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今回の再生車は「R32スカイラインGT-R」のレースカー! 日産名車再生クラブが2021年度の活動を開始

2021.12.24 デイリーコラム 鈴木 ケンイチ

活動目的は“名車再生”と“知見の伝承”

「……あれ、なんだかサンニーの『スカイライン』をよく見るなあ」と、厚木にある日産テクニカルセンターへ取材に向かう途中で気づいた。この日(2021年12月12日)は休日の同センターにおいて、「2021年度 名車再生クラブKick Off(キックオフ)式」が開催される。そして、会場に近づくほどに、R32世代の日産スカイラインと出会うのだ。

その理由は会場に着いて判明した。今年のレストア車両が「1990年式 R32スカイラインGT-R N1耐久レース仕様車」であったのだ。会場の駐車場には、クラブメンバーの愛車であるR32がズラリと並んでいた。

話が前後してしまい恐縮だが、あらためて「日産名車再生クラブ」の説明から始めたい。これは日産と日産関連会社の社員によるクラブ活動であり、「日産の財産である歴史的な車両を、当時の状態で動態保存すること」「古いクルマを再生する過程で、先輩方のクルマづくり、技術的な工夫や考え方を学ぶこと」の2点を目的としている。活動は就業時間外で、主に休日を利用。2006年に、日産テクニカルセンター内の開発部門従業員を中心に発足して以来、毎年1台のペースで車両をレストアしてきた。活動メンバーについては、基軸となるスタッフを除いて毎年募集するかたちをとっており、今回は人気のR32スカイラインGT-R(のレースカー)をレストアするということで、R32を愛車にする人が多数名乗りを上げたということだ。

ちなみに、その年の活動開始を宣言するキックオフ式は、例年は春先に行われる。今回がいつもと違うタイミングとなったのは、2020年度の活動がコロナ禍による中断などによって延び、2021年秋までずれ込んでしまったためだ(同年のレストア車両は「マーチ スーパーターボ リトルダイナマイトカップ仕様車」だった)。ここで、例年通りに「春先にキックオフ式を……」となると、今回の活動は“2021年度”ではなくて“2022年度”になってしまう。なんとか1年に1台というペースを守りたいので、遅ればせながら、この12月に2021年度のキックオフ式を実施したのだという。

日産名車再生クラブの、2021年度のレストア車両となる「1990年式 R32スカイラインGT-R N1耐久レース仕様車」。
日産名車再生クラブの、2021年度のレストア車両となる「1990年式 R32スカイラインGT-R N1耐久レース仕様車」。拡大
ルーフに書かれたドライバー名にピンときたあなたは、相当な“GT-R通”。実はこのクルマ、後に「GT-R」の開発をけん引することとなる実験部のメンバーが、レースで走らせた車両なのだ。
ルーフに書かれたドライバー名にピンときたあなたは、相当な“GT-R通”。実はこのクルマ、後に「GT-R」の開発をけん引することとなる実験部のメンバーが、レースで走らせた車両なのだ。拡大
会場には、クラブが創立初年度の2006年にレストアした「240RS 83年式モンテカルロラリー仕様車」も展示されていた。
会場には、クラブが創立初年度の2006年にレストアした「240RS 83年式モンテカルロラリー仕様車」も展示されていた。拡大
キックオフ式に参加した日産名車再生クラブの活動メンバー。今年はすでに90人以上が集まっているという。
キックオフ式に参加した日産名車再生クラブの活動メンバー。今年はすでに90人以上が集まっているという。拡大
日産 の中古車
 
左から、1990年当時の実験部主担だった渡邊衡三氏、ドライバーを務めた松本孝夫氏と加藤博義氏、日産OBであり日本モータースポーツ推進機構理事長の日置和夫氏、日産名車再生クラブの木賀新一代表。
左から、1990年当時の実験部主担だった渡邊衡三氏、ドライバーを務めた松本孝夫氏と加藤博義氏、日産OBであり日本モータースポーツ推進機構理事長の日置和夫氏、日産名車再生クラブの木賀新一代表。拡大
「スカイラインGT-R NISMO」は1990年に500台限定で発売された、グループAのホモロゲーションモデル。車両の軽量化やタービンの強化、エンジン冷却効率の改善などが図られていた。(写真:日産自動車)
「スカイラインGT-R NISMO」は1990年に500台限定で発売された、グループAのホモロゲーションモデル。車両の軽量化やタービンの強化、エンジン冷却効率の改善などが図られていた。(写真:日産自動車)拡大
「P901活動」とは、1990年代までに自動車の技術で世界一となることを目指した日産のプロジェクトである。R32世代の「スカイライン」のほかにも、写真の初代「プリメーラ」や4代目「シルビア」(S13)など、あまたの名車を輩出した。(写真:日産自動車)
「P901活動」とは、1990年代までに自動車の技術で世界一となることを目指した日産のプロジェクトである。R32世代の「スカイライン」のほかにも、写真の初代「プリメーラ」や4代目「シルビア」(S13)など、あまたの名車を輩出した。(写真:日産自動車)拡大
日産OBの渡邊衡三氏。開発メンバーによるN1耐久レース参戦を企画した人物だ。
日産OBの渡邊衡三氏。開発メンバーによるN1耐久レース参戦を企画した人物だ。拡大

いいクルマをつくるには人が育たなければならない

さて、今回のレストア車両であるスカイラインGT-RのN1耐久レース仕様だが、これがただのレース車両ではなかった。日産社内の実験部メンバーがレース用に“手づくり”し、自らハンドルを握って参戦した車両であったのだ。

具体的に言えば、当時R32スカイラインの実験主担であった渡邊衡三氏が、社内テストドライバーのさらなる評価能力向上を目的に、N1耐久レース参戦を企画。栃木の実験部メンバーによって車両が製作され、ドライバーは「現代の名工」である加藤博義氏や、後の「R35 GT-R」の開発ドライバーである松本孝夫氏、神山幸雄氏といったメンバーが担当。1990年8月の筑波ナイター9時間耐久レースでデビューし、1992年までの3年間、N1耐久レースに参戦し続けた。車両のシャシーナンバーはBNR32-100560であり、これは500台限定で販売された「スカイラインGT-R NISMO」の、最後の生産車両であることを意味する。

この日のキックオフ式には、レース車両の企画発案者である渡邊氏をはじめ、ドライバーの加藤博義氏と松本孝夫氏も参加。まずは渡邊氏が登壇し、当時の思い出を名車再生クラブのメンバーに語った。

「このクルマの開発を始めたときには『P901活動』がありました。『90年に走りの性能で世界ナンバーワンになる』という必達目標を掲げた活動です。この活動にはいろんな仕込みがあって、特にR32スカイラインは日本向けにP901活動の成果を織り込むクルマでした。しかし、より高いレベルを目指してやればやるほど『上には上がいるんだ』ということに気がついて、(この活動が)R32だけで終わることはないだろうという風に思いました」

「それともうひとつ、走りの性能でナンバーワンを目指すうえで、評価ドライバーの重要性を認識しました。当時の商品主管であった伊藤さんの言葉では『ドライバーの声は神の声だと思え』と。継続は力なりということで、R32の後も走りの性能のナンバーワンを極めにいくには、やはり評価ドライバーが寄与するところが大きい。ドライバーにもさらなる高みを目指してもらいたいと考えました」

スタートでクルマが動かない!

このように思い立った渡邊氏だが、当時の日産社内のテストコースには厳しいルールがあり、スピンも決して許されないほどだった。もっとのびのび走れる場所を求めて、レースに出ることを考えたのである。とはいえ、日産としてのモータースポーツ活動は今も昔もニスモが統括しているため、ワークスとしての参戦はありえない。そこで、当時あった「社員の活性化を狙った社内活動」としてレース活動を申請したところ、首尾よく了解を得、さらに10万円の予算も下りたという。しかし、10万円ではいくらなんでもレースはムリということで、日産プリンス栃木など関係方面へスポンサー協力を依頼。年間300万円の予算を確保したというのだ。

「デビュー戦でびっくりしたのが、変則ルマンスタートのとき。ドライバーがクルマに乗っていて、次のドライバーが走っていって、クルマにタッチしてからスタートするんです。予選では上から3分の1くらいの位置にいたので、じゃあ、なんとかなりそうだよねと見ていたら……。スタートした瞬間に絶句しました。一斉にドーンとスタートするはずなのに、うちのクルマは動かない。なんで動かないの? と言ったら、ドライバーが『こんな混走しているなかで出ていくなんて。こういう状況ではクルマを動かすことはできない』と。貴重な試験車を絶対に壊しちゃいけないという思いが、骨身にしみていたんでしょうね」

車両開発メンバーの技能向上を目的としたN1レースへの参戦プロジェクト。当然のこと、レース車両の製作も開発メンバーの手で行われた。
車両開発メンバーの技能向上を目的としたN1レースへの参戦プロジェクト。当然のこと、レース車両の製作も開発メンバーの手で行われた。拡大
ノーマルの「R32 GT-R」のヘッドランプはプロジェクタータイプだが、こちらの車両は後のレース用ベース車「N1」と同じく、ハロゲンタイプとなっている。
ノーマルの「R32 GT-R」のヘッドランプはプロジェクタータイプだが、こちらの車両は後のレース用ベース車「N1」と同じく、ハロゲンタイプとなっている。拡大
エンジン関連はほぼノーマルのまま。ブローしない限りはオーバーホールも行わなかったという。
エンジン関連はほぼノーマルのまま。ブローしない限りはオーバーホールも行わなかったという。拡大
 
「現代の名工」にも選ばれている加藤博義氏。今回レストアする「R32スカイラインGT-R」でN1耐久レースを走ったドライバーのひとりである。
「現代の名工」にも選ばれている加藤博義氏。今回レストアする「R32スカイラインGT-R」でN1耐久レースを走ったドライバーのひとりである。拡大
「スカイラインGT-R N1耐久レース仕様車」では、ノーマルのステアリングをそのまま使用していた。メーターまわりを白く塗ったのは加藤氏だ。
「スカイラインGT-R N1耐久レース仕様車」では、ノーマルのステアリングをそのまま使用していた。メーターまわりを白く塗ったのは加藤氏だ。拡大
軽量化のためにパワーウィンドウを手動式に変更。……実際のところ、あまり軽くならなかったとか。
軽量化のためにパワーウィンドウを手動式に変更。……実際のところ、あまり軽くならなかったとか。拡大
車内に張り巡らされたロールバー。保安部品の組み付けによるボディー剛性の変化を体感したことは、「R33」や「R34」の車体開発に役立てられたという。
車内に張り巡らされたロールバー。保安部品の組み付けによるボディー剛性の変化を体感したことは、「R33」や「R34」の車体開発に役立てられたという。拡大
バンパーのダクトやけん引フックの塗装も、加藤氏の手によるもの。スプレー缶で塗ったという。
バンパーのダクトやけん引フックの塗装も、加藤氏の手によるもの。スプレー缶で塗ったという。拡大

ここで得た知見がその後の「GT-R」に生きている

渡邊氏の後を継いで登壇したのは、ドライバーであった加藤氏だ。

「デビュー戦の筑波ですけど、(ほかのチームの)ドライバーとしては土屋圭一さんとか松田秀士さんとか、中谷明彦さんとか清水和夫さんとか。ヘタをするとグループAも乗っているような方々が出てきていました。後で考えると、予選を通るだけでも奇跡だったんですね。ただ、ナベさん(渡邊氏)には『(今年がR32のデビューイヤーなのだから)世の中で一番乗っているのは俺らだ』とずっと言っていました。ようは開発のときからずっと乗ってますから、われわれよりも乗っている人間はいなかっただろうと」

こうして、活動の当初は予選を通過できた日産チームだが、2年目、3年目となると、周囲はやはりレースのプロ。チューニングやセッティングのノウハウが広がり、ドライバーも乗り慣れてくると、日産有志チームはそもそも予選通過が怪しくなってきた。「それでやめたというのが本音ですね」(加藤氏)

また、燃料を給油するクイックチャージャーを構えるピットクルーとして、屈強な人材を工場のなかから探したり、エンジンはノーマルのままで2年目にブローするまでオーバーホールもなにもやっていなかったりと、有志チームならではの逸話が次々に披露された。

「モノコックのつくり方は2000年代後半にガラッと変わるんですけれど、R32のころは、まだまだ弱かったんですね。僕とか松本は、このクルマの“素”を知っているじゃないですか。でも『素のクルマでも、グループAのロールバーを入れるとこんなに剛性が上がるのか!』と、レースカーで気づきました」

「今ではモノコックの剛性感とか言いますけれど、当時は概念的にもそんなものはなかった。ところが、自分たちの走っているクルマにロールバーを組んでテストコースを走ると、全然違うんですよね。これはすごいと。で、『R33』が始まったときに、乗るとすぐにわかっちゃうんですね。『あれ、ここ弱いよ』とか『あそこ弱いよ』と。R33(の車体)にはものすごく棒や板が入っていますが、あれは、まさにこのクルマで得た知見によるもの。相当にやりましたよ。それが『R34』までつながっているのかなと」

そう加藤氏は当時を振り返った。

GT-Rの歴史を彩る重要な一台

最後に登壇したのは、加藤氏の同僚である松本氏だ。先述の通り、R35 GT-Rの開発ドライバーを務めた人物である。当時の松本氏はR32 GT-R で全日本ダートトライアル選手権へ参戦しており、筑波などでの、特に長時間のレースだけ助っ人として参加していたという。

「私自身の話をすると、R32 GT-Rは初めて海外出張をさせてもらって、しかも初めてニュルを走ったクルマです。たぶん1989年で、ちょうどこのクルマの開発の終わりごろですね。私の日産における歴史のなかでも、かなりの転換点となりました。それからR34、今のR35とニュルに通わせてもらっています。そういう意味で、R32は評価ドライバーとしての基本になっている。このクルマが私の評価能力を育ててくれたのかなと思います。R32 GT-Rは非常に思い入れのあるクルマですね」

「R33からR34、R35と、神山、加藤、私の3人は、それらの開発のどこかに絶対関わっています。ですから、このクルマが第2世代の原点で、それが第3世代のGT-Rにつながっているのかなと。これ(R32 GT-RのN1レース仕様車)には個人的にもとても思い入れがあるし、日産自動車としても非常にありがたいと思います」と松本氏はまとめた。

今回レストアされるN1耐久仕様のR32スカイラインGT-Rは、レースで立派なリザルトを残したわけではない。しかし、この車両で戦ったドライバーは、後にR33、R34という第2世代のGT-Rだけでなく、第3世代となるR35 GT-Rの開発にも携わっている。松本氏が言うように、GT-Rの歴史を彩る重要な一台といえるだろう。

レストアはこの12月中に車両分解からスタートし、2022年2月~4月にエンジンなど各部を修復。5月に内外装を仕上げ、6月末の完成を目指す。完成後のお披露目イベントは、コロナ禍の情勢次第とのこと。美しくレストアされた車両を見る機会が得られるよう、祈るばかりだ。

(文と写真=鈴木ケンイチ/編集=堀田剛資)

「日産GT-R」(R35)の開発ドライバーも務めた松本孝夫氏。「R32」の頃にも実験部でドライバーを務めており、N1耐久レースに参加することとなった。
「日産GT-R」(R35)の開発ドライバーも務めた松本孝夫氏。「R32」の頃にも実験部でドライバーを務めており、N1耐久レースに参加することとなった。拡大
レース用の安全タンクが装備されたトランクルーム。
レース用の安全タンクが装備されたトランクルーム。拡大
トランクルームには、加藤氏がマジックで番号を書いたというハーネスが残されていた。
トランクルームには、加藤氏がマジックで番号を書いたというハーネスが残されていた。拡大
実車を前に、加藤氏(右)や松本氏(左手前)と談笑する名車再生クラブのメンバー。完成後のクルマを見るのが、今から楽しみである。
実車を前に、加藤氏(右)や松本氏(左手前)と談笑する名車再生クラブのメンバー。完成後のクルマを見るのが、今から楽しみである。拡大
鈴木 ケンイチ

鈴木 ケンイチ

1966年9月15日生まれ。茨城県出身。国学院大学卒。大学卒業後に一般誌/女性誌/PR誌/書籍を制作する編集プロダクションに勤務。28歳で独立。徐々に自動車関連のフィールドへ。2003年にJAF公式戦ワンメイクレース(マツダ・ロードスター・パーティレース)に参戦。新車紹介から人物取材、メカニカルなレポートまで幅広く対応。見えにくい、エンジニアリングやコンセプト、魅力などを“分かりやすく”“深く”説明することをモットーにする。

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