第259回:「世界一まずい朝食」と「イヴォーク」の関係
2012.08.24 マッキナ あらモーダ!第259回:「世界一まずい朝食」と「イヴォーク」の関係
「マーマイト」というペースト
ボクがそれと出会ったのは、前回イギリスを訪れたときである。場所はガトウィック空港近くの安宿だった。朝食はセルフサービスで、パンを焼くトースターの横に置いてあったペーストがそれだ。
甘いもの好きなボクは、チョコレートペーストを見つけ、それをたっぷりと塗った。そして自分の席に戻り、トーストをひと口かじった。その瞬間、血の気が引いた。食べ物とは思えぬほど苦い。「チョコレートである」という思い込みが指令となって先に脳に伝わっていただけに、その衝撃はさらに増幅された。
慌ててトースターのコーナーに駆け寄って瓶を取ると、ラベルには「Marmite(マーマイト)」と記されていた。そのボトルの色から「チョコレートだ」と思い込んでしまったのだ。席に戻って、あらためて残りのパン切れの匂いをかいでみる。匂いも強烈だ。
以前スイスのアッペンツェールという村で、村名と同じ名前のチーズを車内で食べたら、その匂いがクルマ中に充満して困ったことがあったが、それに勝るとも劣らない。嫌な奴のクルマの中にそれを塗りたくったら、ちょっとしたテロ行為になるだろう。顧客に対して過剰に神経をとがらせる日本なら、瓶に「これはチョコレートペーストではありません」と明記するに違いない。
後日イタリアのわが家に帰って調べてみると、例のマーマイトはビール酵母を抽出したものであることが判明した。ビールを醸造する際にできる副産物だという。「ビタミンBを豊富に含み、かつベジタリアンにも最適」というのがメーカーのセールスポイントだ。
いっぽうでその味に慣れない他の欧州人にとっては、英国の“まずいもの”の代名詞になっているという事実もわかった。ああ、よかった。ボクだけではなかったのだ。
修行のつもりで
しかしながらその誕生は1902年である。「こんなまずいものを長年食べていても平気なイギリス人に負けてなるものか」と悔しくなったボクは、先日再びイギリスに赴いた際、マーマイトのガラス瓶入り250gをスーパー「マークス&スペンサー」で購入した。
そしてイタリアに戻ってから毎朝バターを塗ったパンにマーマイトを上塗りして食べることにした。ビタミンB豊富なのだから日頃悩まされている口内炎にもよいに違いないと信じ、修行のつもりで食べるのだ。
相変わらず、まずい。第二次大戦中の英国軍は、マーマイトを捕虜に食べさせていたというが、残虐なことをするものである。これはボクの仮説であるが、当時マーマイトを食べさせられたドイツ人が後年豊かになり、旅先の各地で吹聴したことにより、「イギリスの食べ物=まずい」説が流布したと考えられなくもない。
そんなこんなで1週間ほど食べ続けたある日、思わぬ事態が発生した。マーマイトのフタが開かなくなってしまったのだ。毎朝ナイフですくうときに瓶の口周辺にたらしたマーマイトが固まってしまったのが原因らしい。力任せに開けようとしてフタと格闘していたら、あろうことか指にマメを作ってしまい、気がつけばつぶれていた。
その日以来マーマイト修行は中断した。だが気がついたのは、すでにマーマイトなしでは朝食が進まなくなっている自分だった。
その間、瓶と一緒に買ってきた「マーマイト味カシューナッツ」を食べて過ごした。ペーストほど最初に食べたときの衝撃はないかわり、ペーストファンに“誘導”するには極めて有効な商品だと思った。
イタリアに16年住んでもいまだわからないことだらけのボクが、イギリスの食品を論じるのはアメション(アメリカで小便をしてきただけ)ならぬ、ブリション(ブリテン諸島で小便)級であるのは百も承知だ。だが、一度はまると意外に恋しくなるその“常習性”こそ、イギリス人が110年も食べ続け、彼らの4人に1人がピクニックにマーマイトを持参する理由だと確信した。
今日までマーマイトに「英国王室御用達」マークは付いていないが、もし王室一家も食べているのなら、早めに認めてしまったらどうだろう。
外国人の目でないとわからない
そのフタ問題はといえば、後日水をかけることによって、あっけないほど簡単に開くことが判明した。同時にボクが知ったのは、「絞り出し用パッケージ」という改良型が存在することだった。これなら、マメをつくらなくて済む。
それをボクが知ったマーマイトの製品ウェブサイトはなかなか傑作だ。トップページからいきなり、「マーマイト大好き」と「マーマイト大嫌い」を選択するようになっている。
「大好き」を開くと成分やマーマイトを使ったおすすめレシピが、「大嫌い」を選択すると、「あなたのサンドイッチを台無しにするマーマイトレシピ」といった内容に進めるようになっている。
よく見ると買ってきた瓶にも「マーマイトに対する親しみを詩につづったりすることは、私には考えられない」といった、笑ってしまうフレーズが記されている。
こうした自社製品のデメリットを逆手にとる方法で思い出すのは1960-70年代に展開されたフォルクスワーゲンの広告である。
例えば、クルマの写真がまったくなく「1962年型は特にご覧いただくものはありません」というコピーだけの広告。華やかなモデルチェンジが怒濤(どとう)のごとく行われていた当時の米国で、ビートルが相も変わらず同じスタイルであることを自嘲しながらも、詳しい説明にはばっちりと真面目な改良点が記されていた。
そうしたフォルクスワーゲンの名作広告を作ったのは、世界的な広告代理店DDBだが、今回調べてみると意外な事実が判明した。マーマイトの自虐的キャンペーンを担当しているのも同じDDBであったのだ。
マーマイトを製造してきた会社は、2000年にオランダ−英国企業のユニリーバに吸収されている。外国人の陰口である「まずい」を逆に武器にしてしまった広告代理店のアイデアにハンコ(があるとは思えないが)を押す勇気は、多国籍編成のスタッフやブレーンで構成された国際企業にならなければ、なかったであろう。
![]() |
日本のダサさもプラスになるか?
そこで気がつくのは、近年の英国車である。MINIとロールス・ロイスはBMWによって、ジャガー・ランドローバーはタタによって市場で成功した。
とくにジャガー・ランドローバーは2012年3月、両ブランドとも史上最高の販売台数を記録した。記録的落ち込みが続くイタリア市場でも、ランドローバーは「レンジローバー イヴォーク」のおかげで、ヒュンダイとともに数少ないプラス成長を示しているブランドだ。
イヴォークを買った人の何割かは、将来、より高級な「レンジローバー ヴォーグ」を買ってくれるだろう。そうした意味でイヴォークは、前述のマーマイトスナックなのである。
マーマイトも英国車も、本国の人間だけでは気づかなかったアイデンティティーが再発見され、最大限に引き出されているのである。
昨今、日本ではメーカーの業績不振が著しく、そのいくつかは海外資本の傘下に入ったり、入ろうとしている。買収した海外企業は今後、日本ブランドのアイデンティティーをどう活用するのか。マーマイトのように、日本のダサい点、ネガティブな点をプラスに転じる、日本人が考えもつかないアッと驚く秘策が出てくることを今から期待しているボクである。
(文と写真=大矢アキオ、Akio Lorenzo OYA)

大矢 アキオ
Akio Lorenzo OYA 在イタリアジャーナリスト/コラムニスト。日本の音大でバイオリンを専攻、大学院で芸術学、イタリアの大学院で文化史を修める。日本を代表するイタリア文化コメンテーターとしてシエナに在住。NHKのイタリア語およびフランス語テキストや、デザイン誌等で執筆活動を展開。NHK『ラジオ深夜便』では、24年間にわたってリポーターを務めている。『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)、『メトロとトランでパリめぐり』(コスミック出版)など著書・訳書多数。近著は『シトロエン2CV、DSを手掛けた自動車デザイナー ベルトーニのデザイン活動の軌跡』(三樹書房)。イタリア自動車歴史協会会員。
-
第930回:日本未上陸ブランドも見逃すな! 追報「IAAモビリティー2025」 2025.10.2 コラムニストの大矢アキオが、欧州最大規模の自動車ショー「IAAモビリティー2025」をリポート。そこで感じた、欧州の、世界の自動車マーケットの趨勢(すうせい)とは? 新興の電気自動車メーカーの勢いを肌で感じ、日本の自動車メーカーに警鐘を鳴らす。
-
第929回:販売終了後も大人気! 「あのアルファ・ロメオ」が暗示するもの 2025.9.25 何年も前に生産を終えているのに、今でも人気は健在! ちょっと古い“あのアルファ・ロメオ”が、依然イタリアで愛されている理由とは? ちょっと不思議な人気の理由と、それが暗示する今日のクルマづくりの難しさを、イタリア在住の大矢アキオが考察する。
-
第928回:「IAAモビリティー2025」見聞録 ―新デザイン言語、現実派、そしてチャイナパワー― 2025.9.18 ドイツ・ミュンヘンで開催された「IAAモビリティー」を、コラムニストの大矢アキオが取材。欧州屈指の規模を誇る自動車ショーで感じた、トレンドの変化と新たな潮流とは? 進出を強める中国勢の動向は? 会場で感じた欧州の今をリポートする。
-
第927回:ちがうんだってば! 「日本仕様」を理解してもらう難しさ 2025.9.11 欧州で大いに勘違いされている、日本というマーケットの特性や日本人の好み。かの地のメーカーやクリエイターがよかれと思って用意した製品が、“コレジャナイ感”を漂わすこととなるのはなぜか? イタリア在住の記者が、思い出のエピソードを振り返る。
-
第926回:フィアット初の電動三輪多目的車 その客を大切にせよ 2025.9.4 ステランティスが新しい電動三輪車「フィアット・トリス」を発表。イタリアでデザインされ、モロッコで生産される新しいモビリティーが狙う、マーケットと顧客とは? イタリア在住の大矢アキオが、地中海の向こう側にある成長市場の重要性を語る。
-
NEW
「マツダ スピリット レーシング・ロードスター12R」発表イベントの会場から
2025.10.6画像・写真マツダは2025年10月4日、「MAZDA FAN FESTA 2025 at FUJI SPEEDWAY」において、限定車「マツダ スピリット レーシング・ロードスター」と「マツダ スピリット レーシング・ロードスター12R」を正式発表した。同イベントに展示された車両を写真で紹介する。 -
NEW
第320回:脳内デートカー
2025.10.6カーマニア人間国宝への道清水草一の話題の連載。中高年カーマニアを中心になにかと話題の新型「ホンダ・プレリュード」に初試乗。ハイブリッドのスポーツクーペなんて、今どき誰が欲しがるのかと疑問であったが、令和に復活した元祖デートカーの印象やいかに。 -
NEW
いでよ新型「三菱パジェロ」! 期待高まる5代目の実像に迫る
2025.10.6デイリーコラムNHKなどの一部報道によれば、三菱自動車は2026年12月に新型「パジェロ」を出すという。うわさがうわさでなくなりつつある今、どんなクルマになると予想できるか? 三菱、そしてパジェロに詳しい工藤貴宏が熱く語る。 -
NEW
ルノー・カングー(FF/7AT)【試乗記】
2025.10.6試乗記「ルノー・カングー」のマイナーチェンジモデルが日本に上陸。最も象徴的なのはラインナップの整理によって無塗装の黒いバンパーが選べなくなったことだ。これを喪失とみるか、あるいは洗練とみるか。カングーの立ち位置も時代とともに移り変わっていく。 -
マツダ・ロードスターS(前編)
2025.10.5ミスター・スバル 辰己英治の目利き長きにわたりスバルの走りを鍛えてきた辰己英治氏が、話題の新車を批評。今回題材となるのは、「ND型」こと4代目「マツダ・ロードスター」だ。車重およそ1tという軽さで好評を得ているライトウェイトスポーツカーを、辰己氏はどう評価するのだろうか? -
BMW R12 G/S GSスポーツ(6MT)【試乗記】
2025.10.4試乗記ビッグオフのパイオニアであるBMWが世に問うた、フラットツインの新型オフローダー「R12 G/S」。ファンを泣かせるレトロデザインで話題を集める一台だが、いざ走らせれば、オンロードで爽快で、オフロードでは最高に楽しいマシンに仕上がっていた。