第940回:宮川秀之氏を悼む ―在イタリア日本人の誇るべき先達―
2025.12.11 マッキナ あらモーダ!イタリアンデザインを日本へ
1960年代からイタリアを拠点に活躍した実業家で、イタルデザインの設立に貢献した宮川秀之(みやかわひでゆき)氏が死去した。88歳だった。
宮川氏は1937年群馬県前橋市に生まれた。早稲田大学文学部在学中に、世界一周旅行を同郷の茜ヶ久保徹郎氏(現・ローマ日本語補習授業校校長)と計画。知己を頼ってヤマグチ製125ccバイク2台の提供を受け、1960年4月に日本を出発した。香港・インド・中近東を経由して到達したローマで、宮川氏は毎日新聞社支局でオリンピック報道の業務にあたった。後年、創刊間もない『カーグラフィック』誌の現地通信員として、欧州自動車事情の配信を開始する。
宮川氏の人生にとって大きな転機となったのは、1960年秋のトリノ自動車ショーだった。「プリンス・スカイライン スポーツ」の脇で、今日でいうところのコンパニオンをしていたイタリア人女性マリーザ・バッサーノ氏と知り合う。日本語を熱心に学習するとともにランチア社の役員を父にもつ彼女との出会いは、宮川氏に国際結婚とイタリア永住を決意させた。
以来、トリノを拠点とした宮川氏の自動車業界における活躍が始まる。当時ベルトーネ(のちにギア)のチーフデザイナーを務めていたジョルジェット・ジウジアーロ氏の才能に着目。彼を東洋工業やいすゞと結びつけた。続いてジウジアーロ氏の独立も支援し、1967年、現在のイタルデザインの原点であるイタルスタイリング(法人登記名SIRP)の設立に尽力する。同社ではスズキをはじめとするさらなる日本企業の顧客開拓を手がけるとともに、ヒョンデとの渉外担当としても活躍し、自動車デザイン開発会社では後発であった同社の成長に貢献した。
その後は自身の新たなビジネスに、より注力するようになる。まず1970年にスズキのイタリア輸入元となり、同ブランドを成功に導いた。同時に、スポーツ選手のマネジメント会社「コンパクト」も設立。同社を通じてジャン・アレジ氏や角田裕毅氏など数々のF1ドライバーをサポートした。
私生活ではマリーザ氏のキリスト教精神に基づいた大家族主義を実践。4人の実子と3人の養子、さらにアフリカの孤児4人を育てた。理想の教育環境を手に入れるべく、一家でトリノを離れアルプスを望むサン・ピエトロ村に移住。続いて1992年には、中部トスカーナ州スヴェレートの農園に住まいを移した。以来、高品質ワインづくりに携わるとともに、日本の不登校や引きこもりに悩む青少年の支援活動にあたっていた。2006年にはイタリア政府から外国との友好に貢献した人物に与えられる「連帯の星 大将校勲章」を受賞した。
接点は突然に
ここからは筆者の述懐をお許しいただこう。宮川氏に関しては、少年時代から『カーグラフィック』『カースタイリング』といった雑誌を通じ、イタルデザインの貢献者として認識していた。将来海外に住みたいと思っていた筆者にとって、海外において自動車の世界で活躍する日本人・宮川氏の存在は輝いて見えたものである。
後年、新卒で入社できることになった東京・神保町の出版社、二玄社の『SUPER CG』編集部でのことだ。編集長から申し渡された初仕事に驚いた。イタリアの宮川氏による手書き原稿を、弟君が新宿駅南口近くで経営していた貿易会社まで取りに行くミッションだった。創刊号の一企画として、宮川氏の回想記が含まれていたのだ。
そのとき知ったのだが、編集長の高島鎮雄氏は群馬大学の付属校時代から宮川氏と刎頸(ふんけい)の友で、前述のカーグラフィック創刊の際、ヨーロッパ通信を依頼したのも高島氏だったのである。
なぜ編集部に直接届かなかったのか、今となっては想像するしかない。それよりも、ファクシミリとはいえ、あの宮川氏の原稿を誰よりも先に読めることに感激したものだった。
さらに高島氏は宮川氏のページの編集作業も筆者に任せてくれた。のちの号でフランコ・スカリオーネ氏のついのすみか発見という“スクープ”が宮川氏から届いたこともあった。新米記者にもかかわらず、今日風にいえば“リモート”で宮川氏の謦咳(けいがい)に接することができるようになったのである。
ブリケッラ農園で
時は飛んで1996年、筆者はイタリアのシエナ到着後しばらくして、宮川氏が経営するトスカーナ州スヴェレートの農園「ブリケッラ」に電話をかけてみた。すると宮川氏が出て「ぜひ週末、お昼においでください」と誘ってくださった。筆者はまだクルマをもっていなかったので、同じ州内とはいえ列車で2時間半を要した。筆者と女房が最寄り駅に降り立つと、宮川夫妻は「トヨタ・プレヴィア(日本名:エスティマ)」で待っていた。
農園ではマリーザ氏が用意したポレンタ(トウモロコシ粉を練った素朴な北部料理)をいただきながら、宮川氏との会話がはずんだ。おそらくイタリアで史上最も成功した日本人であるにもかかわらず、まったくもって自然なふるまいに、新婚早々の筆者と女房はえらく感激したものだった。
宮川氏が日本人として極めて早いフェラーリオーナーであったことや、エンツォ・フェラーリ氏との交流はカーグラフィック誌を通じて知られてきたところである。だが、当日の宮川氏は面白い話を披露してくださった。それはエンツォ氏が出席する地元マラネッロの会合に呼ばれたときのことという。席上、参加者たちの話は「日本製品は物まねばかりだ」という流れになった。それを聞いた宮川氏は日本製品のオリジナリティーを力強く反論したのだそうだ。「以来(その会合には)呼ばれなくなりました」と言って宮川氏は笑った。ちなみに筆者も後年、年配のイタリア人たちから同様の挑発を何度となく受けることになった。
食後は例のスカリオーネ氏が晩年に隠遁(いんとん)生活を送っていた家もクルマで案内していただいた。イタリアで仕事を始めたいと考えていた筆者は道すがら、畏れ多くもイタリアを代表する日本人実業家である宮川氏に「この国で仕事を始めるのは大変ですか」と安易に尋ねた。すると宮川氏はステアリングを握りながら「始めるのは簡単です。事業を維持していくのが難しいのです」と答えてくれた。それは正しかった。筆者はこの翌年、イタリアで個人事業主としてスタートを切るのだが、その際の難関が想像より少なかったのに対し、継続の難しさに何度も直面した。そのたび、あの日の宮川氏の言葉を思い出したものである。
イタリアにある、少ない部数のなかから無理を言って分けていただいた宮川氏の著書『われら地球家族―自動車の街トリノから故国へ』(祥伝社1988年)も印象的だった。成功物語の連続と思いきや、海外雄飛の前にレクチャーを受けようとした新聞記者になかなか会ってもらえない話、事業の初期に工作機械の貿易で失敗した話……と、苦労の数々が赤裸々につづられていた。その晩から座右の書となったばかりでなく、後日、筆者にとって最初の著書である『僕たちのトスカーナ生活』(2000年 光人社)を執筆する際のお手本にもなった。
どういう経緯か記憶していないが、後日、農園で1泊2日のオリーブ摘み体験をさせていただけることになった。アーモンドのように木を揺すって実を落とすのかと思っていたら、小さな熊手で枝についた実をかいて丁寧に落としてゆくことを知った。大きな木だと、農園のスタッフ3人と筆者、そして女房の計5人でかかっても、30分以上を要した。傾斜地だけに1本終えるだけで足がガクガクになった。スタッフのおじさんは、わが女房の名前が「Mari」であることを知ると、マリアの歌詞がある歌を次から次へと歌ってくれたのを覚えている。
イタリアという国を支えているのは工業だけではない。自然に根ざしたものがあり、それに携わる人々もいるという至極まっとうなことを、宮川氏の農園は無言のうちに教えてくれた。筆者が、まずはシエナでイタリア人が主宰する料理教室の通訳兼広報業務からスタートする決意を固められたのも、「クルマだけがイタリアではない」という農園での気づきがあったからだった。
ちなみに、収穫の合間に農園の人々と木の下で食べたサルシッチャ(スパイス入りひき肉のソーセージ)は、出版社の研修時代に流通倉庫の仕分け作業のあとで食べた弁当と並び、今も忘れられない味である。
“シニョール・ミヤカーワ”が遺してくれたもの
残念なことにマリーザ氏は2003年、先に天に召された。後年の筆者は、宮川氏の動静を、ジウジアーロ夫妻やファッションブランド「ブルネロ クチネリ・ジャパン」の代表を務める子息のダヴィデ氏を通じて知るほうが多くなった。しかし取材でトリノを訪れるたび、かつてトリノショーが開催されていた旧博覧会会場の前を通るたび、宮川夫妻が出会った博覧会場の前を通るたび、2人が再会を誓っていったん別れたポルタ・ヌォーヴァ駅に立つたび、ドラマのロケ地めぐりのような気分になったものである。
宮川氏の逝去にあたり、イタリアの自動車メディアは彼の業界における多大な功績を振り返り、一般紙の多くはワイン醸造の名士として紹介した。
気がつけば筆者は、宮川氏が数々の事業を軌道に乗せたあと農園経営を始めたのとほぼ同じ年齢になっていた。にもかかわらず、小さなアパルタメントでほそぼそと執筆業をして食いつないでいる。それでも異国の地で自分の女房を大切にできたことだけは宮川氏に倣えたと思っている(女房本人は「まだ大切にされ方が足りない」)。
実はもうひとつ誇らしいことがある。イタリアで筆者は、過去にたびたび「シニョール・ミヤカーワを知っている」「彼に大変世話になった」という人物に出会ってきた。彼らは異口同音に「素晴らしい人物だ」と語っていた。筆者のような一介の物書きがイタリアの自動車界で一定の礼節をもって接してもらえるのは、ビジネスだけでなく人格的にも優れていた、宮川氏のような先達(せんだつ)がおられたからに他ならないのである。
(文=大矢アキオ ロレンツォ<Akio Lorenzo OYA>/写真=日本自動車殿堂、スズキ・イタリア、Akio Lorenzo OYA/編集=堀田剛資)

大矢 アキオ
Akio Lorenzo OYA 在イタリアジャーナリスト/コラムニスト。日本の音大でバイオリンを専攻、大学院で芸術学、イタリアの大学院で文化史を修める。日本を代表するイタリア文化コメンテーターとしてシエナに在住。NHKのイタリア語およびフランス語テキストや、デザイン誌等で執筆活動を展開。NHK『ラジオ深夜便』では、24年間にわたってリポーターを務めている。『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)、『メトロとトランでパリめぐり』(コスミック出版)など著書・訳書多数。近著は『シトロエン2CV、DSを手掛けた自動車デザイナー ベルトーニのデザイン活動の軌跡』(三樹書房)。イタリア自動車歴史協会会員。
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