第705回:どうしてモーターショーがなくなったのか? イタリアのケースを大矢アキオが語る
2021.05.13 マッキナ あらモーダ!強行突破の思い出
読者諸兄姉もご存じのとおり、日本自動車工業会は2021年4月22日、秋に予定していた東京モーターショー2021の中止を発表した。
同会の豊田章男会長は、「次回は、さらに進化した『東京モビリティーショー』としてお届けしたいと思っておりますので、今後ともよろしくお願いいたします」とのコメントを発表した。
日本国内でかなりの話題となったことは、「知ってますか?」という親切なSNSメッセージの発信元が、日ごろは自動車に関心がない音大の後輩であったことからも察することができた。
そこで今回は、“モーターショーがない社会”とはどういうものかについて、先例であるイタリアの場合を説明しながら描写していきたい。
その前に、筆者自身の追想を少々。
東京モーターショーが中止されるのは、1954年に第1回が開催されて以来、初めてのことだ。
かつても記したように、幼少時代のわが家にとって、東京・晴海ふ頭(当時)で開催されていた東京モーターショーは、毎年恒例(1973年までは毎年開催)のレクリエーションだった。
さらにさかのぼれば、亡母は筆者を産む以前、日比谷公園で開催された第1回全日本自動車ショウ以来の常連であった。そのため家には、例の「車輪を押す人類」が付いた記念スプーンや、今よりふたまわりほど判型が小さかった『自動車ガイドブック』が転がっていたものだ。
中学生になると筆者は1人で行くようになった。しかし、一般公開日のあまりの混雑にへきえきした。
そのため、大学生だった1980年代中盤に、関係者向けの公開日に入れてもらうことを画策した。
最初にコンタクトしたのは、両親が知っていた某輸入車インポーターの名物広報部長だった。だが結局、彼によるサポートはなしのつぶてで終わってしまった。
こうなったら強行突破である。時効ということで告白すれば、どさくさにまぎれて通用口からの入場に成功した。昼食帰りの関係者、具体的にはいすゞ自動車のスタッフの群れにまぎれたのである。実年齢よりもおっさんっぽい風貌だったことが功を奏したと思われる。会場内では、当時人気作家だった田中康夫氏を見つけてサインを求めたところ、取材中にもかかわらず快諾してくれたのを覚えている
自動車雑誌『NAVI』のスタッフにも会うことができた。まさか3年ちょっと後に、彼らと部署は違っても同じ会社で働くことになるとは、夢にも思わなかった。
東京モーターショー中止の報道によって、かくもさまざまな記憶が走馬灯のように駆け巡った。
トリノもボローニャも消滅
筆者が住むイタリアで東京ショー中止のニュースは、多くの自動車系メディアと一部のテック系ウェブサイトが取り上げていた。いっぽう筆者が知る限り、一般メディアでは報道されなかった。
そのイタリアは、今日では国際規模のモーターショーがひとつも開催されない国である。東京モーターショーは廃止となったわけではないものの、日本からすれば「モーターショー消えちゃった先進国」というわけだ。
かつてこの国には、国際自動車工業連合会(OICA)認定の自動車ショーが2つ存在した。ひとつはトリノ、もうひとつはボローニャである。
トリノモーターショーはその起源を1900年にまでさかのぼれる歴史あるイベントだった。一時期ミラノやローマに移されたことがあったが、第2次大戦後はトリノに定められ、石油危機以前の1972年までは原則毎年、74年からは隔年で催されてきた。開催時期も時代によって変遷したが、末期には4月末が恒例となっていた。
ところが2002年、計画されていた第69回が中止された。決定したのは民間会社のプロモーター・インターナショナルである。1994年からイベントオーガナイザーを務め、1999年からはショー会場のリンゴット・フィエレも所有していた。
筆者が覚えているのは、イタリアで活躍する日本人デザイナーとの電話である。「いよいよトリノショーですね」とのんきに話すと、受話器の向こうの相手から「いや、今年はなくなっちゃったんですよ」と告げられて驚いた。
自らも3回ブース設営に携わったというトリノ人の関係者が今回、筆者に解説してくれたところによれば、中止となった最大の原因は地元出展社であるフィアットの経営危機であった。
同社は2000年3月に米国ゼネラルモーターズと資本・業務提携を果たしたものの、劇的な業績回復にはつながらなかった。そうしたことからショーへの参加に極めて消極的になっていった。
それに次ぐ理由として「他国のブランドも、トリノショーはフィアット色が強すぎて、費用対効果が薄いと判断するようになっていた」と分析する。
加えて、主催のプロモーター・インターナショナルは、もうひとつの国内ショーであるボローニャのオーガナイザーもひと足先に1981年から務めており、次第にそちらに注力するようになった。ちなみに同社の創業社長であるアルフレード・カッツォーラ氏(1950年~)は、ボローニャの出身であった。
そうした結果、100年続いたトリノモーターショーに幕が下ろされることになった。参考までに2002年度はカーデザインに焦点を当てることが発表されていて、筆者自身はそれなりに期待していたのだが、幻に終わってしまった。
もうひとつのボローニャは1976年に第1回が開催された、比較的若いモーターショーであった。
当初は見本市会場自体が主催していたが、プロモーター・インターナショナルがその任を果たすようになってから出展社や来場者がみるみる増加。その集客力を評価して、新型車を世界初公開する主要ブランドも現れるようになった。
開催期間は毎年、イタリアの祝日である12月8日を挟む形で組まれていた。前述の関係者によれば、カレンダーを巧みに利用するのはカッツォーラ氏の常とう手段であった。
会場も広く、ミニ周回コース(スクーデリア・フェラーリのピットストップ実演などが盛んに行われた)が複数箇所に設営されたことから、多くのファンを集めた。
来場者を呼び込む企画も、さまざまに用意されていたのを覚えている。
ある年、南部のアクセントで話す若者たちがいたので筆者が聞いてみると、「ナポリからのバスツアーが企画されているので、毎年それに参加しているんだよ」と教えてくれた。そればかりかイタリア国鉄の協力で、毎年各地から臨時列車も運行されていた。
来場者数のピークは2006年で、160万人を記録。しかし、その後ボローニャは徐々に迷走を始めることになる。
2007年にカッツォーラ氏は、プロモーター・インターナショナルをフランス・リヨンのイベント会社であるGLイベンツに売却している。
さらに雲行きが怪しくなってきたのは、2013年のことだった。同年10月、2カ月先に迫っているショーの中止を急きょ発表。それについては、本欄第318回に詳しく記したので興味のある方は参照されたい。
メーカーの出展見送りの流れには歯止めが利かず、翌2014年に復活したものの2015年には再び中止に。2016年に続いて行われた2017年が最後となった。
採算性が低いまま慣例に従ってイベントを継続する弊害は承知している。だが、ボローニャショーの場合は、オーガナイズ権を外国企業が握っていたことで運命が決まったのは確かだ。
ちなみに各国・各地のショーを取材してきた筆者が、いわゆるオワコンを直感した共通のポイントというものがある。
- 空きスペースや休憩所が目立つ。もしくは子ども絵画展の類いがある=出展社不足。
- メーカーや主催者が歴史車両でブースを埋める=世界初公開車を他の重要なショーに回した結果。渾身(こんしん)のレストアによる成果なら鑑賞に値するが、取りあえず収蔵車両を羅列することが多い。
- 警察や軍関係のブースのほうが、自動車メーカーのそれよりもにぎわっている、もしくは目立っている。
- レーシングドライバーや芸能人など、日替わりゲストの告知がやたらにぎやか。
- 小学生の社会科見学が訪れている=入場者数の水増し
これらのいくつかが該当したショーは、大なり小なり存続に関して問題が起きたものだ。
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意外に近いジュネーブの存在
アメリカでは、新型コロナウイルスの感染拡大が収束する兆しがみえてきたことで、各地でモーターショー再開のニュースが報じられている。
いっぽうイタリア人の間で、モーターショーの復活待望論はあるか? ということについても観察せねばならない。
世論に関して言えば、トリノやボローニャのような従来型のモーターショーを懐かしむ声は、一般メディアに現れない。筆者の周囲でも聞こえてこない。もはやモーターショーは、クルマ好きの会話に全く出てこない。イタリア社会はモーターショーの存在を忘れた感がある。
経営者サイドの考えも同じ傾向にあることを示しているのは、日本のJAFに相当するACIの機関誌『ラウトモービレ』だ。2021年1月号で「ショーの最後」と題した記事を巻頭で組んでいる。新型コロナの影響で、製造業者はさらに費用対効果を重視するようになり、自社の新製品をリアルな会場ではなくオンラインで公開する考えがあると回答した会社経営者が6人に1人にのぼるというデータを紹介している。
トリノに関して来場者視点で筆者に分析してくれたのは、かつてフィアットの広報マンを務め、今は独立してPRエージェンシーを経営する知人だ。
彼はトリノショーが一般人にとって不要になった理由をこう説明する。
「ジュネーブがそれほど遠くなかったからだ」
より国際的で出展社も多いショーが、クルマで3時間半、距離にして300km足らずのところで催されるのだ。ましてやトリノショーは、ジュネーブモーターショーの約1カ月後に開催というスケジュールだった。これでは未練がなくなるのも当然だ。
昨今、いわゆるメーカーのCASEへの注力および新型コロナによるショー開催中止によって、イタリアでコンセプトカー製作に携わってきた企業の一部は大きな打撃を受けている。
ただし2002年当時の、トリノショー中止によるプロフェッショナルへの影響は限定的だったようだ。自動車ショーには、ブースの設営からターンテーブルのレンタルまで、さまざまな業種・職種の人々が携わる。前述した知人によれば、トリノでそうした業務にあたっていた企業の多くは、ミラノの家具見本市やトリノのブックフェアなど他のショーで埋め合わせできたと回想する。
「ジュネーブまで足を延ばすのは、時間的にも費用的にもおっくう」という来場者はボローニャに流れた。
そのボローニャショーが消滅すると、特定のジャンルにより特化したイベントがその受け皿となった。
新車ファン向けイベントの好例は、トリノで2015年から2019年まで開催されたパルコ・ヴァレンティーノモーターショーだ。
公園内を舞台に、主に地元販売店やイタリアの販社が、それぞれ数台の車両を展示する形式だった。2019年には全54ブランドが約2000台を展示し、来場者も70万人に達した。
その後、トリノ市の環境政策との矛盾を訴える一部関係者と対立。トリノを離れることになったが、2021年6月にはミラノ市内の街路およびモンツァサーキットに場所を変えて開催される予定だ。イタリアで新型コロナ以降初の大規模自動車イベントということで、結果が注目される。
ちなみに『オートモーティブニュース2021年5月10日付電子版』では、米国でも販売店協会は「より適切な規模かつ地域を絞ったショーを、多数企画するのが主流になるだろう」と予想している。要するにショーは、マーケットとしての見込みがある都市で、より小規模に開催されるかたちになるということだ。
また一部ブランドは、オーナー向けに特化したサーキットイベントなどに力を入れるようになった。毎年開催されてきたアバルトデイがその一例である。
世界的名作を見たかった
筆者が考えるに、日本でも東京モーターショーが開催されなくなれば、イタリアと同様、意外に早く人々の記憶から消えてゆくに違いない。さまざまな分野の新製品情報があふれる社会では、情報の鮮度が恐ろしく短い。実際過去10年のヨーロッパで、10月初頭に開催されるパリとフランクフルトにおけるモーターショー(順番に隔年で開催)の話題は、Appleによる秋の新製品発表会に何度かき消されたことだろう。
ただし個人的には、東京モーターショーでもうひとつ残念なことがある。それはコンセプトカーに関することだ。
一台一台のコンセプトカーには多くの人が携わり、カタチとなっている。それはどのショーでも同じだ。
かつて日本である夏の日に、首都圏とはいえとんでもない山奥にある板金工場を訪ねたことがある。市販車ベースではあるものの、不思議なルーフ形状をしたクルマに、親方が独り取り組んでいた。
同じ年の秋、東京モーターショーでのことだ。某日本ブランドのターンテーブルにコンセプトカーとして載っていたのは、あの酷暑の日に親方が格闘していたクルマだった。あとで知ったが、彼は2次協力会社として参画していたのだった。
また個人的には、中学生時代の1981年に見た「マツダMX-81」の未来感、大学生だった1985年に目のあたりにした「日産CUE-X」の凛としたフォルムは今でも脳裏に焼きついている。
しかし、ベルトーネが1970年のトリノショーで披露した「ランチア・ストラトス ゼロ」のような、自国の自動車産業の優秀性を長きにわたって代弁するようなコンセプトカーが、東京からはついぞ現れなかった。それこそ筆者が実に心残りなことなのである。
(文=大矢アキオ<Akio Lorenzo OYA>/写真=Akio Lorenzo OYA、マツダ/編集=藤沢 勝)
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大矢 アキオ
コラムニスト/イタリア文化コメンテーター。音大でヴァイオリンを専攻、大学院で芸術学を修める。日本を代表するイタリア文化コメンテーターとしてシエナ在住。NHKのイタリア語およびフランス語テキストやデザイン誌等に執筆活動を展開。NHK『ラジオ深夜便』では、22年間にわたってリポーターを務めている。『Hotするイタリア』、『イタリア発シアワセの秘密 ― 笑って! 愛して! トスカーナの平日』(ともに二玄社)、『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)、『メトロとトランでパリめぐり】(コスミック出版)など著書・訳書多数。