第159回:どっこい12年人生! イタリア車界の怪物
2010.09.11 マッキナ あらモーダ!第159回:どっこい12年人生! イタリア車界の怪物
ニューモデルラッシュの陰で
欧州の自動車業界は9月になると途端に活気づく。毎年交互に行われるパリとフランクフルトのモーターショーに向けて、コンセプトカーや新モデルイヤー向けのクルマが百花繚乱(りょうらん)となるためだ。
いっぽうで、どっこい12年、そのルーツまで含めると19年も生き延びてきたモデルがある。その名を「フィアット・セイチェント」という。
セイチェントがデビューしたのは、1998年の3月である。「Seicento」とはイタリア語で600を意味する。1955年に誕生し、イタリアの戦後モータリゼーションを支えた「フィアット600」の名前を復活させたものだ。
ボディサイズは全長3337mm×全幅1508mm×全高1420mmである。搭載されているエンジンは4気筒1108ccだ。フィアット愛好歴が長い人なら覚えているであろう「Fire(ファイア)」エンジンの生き残りである。全幅をわずか2.8cm縮めて、しかるべきエンジンをのっければ、日本の軽規格に収まるといえば、読者諸兄にもイメージしていただきやすいだろうか。
カタログ上の0-100km/hは14.5秒、最高速は150km/h、燃費は4.7リッター/100km(約21.7km/リッター)だ。イタリアで標準仕様には、付加価値税込み7800ユーロ(約83万円)のプライスタグがつけられている。
秘密は「馬小屋に入れる」こと
このセイチェント、今日までイタリアでよく売れてきた。手元にある2010年3月の国内登録台数でも「トヨタ・アイゴ」(1247台)「ルノー・トゥインゴ」(1241台)「スズキ・アルト」(941台)より多い1317台を記録している。はるかに新しいモデルよりも、12年選手のセイチェントのほうがよく売れているのである。
日本の自動車雑誌を読んでいてもわからない、イタリア車界の怪物だ。人気の背景には、もちろんデビューから数年の、フィアットによる盛んなプロモーションによる知名度の高さもあった。
たとえば、CMに当時スクデリア・フェラーリに在籍していたミハエル・シューマッハーを起用。「フィアットのショールームになんとF1で乗りつけたが、セイチェントに見とれているうちに、F1をレッカー移動されてしまう」というストーリーで、イタリアでは今でも覚えているエンスージアストは多い。
しかしもっと深いイタリアならではの事情もあった。イタリアの車庫事情だ。旧市街におけるガレージは古く、なかには馬小屋を改造した間口が狭いガレージもたくさんある。ライバルたちが次々とモデルチェンジを機に全幅1.6メートルを超えてゆくなかで、セイチェントはそうした古いガレージに、今も楽々収納できる数少ないクルマだったのである。
また、セイチェント購入者は免許取りたての若者も多いが、同様にお年寄りも多い。トヨタをはじめとする輸入車を「クール!」と喜ぶ30〜50代とは違い、イタリア車とともに生きてきた世代のフィアットに対する親しみは強い。
中古車市場でも人気は高い。ジェノヴァで中古車ディーラーを営むクラウディオさんによると、セイチェントは「右から左に売れて行く車種の代表」とのこと。「小さくて、税金や保険料も安く済むのが、なによりの人気の秘密さ」と付け加えてくれた。
ボクが知る、元ラリードライバーのお年寄りも、セイチェントの愛用者だ。彼は「キビキビと、とてもよく走るから」と選定の理由を明かしてくれた。
新「500」の母だ!
このセイチェント、もうひとつ忘れてはいけない功績があるとボクは信じている。それを説明するには、セイチェントの出身地について語る必要がある。
セイチェントを生産してきたのはポーランドにあるフィアットのティヒ工場だ。ティヒ工場は1974年に操業開始され、当初は「フィアット126」を生産していた。その後1991年からは、セイチェントに先駆けて往年の名モデルの名を拝借した「チンクエチェント」(1991-1998年)を生産した。
その7年後の1998年には、今回の主題であるセイチェントが生産開始される。セイチェントは、プラットフォームをはじめチンクエチェントの多くのパーツを継承したものであった。
2003年からは現行「パンダ」、2007年からは現行「500」も、このティヒ工場で造られることになった。
今やティヒは、世界に点在するフィアットの主要工場のひとつに成長した。実際、昨2009年にティヒ工場で生産されたフィアットブランド車の数は、イタリア本国の全工場合計より7万台以上も多い。ちなみにティヒ工場は、現行「フォードKa」も受託生産している。
フィアットのセルジオ・マルキオンネCEOは、長年の労働組合とのしがらみや日常茶飯ともいえるストライキに悩まされるイタリア本国の工場より、ティヒ工場を将来も重要視していくことは確実だろう。2011年から生産開始される3代目パンダも、イタリア政府やイタリア国内労働組合の圧力がなければ、当然ティヒで生産されていたに違いない。
ポーランド製フィアットがここまで評価されるようになったのは、イタリアを超える勤勉さで仕事にあたったポーランド人ワーカーと、彼らによって造られたセイチェントがあってこそである。
極言すれば、今脚光を浴びる新「500」が手頃な価格と良い品質を達成できたのも、セイチェントの12年にわたる実績があったからであろう。セイチェントは新500の母なのである。
ヒンドゥスタンになってほしかった
実はフィアットは、2010年5月をもって、セイチェントの生産を完了した。現在もカタログに載り続けているが、売り切れ次第販売終了になる。
背景には、今後さらに厳しくなる、欧州の安全基準がある。セイチェントは初代パンダと違ってエアバッグが装着できたことから今日までかろうじて生き延びた。だが、欧州自動車衝突安全テスト「ユーロNCAP」の2009年レートは5ツ星満点の1ツ星半に過ぎない。将来そのままの姿で生き長らえることは難しいのだ。
参考までに生産開始以来の総生産台数は、13万2000台を超えた。販売国のトップ3は、イタリア、ポーランド、ドイツだった。
もちろんボクも、安全なクルマへと刷新してゆくことに異論はない。だがそのかたわらで、イタリア車界の生きた化石になってくれたら楽しかったのに、という夢をこのセイチェントに抱いていたことも事実だ。インドで56年にわたって生産され続けている「ヒンドゥスタン・アンバサダー」のように。
(文=大矢アキオ、Akio Lorenzo OYA/写真=大矢アキオ、FIAT)

大矢 アキオ
Akio Lorenzo OYA 在イタリアジャーナリスト/コラムニスト。日本の音大でバイオリンを専攻、大学院で芸術学、イタリアの大学院で文化史を修める。日本を代表するイタリア文化コメンテーターとしてシエナに在住。NHKのイタリア語およびフランス語テキストや、デザイン誌等で執筆活動を展開。NHK『ラジオ深夜便』では、24年間にわたってリポーターを務めている。『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)、『メトロとトランでパリめぐり』(コスミック出版)など著書・訳書多数。近著は『シトロエン2CV、DSを手掛けた自動車デザイナー ベルトーニのデザイン活動の軌跡』(三樹書房)。イタリア自動車歴史協会会員。
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