第746回:フィアット旧本社をIT企業が取得 歴史的建造物にみるイタリア的価値観
2022.03.03 マッキナ あらモーダ!まるで大聖堂のような
ステランティスは2022年2月、イタリア・トリノのフィアット旧本社棟をIT企業のリプライに売却した。
旧本社棟は、トリノ市内リンゴット地区のニッツァ通り250番にある地上4階+半地下階のコンクリート建造物。隣接する旧工場棟とともに、ジャコモ・マッテ=トゥルッコによって設計され、1916年から1924年にかけて建設された。ステランティスは2021年夏に同物件を売却する意向を示していた。
購入したリプライ社はトリノを本拠とし、ビッグデータやクラウドコンピューティングなど広範なデジタルサービスを展開する企業である。本稿を執筆している2月27日時点で早くも、同社の会社概要にはトリノの5事業所のひとつとして、ステランティスから取得したニッツァ通り250番地が記されている。
筆者が初めてこのフィアットの旧本社を訪ねたのは、2000年秋のこと。試乗車を引き取るためだった。フィアットにおける自動車部門の統括機能は、すでに同じトリノのミラフィオーリ社屋に移転していたが、グループを統括する本社はまだニッツァ通り250番地にあり、自動車の広報部門もそこに残っていたのだ。
右脇の自動車用守衛所からは、フィアットとランチア、アルファ・ロメオ、そしてマセラティといった系列ブランド車、それも限られた関係者のみが地下駐車場に入構することを許されていた。
玄関脇の足元にはポンペイ遺跡を想起させるようなモザイクで「FIAT」の文字が埋め込まれていた。そして階段を上がって入るエントランスには、まるでロマネスク-ゴシック建築の大聖堂における聖歌隊席のような壮麗なベンチが備えられていた。かつて訪れたどの自動車会社の本社とも異なる、荘重な雰囲気が漂っていた。
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買う側・つくる側双方にみる「イタリアらしさ」
筆者の視点からすれば、今回のステランティスによる物件売却は当然の流れといえる。ステランティスの前身である旧FCAは2014年、会計士出身のセルジオ・マルキオンネ社長(当時)により、登記上の本社をオランダに、税務上の本社を英国に移転した。以後、リンゴットの建物は筆頭株主でフィアットの創業家でもあるアニェッリ家の投資会社、エグゾールおよび一族の財団が使用してきた。しかし、エグゾールも2016年にオランダに登記を移転。続いてマルキオンネ社長が亡くなった翌年の2019年には、同じトリノ市内のジャコーザ通りに事務所を移転した。つまり、この歴史的本社は事業所としての役割をすでに終えたのであった。
今回の歴史的本社売却で、筆者は新たに取得する側と建築物を計画する側の双方から、イタリアらしさを見いだしてみたい。
前者に関して言えば、「新しい企業は古い建物を好む」ということだ。旧フィアット本社屋の新所有者であるリプライは、新興企業の典型である。全従業員数は事実上の創業年である1997年には83人であったが、2020年12月には9059名に達している。総売上高も一貫して右肩上がりを続け、2020年には12億5020万ユーロ(約1624億円)を記録。ミラノ証券取引所にも上場を果たしている。
比較的若い会社が古い建物を使用している別の例を挙げれば、ファッションブランドのフェンディがある。こちらはローマ郊外エウルにあるイタリア文明館を2028年までの15年契約で使用している。1942年に開催が計画されたローマ万国博覧会のため、当時のムッソリーニ政権が開発したエウル地区に建つ合理主義建築だ。そのファサードから“四角いピラミッド”の愛称がある。
イタリアでは歴史的建築物には、たとえ民間のものであっても、外装・内装の変更をはじめ、さまざまな制約が設けられる。新しい所有者や入居者だからといって、巨大な自社のネオン広告を付加することなどは事実上不可能だ。フィアットの歴史的本社棟は、すでにイタリア文化庁によって建築遺産に指定されている。新所有者であるリプライも建物の使用方法や改装に関しては文化庁から数々の許可を得る必要がある。例えば屋上の四隅に掲げられた「FIAT」のレリーフに手をつけることは許されないだろう。最新インフラ設備の取り回しについても、それを想定して設計された新築ビルのようにはうまくいかない。
それでも歴史ある建築物に入居を望むのはなぜか? といえば、若い企業は古い建物を用いることによって、ある種の権威を手に入れることができる。同時に、国の歴史的建築物を維持するため資金を拠出していることは、企業市民としてよきアピールにもなるからである。
次に建物を企画する側について考えてみたい。最初に建てた企業にしてみれば、社屋を末長く使おうと意図していたことは確かだ。しかし、かつてのイタリアの経営者たちは、たとえコストがかかっても価値ある建築物を実現することのメリットを知っていたに違いない。なぜなら万一手放したあとも、最初の所有者の名前で建物が呼ばれ続けるからだ。それはイタリアに近代産業がもたらされる19世紀以前から続く伝統である。貴族の館(やかた)はたとえ所有者が変わっても、最初に建てた一族の名称で呼ばれる。筆者が住むシエナにあるイタリア有数の銀行、モンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナの本店は、14世紀に建っていた家の名前をとってサリンベーニ宮と呼ばれている。
自動車産業にゆかりのある建築物で、自社の手を離れても新築当時の名前で呼ばれ続けてきた例といえば、ミラノにあるピレリの旧本社ビル、パラッツォ・ピレッリがある。戦後イタリアを代表する建築家/工業デザイナーであるジオ・ポンティによって1950年に設計され、1960年に落成した高さ127mの高層ビルだ。それは、第2次大戦後のイタリア経済成長の象徴でもあった。完成間もないパラッツォ・ピレッリを背に、たった今南部から到着したと思われる出稼ぎ労働者がたたずんでいる写真は、この国でたびたび用いられてきた。ピレリはわずか18年後の1978年にパラッツォ・ピレッリを地元ロンバルディア州に売却してしまっている。イタリア経済を大きく揺さぶった石油危機が影響したのは明らかだ。しかし、それから44年余りが経過した今日でも地元のイタリア人は、このビルをパラッツォ・ピレッリと呼び続けている。今回売却されたニッツァ通りのフィアット歴史本社も同様に、フィアット、もしくはexフィアットと呼ばれ続けるに違いない。
日本企業にも考えてほしいこと
ところでフィアットは1899年の創業である。つまり、今回売却されたリンゴット旧本社棟は、それからわずか17年目にして建てられたものだ。それでも当時の経営陣は1世紀先まで存続する建築物を計画していたということになる。
ここで筆者は、昨今のワードである“サステイナビリティー”を振りかざすつもりはない。しかし良質な建築物を残すことは、たとえ自社の手を離れても前述のように名前が残るとともに、ブランドイメージの向上にもつながる。特に製造業にとっては、ものづくりに対する価値観を、長きにわたって語り続けてくれる。参考までに、リンゴット以前のフィアット本社工場棟もトリノ市内に現存する。
そうした長期的ビジョンに基づいた企業の建築物は、近年でも見ることができる。マラネッロにあるフェラーリ工場だ。風洞(1996~1998年)はパリのポンピドーセンターの共同設計で知られるレンツォ・ピアノによる。社員食堂棟(2007年)はマルコ・ヴィスコンティが担当している。いずれもルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロがCEOを務めていた時代、「フォーミュラ・ウオモ(人間主義)」のモットーにしたがって建てられたものである。フェラーリ・レストランと名づけられた後者では筆者も食事をしたことがある。その前衛的なたたずまいとぜいたくなレイアウトは、建築物としての価値だけでなく、明らかに従業員の士気を高める効果がある。
ちなみに日本では、今回売却されたフィアット旧本社と1年違いの1925年、くしくも2つの建物が誕生している。名古屋の旧豊田紡織本社と、横浜の日本フォード自動車工場だ。前者は幸いトヨタ産業技術記念館敷地内に現存するが、後者は日本自動車史の貴重な断章であったにもかかわらず解体されマツダのR&Dセンターとなってしまった。
日本の自動車メーカーも、自社の建築物を「百年の計」をもって考えるとともに、過去の価値ある建築物を守ってゆくことが必要ではないか。
(文=大矢アキオ<Akio Lorenzo OYA>/写真=Akio Lorenzo OYA、フェラーリ/編集=藤沢 勝)

大矢 アキオ
Akio Lorenzo OYA 在イタリアジャーナリスト/コラムニスト。日本の音大でバイオリンを専攻、大学院で芸術学、イタリアの大学院で文化史を修める。日本を代表するイタリア文化コメンテーターとしてシエナに在住。NHKのイタリア語およびフランス語テキストや、デザイン誌等で執筆活動を展開。NHK『ラジオ深夜便』では、24年間にわたってリポーターを務めている。『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)、『メトロとトランでパリめぐり』(コスミック出版)など著書・訳書多数。近著は『シトロエン2CV、DSを手掛けた自動車デザイナー ベルトーニのデザイン活動の軌跡』(三樹書房)。イタリア自動車歴史協会会員。
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