第648回:東京五輪は“ローテク”に限る!? トリノ五輪を知る男・大矢アキオの提案
2020.03.27 マッキナ あらモーダ!ようやく話題になり始めた東京2020
日本では2020年の東京五輪・パラリンピックの開催延期が、2020年3月24日に決まった。
そこで今回はこうした大イベントにおけるイタリアの自動車メーカーやカロッツェリアの取り組みについて、トリノの過去例を思い出してみた。
その前に筆者が住むイタリア・シエナ県における新型コロナウイルスの最新状況を。感染者数は前回のエッセイ後も増え続け、2020年3月22日現在で累計144人に達している。
21日土曜の朝には、近所に「フィアット・ドゥカート」の救急車と黄色い防護服のスタッフが乗った「フォルクスワーゲン・キャディ」のドクターカーが到着して高齢者を搬送した。先日まではテレビで見ていた光景が目の前で展開されると、複雑な心境にならざるを得ない。
筆者が住む地方都市でさえそうした状態である。東京五輪について、イタリアの主要メディアでは一部全国紙が散発的に報じていた程度で、ほぼ無視されていた。筆者の周囲でも、まったく話題になっていなかった。
メディアにおける五輪関連広告も、ローカルスポンサーであるインターネットプロバイダーのスポットCMを見かけるくらいであった。
新聞がまともに取り上げるようになったのは、2020年3月17日に『コリエッレ・デッロ・スポルト』紙が、名カンツォーネ『アリヴェデルチ・ローマ』にかけて「アリヴェデルチ・トーキョー(さようなら東京)」の大見出しを1面に掲げてからだ。IOCが東京大会の中止・延期について決断を迫られていることを報じたものだった。
加えてテレビのスポーツコーナーが本気で伝え始めたのは、各国の関係者が選手派遣に難色を示し始めた3月22日頃からである。
信用失墜の心配なし
東京五輪を目指す選手たちが本番に向けてメンタルとフィジカルの双方で高度なプログラムを組んでいたのは他のメディアが報じているとおりだろう。彼らの次元には及ばないが、若いころは音楽を学び、試験や演奏会に向けて同様の苦労をした筆者としては、延期による身心の再調整の難しさが容易に想像できる。
筆者自身は、中学生時代からあらゆるスポーツのルールなど面倒くさくて覚える気がなかった人間である。スポーツから五輪を語るに適任でないことを自認している。なにより冒頭のようにイタリアで間近に病魔が迫り来る目下の状況では、個人的にそれに打ち勝つほうが大切だ。
それでもいえるのは、新型コロナウイルスをめぐる騒動が完全に終息せず参加国が減少する中で東京五輪を強行すれば、東京モーターショー2019のごとく、国際イベントの名とは裏腹にローカルな催しに転落するのが必至ということである。
同時に確信しているのは、先日まで開催推進派の方々が根拠としてたびたび力説していた「延期・中止すれば日本の信用が失墜する」は、少なくともイタリアに関しては心配ないということだ。
イタリア人の多くは、いまだ外見からアジア人の国籍を見分けるのは苦手だ。
筆者個人も、風貌か性格か根拠は知らねど「韓国人か?」「中国人か?」のあと、ようやく「日本人か?」と問われる。
対して彼らの、日本製品に対する信用とモダンカルチャーに対する好印象は、他のアジア諸国のそれらからすると群を抜いている。
まずは日本の自動車や家電に対する長年の信頼があり、次いで日本製テレビアニメ&フィルムで育った最初の世代が、もはや社会を支える50代になっていることがある。
観光においても人気が陰る心配が少ない例として適切なのは、イタリアにおけるエジプト人気だろう。
近年、エジプトでテロが頻発しているのはご承知の通りだ。だが、2019年のイタリア人海外旅行先ランキングで、同国のリゾート地であるシャルム・エル・シェイクは9位にランキングされている(『トリップアドバイザー』調べ)。
この新型コロナ禍が去ったあと、エジプトより政情も治安も安定している日本を、五輪の延期・中止くらいでイタリア人が見放すはずはない。
「信用の失墜」を主張する人々には、日本の真面目なモノづくりや、国境を越えて感動させるアニメの作画やストーリーに自信をお持ちでないのか? と問いたい。
五輪の夢のあとに
五輪といえば、ローマ市は2024年大会の招致を2016年に断念した。元フェラーリ会長で招致委員長を務めていたルカ・ディ・モンテゼーモロ氏は当時、「公共投資の活性化による経済効果を逃した」と不快の念を示したが、ヴィルジニア・ラッジ市長はスポーツを新しいコンクリート注入の口実として使用できない」との声明を発表した。
いっぽう昨2019年6月には、ミラノおよびコルティナ・ダンペッツォが2026年冬季五輪・パラリンピックの開催地に選ばれた。ボッコーニ大学では1ユーロの投資に対して2.7ユーロの利益が見込めると皮算用しているが、実際は蓋(ふた)を開けてみないと分からない。
2つの五輪誘致議論で俎上(そじょう)に載せられたのは、2006年のトリノ冬季五輪・パラリンピックである。
この祭典に要したコストは35億ユーロ。もともと夏季よりも小規模な冬季五輪ということもあって、2020年の東京五輪の予算からすればわずかなものだ。国からの援助もあった。だが、日本の京都府より少ない人口226万の自治体であるトリノ県にすれば極めて大きな負担であった。
残留設備にも頭を悩ませている。その最たる例は1億1100万ユーロをかけて建設したボブスレー会場である。閉幕後も年間130万ユーロ(約1億5000万円)の維持費を生じさせ、かつ建設部材の鉄板が次々と持ち去られた結果、2011年に閉鎖された(『ラ・ノティツィア』2019年6月26日付)。
選手村については、閉会後にどの公的機関が管理するかで紛糾するうち、難民が許可なく住み始めてしまった。「欧州で最も大きな不法占拠(『コリエッレ・デッラ・セーラ電子版』2018年9月7日付)」に変容したのである。
カロッツェリアが五輪で見せたセンス
さて、長くなったが、ここからがいよいよ本題である。
このようなトリノ五輪だが、読者の皆さんも知る自動車カロッツェリアに多くのビジネスチャンスをもたらしたのも確かだ。
招致委員長も務めたジョルジェット・ジウジアーロ氏率いるジウジアーロ・アルキテットゥーラ(当時はイタルデザインの子会社)はインフォメーションセンターであるアトリウム・トリノの設計を担当した。
ピニンファリーナは、大会シンボルのひとつである聖火トーチをデザインするだけでなく製造も担当し、五輪用を1万2000本、パラリンピック用を125本納入した。
実際のところは両社とも閉会後に業績不振に陥り、イタルデザインは2010年にフォルクスワーゲングループ傘下になり、ピニンファリーナはインドのマヒンドラ&マヒンドラの資本参加を仰ぐこととなった。五輪が引き金になったわけではないが、華やかな一時期のあとだけに、そのコントラストが筆者を困惑させたものだ。
しかし彼らの作品自体は、正当に評価されるべきであろう。当時筆者はアトリウム・トリノを複数回訪ねて取材した。シンプルかつ大胆な木製アーチとテントを組み合わせたその仮設建築物は、公園の樹木やその葉に触れないように配慮しながら広大な空間を実現していた。今考えるとそのスペースユーティリティー性の高さには、ジウジアーロが過去にデザインした小型車に通じるものがあるといってもよかった。広いグラスエリアが太陽光をふんだんに取り込み、暖房用エネルギーの消費を抑えていた。
ピニンファリーナのトーチは、同社自慢の自動車用風洞を駆使してデザインされた結果、雨と雪のいずれにも強く、風速120km/hにも耐えられる設計だった。
躍動感あるフォルムとクールなブルーは、筆者が知る聖火トーチの中ではベストと断言できる。
フィアットグループ(当時)はトリノ五輪でメインスポンサーの一社を務め、大会用車両3000台とバス1200台を提供した。
開催直前、旧フィアット工場棟を改造したホテルであるメリディアン・リンゴット(現ホテルNHトリノ リンゴット コングレス)に筆者が滞在していたときのことだ。
雪が降る中、外の駐車場を埋めていたのは、無数の「アルファ・ロメオ159」と「フィアット・クロマ」のオフィシャルカーだった。
フィアットが特別なオフィシャルカーを提供したという記録はない。だが逆に普通のクルマを使用したことで、五輪閉幕後はステッカーを剝がして普通に販売できたのは明らかだ。前述のように数々の負の遺産を残してしまったトリノ五輪だが、幸いクルマに関しては無駄がなかったといえる。
閉塞感打破はローテクで?
トリノとイベントということでさらに歴史をさかのぼると、1961年にはイタリア61が開催されている。1861年のイタリア国家統一から100周年を祝うため企画された博覧会だ。トリノを舞台にしたのは、イタリア王国最初の首都がこの地に置かれたからである。加えて、フィアットとオリベッティという戦後経済成長を象徴する企業2社が県内にあったことも、復興を象徴するのにふさわしかった。
そのイタリア61に関して資料で確認すると、少なくとも2種類の輸送手段が利用されていたことが分かる。
こちらも既存車両がベースである。ひとつは「フィアット600ムルティプラ」のオープン仕様だ。パビリオンのひとつであるフィアット館のためにカロッツェリア・ギアが製作した。作風はギアが以前からフィアットの「500」や「600」をベースに製作・販売していたビーチカー「ジョリー」に似ていた。台数には諸説あるが30台というのが有力だ。
閉会後は、多くが南部のリゾート地の観光客輸送用として第2の人生を送ったとされる。
いっぽうは三輪トラック「ピアッジョ・アペ」をベースにしたタクシーだ。混雑するパビリオン内で抜群の機動性を発揮し、乗客はパビリオンをより広い視界で楽しむことができたに違いない。
2018年にイタリア北部サルソマッジョーレ・テルメで開催されたピアッジョ・アペ70年祭には、イタリア61用タクシーの塗色やステッカーを再現した車両がプライベート参加者によって持ち込まれた。
あいにく、そのクルマには乗ることができなかったが、その雰囲気を残す最新型「アペ カレッシーノ」の客席に乗ることができた。
にぎやかなエンジン音とバイブレーションに包まれ、風を切って走る感覚は、当時のイタリア61来訪者の高揚感を増幅したに違いない。
音と振動、そして風に対する人間の感覚は、今日でも大して変わっていないはずだ。
それらを遮断することこそが進歩と捉えられてきた自動車の世界だが、そうした不変のものにこそ、まだ感動があるのではないかと、アペ カレッシーノに揺られながら筆者は思った。
昨今、学研の『大人の科学』シリーズが売れているのは、機械が動く仕組みが単純明快に分かるからである。ローテク感覚は、五輪と万博、ついでにいえばモーターショーと、ビッグイベントにおける今日の閉塞(へいそく)感を打破する鍵かもしれない。
対して東京五輪では、ハイテクノロジーの塊である自動運転車の運用が計画されている。いっそのこと、聖火を全ルート自動運転車で輸送すれば、それなりに世界各国で話題になると思うのだが、いかがだろうか。
(文=大矢アキオ<Akio Lorenzo OYA>/写真=Akio Lorenzo OYA、ピニンファリーナ、フィアット・クライスラー・オートモービルズ/編集=藤沢 勝)

大矢 アキオ
Akio Lorenzo OYA 在イタリアジャーナリスト/コラムニスト。日本の音大でバイオリンを専攻、大学院で芸術学、イタリアの大学院で文化史を修める。日本を代表するイタリア文化コメンテーターとしてシエナに在住。NHKのイタリア語およびフランス語テキストや、デザイン誌等で執筆活動を展開。NHK『ラジオ深夜便』では、24年間にわたってリポーターを務めている。『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)、『メトロとトランでパリめぐり』(コスミック出版)など著書・訳書多数。近著は『シトロエン2CV、DSを手掛けた自動車デザイナー ベルトーニのデザイン活動の軌跡』(三樹書房)。イタリア自動車歴史協会会員。
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