若者たちにとっては、今夜どのガールフレンドを、どこのカフェに誘うかのほうが重要であったに違いない。なにしろ彼がフィアットを去ったのは22年も前のことだからだ。
いっぽう50代以上の人々は、さまざまな感慨をもって、この訃報に接したに違いない。
彼の名はチェーザレ・ロミティ。日本の自動車ファンの中でも知っている人は限られるだろう。なぜなら、彼は今日の自動車ビジネスのスターのように、自らニューモデルの前で意気揚々とプレゼンテーションをする人間ではなかったからだ。代わりに、完璧なまでの策謀家であったといえる。
ロミティ氏(以下、他の人物も含めて敬称略)はローマで1923年に生まれた。日本で言うところの大正12年である。
経済学および経営学を学んだのち、ローマに近いコッレフェッロにあった兵器用火薬会社のボンブリーニ・パローディ・デルフィーノで社会人としての第一歩を踏み出す。1947年、24歳の年であった。
社内の財務畑で着々と昇進した彼は、やがてイタリア屈指の銀行家であったエンリコ・クッチャに接近する。
そうして生まれた人脈から1970年、47歳の年には産業復興公社(IRI)の傘下にあったアリタリア航空に総責任者として移籍。続いて社長に昇進した。
3年後の1973年にはIRIの金融関連会社に移る。参考までに当時のIRIは公営であったものの、規模としてはイタリア最大の企業体であった。
ところが、同年に起きた第1次石油危機がロミティの運命を変える。
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リビアからの資金調達と歴史的労働争議
石油危機当時のフィアットは大幅な販売減を受け、経営の立て直しを迫られていた。
そこで前述した銀行家のクッチャは、フィアット創業家のジョヴァンニ・アニエッリ(1921~2003年)にロミティを推薦する。
かくしてロミティは1974年、イタリア首位のIRIから第2位のフィアットへと移籍することになった。
そして2年後の1976年にはジョヴァンニ・アニエッリの弟であるウンベルト、そして企業家のカルロ・デ・ベネデッティとともに共同社長に就任する。53歳の年であった。
就任直後からロミティの辣腕(らつわん)ぶりは、イタリア社会の注目を集めるようになる。フィアットの資本体制強化を図るべく、資金調達先として選択したのはリビアのカダフィ政権(当時)系金融会社だった。
1980年に唯一の代表取締役となると、すぐさま2万4000人、次いで1万4000人もの人員整理案を発表した。
労働組合は反発。1カ月以上の工場封鎖や「4万人の行進」といわれるトリノ市街でのデモを引き起こすことになった。
最終的に人員整理の対象を2万2000人とすることで妥結したが、これは1969年の「熱い秋」に次いで、イタリア戦後史上に名を残す労働争議となった。
1982年には、フィアット草創期からの歴史的生産拠点であるリンゴット工場の閉鎖に踏み切る。
こうしたロミティを、いつしかイタリアのメディアは「鉄の経営者」と表現するようになった。当時、英国首相だったマーガレット・サッチャーが「鉄の女」と称されていたのになぞらえたものであろう。
かくもアニエッリ家の番頭として、着々と立て直し策を実行していったロミティだが、やがてライバルが現れる。
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ギデッラの追放
そのライバルとは、トリノ工科大学出身のエンジニア、ヴィットリオ・ギデッラ(1931~2011年)である。
本欄第622回で記したとおり、ギデッラは1980年代に乗用車部門のフィアット・オートの責任者としてフィアットの「ウーノ」「クロマ」、そして「ランチア・テーマ」などのヒット作を連発した。1986年にフィアット傘下入りしたアルファ・ロメオから送り出した「164」も高い評価を獲得した。
それらはジョヴァンニ・アニエッリ会長を大いに満足させ、ギデッラが自身の後継候補であることを匂わせる発言まで飛び出すようになった。
ここまでアニエッリ家に尽くしてきたロミティとしては、まさに心外であったに違いない。
そこでロミティはフィアットの持ち株会社化構想を掲げる。先に買収していた保険会社や資本参加していた化学・エネルギー企業を傘下に置く、経営多角化計画であった。
これは創業時から自動車製造を中心に据えてきたフィアットにとって一大転換であった。
対してギデッラは、副会長となっていたウンベルト・アニエッリとともに、依然として全体の7割近くの利益を生み出していた自動車へのさらなる投資を主張した。
最終的にジョヴァンニ・アニエッリ会長の信任を得たのは、ロミティ案だった。
さらにロミティはギデッラと対決を深め、1988年11月にライバルを辞任に追い込むことに成功する。真相は明らかにされていないが、ギデッラが一部のサプライヤーと不適切な関係にあったとして、ロミティがジョヴァンニ・アニエッリに報告したとの説がある。
そして1996年、ジョヴァンニ・アニエッリが名誉会長に就任すると、ロミティは彼の後継として会長に昇格した。
同年イタリアにやってきた筆者は、テレビでたびたびロミティ会長の姿を見ることになった。彼の口はいつも「への字」で、厚い眼鏡の奥にある目は常に冷たかった。限りなく地味な風貌は、世界の自動車産業の中でも特にポップな印象を抱いていたフィアットのイメージからは程遠かった。
以前に雑誌で見ていたギデッラの笑顔やはつらつとした姿とは、あまりに対照的だった。
ロミティ時代の「影」
フィアットでロミティは、75歳の役員定年を迎える1998年まで会長職を務めた。24年間の奉公の末に手にした退職金は1億0150万ユーロ、現在の換算レートで127億円にも及んだ。
退職金としてはイタリア史上最高額であった(出典:『イル・ソーレ24オーレ電子版』2019年9月18日付)。
さらに同年には、大手メディア企業であるRCSの会長職に就いている。
参考までに、フィアット時代の不正経理の疑いで当局からの捜査対象となったが、その後に不起訴処分となっている。
筆者の見解では、ロミティがフィアットという企業に成果を残したかといえば疑問である。
1990年の湾岸戦争後でも4割近くあった国内シェアは、1993年には10%台にまで急減した(データ出典:『ガッツェッタ・モトーリ』および『イル・ファット・クォーティディアーノ』)。彼が去った後の2000年、フィアットは4億ユーロもの負債を抱え、深刻な経営危機に陥った。
ロミティが構想した多角化計画もその後に頓挫し、最終的には2004年に社長に就任したセルジオ・マルキオンネが、不採算部門を切り捨てる役を引き受けることになった。
当時からイタリアおよびヨーロッパの自動車市場を観察していた筆者からすれば、ロミティ時代の商品企画の失敗も指摘しておかねばならない。
ギデッラの忘れ形見ともいえるモデルがすべて出尽くした後、1990年代中盤以降=ロミティ時代のフィアット車は精彩に欠けていた。
「ブラーヴォ」「ブラーヴァ」「パリオ」「シエナ」「マレア」「セイチェント」と、いずれも大きな成功にはつながらなかった。
実際にブラーヴァを所有していた筆者からすると、デザインは素晴らしくディーゼルターボエンジンは極めて実用的なトルクカーブを持っていた。しかし、細部の品質は日本車やドイツ車の水準に、明らかに及んでいなかった。
ロミティの会長在任中に企画されながらも、彼の退職後に発表されたモデルを見ても2代目「プント」はともかく、「スティーロ」「イデア」といった、イタリア人の記憶からも消えつつあるモデルが並ぶ。
傘下のランチアにしても、ヒット作は「イプシロン」のみといっていい。辛うじてアルファ・ロメオが「156」「147」などで話題を振りまいた。
フィアットはルノーやプジョー/シトロエン、オペルといったポピュラーブランドに、ランチアはドイツのプレミアムブランドに、それぞれ市場で圧倒されてしまったのである。
シェアを本格的に盛り返す商品は、2007年の3代目「500」まで待つことになる。
そうした状況をつくってしまったひとつの原因は、後年大きく開花するデザイナーが、ロミティ時代に次々とフィアットを去ってしまったことだ。
「クーペ・フィアット」をまとめたクリス・バングルは1992年にBMWに移り、「バルケッタ」を手がけたアンドレアス・ザパティナスも続いてトリノを去った。アルファ・ロメオで「8Cコンペティツィオーネ」をまとめたヴォルフガング・エッガーは1998年にセアトに移籍している。アルファ・ロメオの156および147のデザイン開発を率いたワルター・デ・シルヴァもまた、1999年にセアトへと移籍する。
それ以外にも当時のフィアットは人材の流失が激しく、そのたびに筆者は「またも流出か」と驚いたものだ。いまだ大半が現役である彼らの口からは、当時のフィアットにおける社内事情を聞くことは不可能に近い。しかし彼らが、移籍後の企業でヒット作を連発したことを考えると、ロミティ体制下のフィアットが、創造性あふれる人材にとって魅力ある職場でなかったことは紛れもない事実だ。
自動車メーカーしかり、ファッション業界しかり。番頭役がいてこそビジネスが成立する。しかし、その番頭役であるロミティがものづくりの大切な原動力であるクリエイターを軽視していたことは否めない。
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壮絶な少年時代と晩年
最後に、ロミティに別の一面があったことも筆者は記しておかなければならない。
彼が晩年にローマ美術アカデミーの総裁を務めていたことは略歴で明らかにされていたが、音楽にも造詣が深かったようでミラノ・スカラ座にも足しげく通っていた。死去当日、同劇場はSNSに写真とともに追悼文を掲載している。
思えば1980年代末、筆者がロミティという人物を初めて知ったのは、ドイツ誌に掲載された記事だった。多忙な彼がいつ技術を習得したのかは記されていなかったが、そこに添えられていたのは彼がパイプオルガンを弾く写真だった。
いっぽう2005年9月、ロミティが自動車で負傷したことを知った。
自邸の敷地内でランドローバーを運転していたところ、誤って建物に衝突してしまったという。悪天候で路面状態が悪くなったところ、操舵を誤ったためだった。
それを伝えたのは、筆者が住むシエナの地元新聞だった。ロミティは1990年代初頭、シエナ県チェトーナ村に18世紀から続くワイン農園を手に入れ、週末に通っていたのだった。
わが家から100km近い距離があるとはいえ、同じ県内に彼がいたとは、そのときまで知らなかった。
今回の死去にともない、イタリアのいくつかのメディアが伝えたロミティの少年時代のエピソードにも驚いた。
彼の家は貧困を極めていた。郵便局員の父親がファシスト党に反対の対場をとって職場から追放されたうえ、47歳の若さで死去してしまったためだった。ロミティは当時をこう語っていたという。「本当に飢えていた。だから私は盗みも働いた。肉や魚が足りなかったのではない。パンやパスタが足りなかったのだ」。つまり、主食さえまともに食べられなかったのである。
フィアット在職時代は、左派系テロ組織に最も命を狙われていたイタリア国民のひとりであったに違いない。にもかかわらず常に平然としていたのは、そうした極限ともいえる少年時代を経験したゆえに、何も恐れるものがなかったと考えられる。
ロミティを納めたひつぎはミラノでの葬儀に続いて、死から2日後の8月20日にチェトーナ村の小さな教会に運ばれた。そして近親者だけの儀式ののち、先に妻が眠る村の墓地に埋葬された。
それは恐らく本人の遺言であったに違いない。
貧困からはい上がり、大都市トリノを舞台に権力闘争を勝ち抜いて巨万の富を得た人物が、モンテカルロでもジュネーブでもなく、人口2700人あまりの小さな村を終(つい)の地に選ぶとは。
彼の農園のウェブサイトを訪れると、ワインには「ノンノ・チェーザリ(チェーザリじいちゃん)」という名前がつけられている。
これまで冷徹なビジネスマンとして片づけていた人物が、にわかに人間くささを帯びてきた。当惑を隠せない、今の筆者である。
(文とイラスト=大矢アキオ<Akio Lorenzo OYA>/写真=FCA、Akio Lorenzo OYA/編集=藤沢 勝)

大矢 アキオ
Akio Lorenzo OYA 在イタリアジャーナリスト/コラムニスト。日本の音大でバイオリンを専攻、大学院で芸術学、イタリアの大学院で文化史を修める。日本を代表するイタリア文化コメンテーターとしてシエナに在住。NHKのイタリア語およびフランス語テキストや、デザイン誌等で執筆活動を展開。NHK『ラジオ深夜便』では、25年間にわたってリポーターを務めあげる。『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)、『メトロとトランでパリめぐり』(コスミック出版)など著書・訳書多数。近著は『シトロエン2CV、DSを手掛けた自動車デザイナー ベルトーニのデザイン活動の軌跡』(三樹書房)。イタリア自動車歴史協会会員。
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