第239回:さよなら、ダニエル。過去は死んでいない……
『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』
2021.10.01
読んでますカー、観てますカー
日系人監督のジャパン趣味
予告編を見て、白いマスクをかぶった悪役サフィンの気味悪さに恐怖を覚えた。彼は映画の冒頭から登場する。予告編ではマスクが壊れていたのでわからなかったが、完全な形を見ると日本の観客はそれが何なのか、すぐに気づくだろう。繊細な面で作られた、泣くとも笑うともつかない微妙な表情は、明らかに能面である。『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』の監督は、日系人のキャリー・ジョージ・フクナガ。ほかにもジャパン趣味をまぶした表現が随所に登場する。
今作は、ダニエル・クレイグが演じる『007』シリーズの最終作。2006年の『カジノ・ロワイヤル』から『慰めの報酬』『スカイフォール』『スペクター』と続いた5作目で完結することになる。映画のジェームズ・ボンドは、ショーン・コネリーから始まってクレイグが6代目。以前とは異なる斬新なボンド像を作り上げた。以前はウオッカマティーニと美女が大好きなお気楽スパイだったが、クレイグが演じたのは悩みや痛みを抱えるリアルな人間である。
前作『スペクター』では、宿敵ブロフェルド(クリストフ・ヴァルツ)を倒したボンドが恋人マドレーヌ(レア・セドゥ)とともに「アストンマーティンDB5」で去っていった。物語は、その直後から始まる。彼らが訪れたのは、イタリア南部マテーラ。石灰岩に覆われた街で、建物も道もすべて石造り。世界遺産に登録されている。彼らが到着したのは祭りの日で、人々が紙切れに火をつけて空に投じていた。秘密を書いて燃やし、過去を忘れて未来に一歩を踏み出すためなのだという。ボンドは、歩きながら後ろを振り返る。「過去は死んでいない。だから後ろを見るのよ」とマドレーヌ。ここで、今作のテーマが過去との決別であることがわかる。
情熱的な夜を過ごした翌朝、ボンドはかつての恋人が眠る墓へ。『カジノ・ロワイヤル』で非業の最期を遂げたヴェスパー・リンドである。マドレーヌに「朝食までには戻る」と告げたことでフラグが立った。
タキシードとドレスで悪者と戦う
スペクターの襲撃を受けたボンドは、自分の行動が筒抜けだったことを知る。マドレーヌに疑いの目を向けたのは責められない。彼女はボンドと因縁のあった殺し屋ミスター・ホワイトの娘なのだ。DB5で逃走を図るものの、「マセラティ・クワトロポルテ」やオートバイに乗った追っ手が迫る。スピードでは劣っても、石畳の道できれいなドリフトを見せるシーンは圧巻だ。MI6研究開発部のQ(ベン・ウィショー)が仕込んでくれたマキビシやスモークで敵を撃退すると、駅にマドレーヌを残してボンドは去っていった。ここでタイトル画面となり、オープニングテーマを歌うのはビリー・アイリッシュである。
そして5年後。武装集団がラボを襲撃して開発者のオブルチェフを拉致し、生物兵器を持ち去る。MI6が進めていたヘラクレス計画の研究施設だった。MI6を退職してジャマイカで釣りざんまいのリタイア生活を満喫していたボンドは、いや応なく巻き込まれていくことになる。旧友のフィリックス・ライター(ジェフリー・ライト)から誘われてバーに繰り出すと、そこにいたのは黒人美女のノーミ(ラシャーナ・リンチ)。彼女はMI6の新人エージェントだった。
キューバでは、CIAの諜報員パロマ(アナ・デ・アルマス)と共闘。ボンドはタキシードに着替え、パーティーに乗り込む。マシンガンで悪者たちを蹴散らす姿は、これぞボンドというケレン味たっぷりの見せ場だ。パロマはセクシーなロングドレスで男たちと格闘。華麗な蹴りを決めるが、ポロリが心配でハラハラする。
必見の日英SUV対決
後半でボンドが死闘を繰り広げるのは、最後の敵であり最凶の悪とされるサフィンだ。演じているのは、ラミ・マレック。『ボヘミアン・ラプソディ』でフレディ・マーキュリーになり切った彼が、邪悪をビジュアル化したようなキャラクターを作り上げた。
彼のアジトがあるのは、極東にある島。非常にデリケートな地域である。世界を破滅させることのできる生物兵器を製造しているが、建物の作りは趣味がいい。毒草を育てている庭園はなぜか枯れ山水で、サフィンは畳敷きの座敷から指示を出している。着ているのは仕立てのいい作務衣(さむえ)のような服。対するボンドも和テイストでは負けていない。日本古来の礼式を使って彼を欺くのだ。フクナガ監督は、恐らく『半沢直樹』を視聴したのだろう。
前作のように、アストンマーティンのスペシャルモデルとジャガーのコンセプトカーが相まみえるような派手なシーンはない。しかし、オフロードでの泥臭い見せ場が用意されている。日本とイギリスを代表するSUVが対決するのだ。「トヨタ・
『クーリエ:最高機密の運び屋』という映画が公開されている。1961年のキューバ危機を背景にした実話を元にしたスパイ映画だ。セールスマンがソ連から核兵器の情報を持ち出すという地味なストーリーで、これが実際にあった諜報(ちょうほう)活動なのだろう。『007』の第1作『ドクター・ノオ』が公開されたのは1962年。ジェームズ・ボンドは、米ソ対立の緊張感のなかで生まれたのだ。シリーズ誕生からもうすぐ60年。新シリーズが始まることは決まっているが、新たな世界観を構築するのは大変そうである。
(文=鈴木真人)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。