第236回:サーブは喪失を抱えた男をどこに連れていくのか?
『ドライブ・マイ・カー』
2021.08.19
読んでますカー、観てますカー
村上春樹原作でカンヌ脚本賞受賞
今年のカンヌ映画祭で脚本賞を獲得して話題になったのが、『ドライブ・マイ・カー』である。監督は濱口竜介で、大江崇允とともに脚本を書いた。濱口の前作『寝ても覚めても』もカンヌに出品されて高い評価を得ている。東出昌大を主演に据えながら破綻なく仕上げたのは、監督として十分な力量を持っていることの証明である。
『ドライブ・マイ・カー』は、以前にもこの欄で紹介したことがある。2013年の『文藝春秋』12月号に掲載された村上春樹の短編だった。その時のレビューでは「2年ぐらい後に、この小説を序章とする長編小説が書かれるのではないかと、ひそかに期待している」と書いたのだが、まさか映画という形で実現するとは想像もしなかった。
連作として4編の小説が発表され、他の媒体に載った作品と描き下ろし1編を加えて2014年に単行本『女のいない男たち』になった。『ドライブ・マイ・カー』は、『文藝春秋』に発表されたものから少し改変されている。「小さく短く息をつき、火のついたたばこをそのまま窓の外にはじいて捨てた。たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」という文章を中頓別町会議員が問題視し、単行本ではその箇所が「北海道※※郡上十二滝町」に変えられたのだ。『羊をめぐる冒険』でも使われた架空の住所だが、映画でも踏襲されている。
映画『ドライブ・マイ・カー』は表題作のストーリーがメインだが、単行本に収められた『シェエラザード』と『木野』の要素も取り入れられている。“女のいない男たち”という共通点はあるにせよ、まったく別の物語を力わざで一つにまとめた。脚本賞受賞は納得である。
黄色のカブリオレではなく赤いクーペ
主人公は俳優で演出家の家福。夫婦で穏やかな生活を送っていたが、彼は妻がほかの男と寝ていることを知っていた。家福は運転手として雇った若い女性に、クルマの中でその話をする。大筋の物語は小説と映画で変わらないが、いくつかの変更点がある。映画版では家福に悠介という名が与えられ、妻は音という名と脚本家という職業を持つことになった。悠介は西島秀俊、音は霧島れいかが演じている。
小説では東京だけで物語が進んだが、映画の舞台は広範囲だ。メインは広島で、北海道までロングドライブをする。最後にはなぜか韓国に渡る。最初の構想では、釜山でロケをすることになっていたようだ。コロナ禍で海外での撮影が不可能になり、広島で演劇祭が行われることになった。それでも、韓国人を含む外国人俳優がワークショップに参加するという筋立ては守られている。
小説では40代だった高槻は年齢が下げられ、結構チャラい独身貴族に。演じるのは岡田将生である。音と高槻の情事は小説では推測でしかなかったが、映画では行為の場を目撃する。『木野』に準じた設定だ。これは物語の根幹に関わる違いである。推測であれば、主人公の内面の問題として考えることもできる。しかし、映像で示されてしまえばそれは事実としてとらえるしかない。自己と演じる自己という観念性を帯びたテーマは、生々しい不倫のドラマになる。
そして、見た目で最も大きな改変は、クルマである。家福はある事情で自分で運転することができなくなり、自家用車の運転手を雇う。小説では黄色の「サーブ900カブリオレ」だったが、映画で使われているのは同じサーブ900ではあるものの赤いクーペなのだ。サンルーフは付いていて、そのおかげで映画ならではの印象的なシーンが生まれることになる。
免許を持っていなかった運転手
サーブはていねいに乗られていたという説明があり、実際に程度がよさそうだ。初代サーブ900が生産されていたのは1993年までで、今ではタマ数も少なくなっている。見つけるのは大変だっただろう。赤のボディーカラーはスクリーン映えするので、小津安二郎の赤いヤカンのような効果が期待できる。小津のヤカンは出番が少なかったが、サーブは全編に登場して走り回っていた。まるでサーブ900のイメージビデオのようだ。エンジン音が低くざらついていて、本物であることがわかる。
運転手の渡利みさき役は三浦透子。小説の描写どおり、ぶっきらぼうで無口で偏屈な女性になりきっている。俳優としては完璧な仕事ぶりなのだが、ひとつ大きな問題があった。彼女は運転免許を持っていなかったのだ。役が決まってから自動車学校に通ったという。超絶技巧を持つドライバーという役回りなので、相当に練習したのだろう。スクリーン上では本当に運転のうまい人に見えていた。
サーブの中で、家福はセリフの練習をする。上演することになっているのは、チェホフの『ワーニャ伯父さん』だ。カセットテープには妻が吹き込んだほかの登場人物のセリフが録音されていて、家福はそれに合わせて自分のパートを発声する。まるで妻が過去から語りかけてくるような印象を与えるのは、映画の特質をうまく使った手法の効果である。
村上春樹の作品では、女性は常に謎であり、解釈不能である。観念性をそのまま放り出すような記述が魅力でもあるのだが、映画ではさすがに肉付けが必要になる。家福がみさきの人生に向き合うことによって希望を見いだすというのは、エンターテインメントとして成り立たせるためのギリギリの選択だったのだろう。179分の濃厚な映像体験をした後に小説を読み直せば、新たな発見を得られるはずだ。
(文=鈴木真人)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。
-
第282回:F-150に乗ったマッチョ男はシリアルキラー……?
『ストレンジ・ダーリン』 2025.7.10 赤い服を着た女は何から逃げているのか、「フォードF-150」に乗る男はシリアルキラーなのか。そして、全6章の物語はなぜ第3章から始まるのか……。観客の思考を揺さぶる時系列シャッフルスリラー! -
第281回:迫真の走りとリアルな撮影――レース中継より面白い!?
映画『F1®/エフワン』 2025.6.26 『トップガン マーヴェリック』の監督がブラッド・ピット主演で描くエンターテインメント大作。最弱チームに呼ばれた元F1ドライバーがチームメイトたちとともにスピードの頂点に挑む。その常識破りの戦略とは? -
第280回:無差別殺人者はBEVに乗って現れる
『我来たり、我見たり、我勝利せり』 2025.6.5 環境意識の高い起業家は、何よりも家族を大切にするナイスガイ。仕事の疲れを癒やすため、彼は休日になると「ポルシェ・タイカン」で狩りに出かける。ただ、ターゲットは動物ではなく、街の人々だった……。 -
第279回:SUV対スポーツカー、チェイスで勝つのはどっち?
『サイレントナイト』 2025.4.10 巨匠ジョン・ウーが放つ壮絶アクション映画。銃撃戦に巻き込まれて最愛の息子を奪われた男は、1年後にリベンジすることを決意する。「マスタング」で向かった先には、顔面タトゥーのボスが待ち受けていた……。 -
第278回:W123の車内でかわされる愛の行為とは……
『ANORA アノーラ』 2025.2.27 『フロリダ・プロジェクト』『レッド・ロケット』のショーン・ベイカー監督が、シンデレラストーリーをぶっ壊す。「メルセデス・ベンツW123」の室内で行われる映画史上で最も叙情的な愛の行為を目撃せよ!
-
NEW
BMWの今後を占う重要プロダクト 「ノイエクラッセX」改め新型「iX3」がデビュー
2025.9.5エディターから一言かねてクルマ好きを騒がせてきたBMWの「ノイエクラッセX」がついにベールを脱いだ。新型「iX3」は、デザインはもちろん、駆動系やインフォテインメントシステムなどがすべて刷新された新時代の電気自動車だ。その中身を解説する。 -
NEW
谷口信輝の新車試乗――BMW X3 M50 xDrive編
2025.9.5webCG Movies世界的な人気車種となっている、BMWのSUV「X3」。その最新型を、レーシングドライバー谷口信輝はどう評価するのか? ワインディングロードを走らせた印象を語ってもらった。 -
NEW
アマゾンが自動車の開発をサポート? 深まるクルマとAIの関係性
2025.9.5デイリーコラムあのアマゾンがAI技術で自動車の開発やサービス提供をサポート? 急速なAIの進化は自動車開発の現場にどのような変化をもたらし、私たちの移動体験をどう変えていくのか? 日本の自動車メーカーの活用例も交えながら、クルマとAIの未来を考察する。 -
新型「ホンダ・プレリュード」発表イベントの会場から
2025.9.4画像・写真本田技研工業は2025年9月4日、新型「プレリュード」を同年9月5日に発売すると発表した。今回のモデルは6代目にあたり、実に24年ぶりの復活となる。東京・渋谷で行われた発表イベントの様子と車両を写真で紹介する。 -
新型「ホンダ・プレリュード」の登場で思い出す歴代モデルが駆け抜けた姿と時代
2025.9.4デイリーコラム24年ぶりにホンダの2ドアクーペ「プレリュード」が復活。ベテランカーマニアには懐かしく、Z世代には新鮮なその名前は、元祖デートカーの代名詞でもあった。昭和と平成の自動車史に大いなる足跡を残したプレリュードの歴史を振り返る。 -
ホンダ・プレリュード プロトタイプ(FF)【試乗記】
2025.9.4試乗記24年の時を経てついに登場した新型「ホンダ・プレリュード」。「シビック タイプR」のシャシーをショートホイールベース化し、そこに自慢の2リッターハイブリッドシステム「e:HEV」を組み合わせた2ドアクーペの走りを、クローズドコースから報告する。