第7回:アルファ・ロメオとマセラティ
グランプリのライバルから量産車メーカーへ
2017.09.21
自動車ヒストリー
戦前のグランプリレースで一時代を築いたイタリアの両雄、アルファ・ロメオとマセラティ。戦災や経営危機など、あまたの困難を乗り越えてきた両ブランドの歴史を、自動車史に名を残す名車の数々とともに振り返る。
戦前のレースで覇を競う
1930年のグランプリは、夏に入ると予期せぬ激震に見舞われた。アキーレ・ヴァルツィが、アルファ・ロメオからマセラティに電撃移籍したのである。彼はアルファ・ロメオのレース活動を担っていたスクーデリア・フェラーリのエースドライバーだった。激しいトップ争いを演じていた両チームの力関係を揺るがす大事件である。この年のマセラティは絶好調で、トリポリGPをはじめとした多数のレースで勝利を挙げた。
1920年代の後半、アルファ・ロメオとマセラティは国内外のレースで覇を競っていた。自動車誕生からしばらくするとクルマの性能とドライバーのテクニックを競う競技が始まり、1901年にはフランスで初めてグランプリの名を冠したレースが行われた。1920年頃からは各国でグランプリレースが開催されるようになる。当時の自動車はごく限られた層だけが手に入れることのできるぜいたく品で、ユーザーに高性能をアピールするレースは、自動車メーカーにとって重要なイベントだった。
現在、人々がアルファ・ロメオとマセラティについて抱くイメージは、いずれもイタリアの高級スポーツカーメーカーというものだろう。グランプリレースでのライバル同士が、今ではどちらもフィアットグループの一員となっている。両社とも苦難の時期を迎えたことがあり、時代の移り変わりに対応して大きな変化を経験してきた。
創業はアルファ・ロメオのほうが早い。ロンバルディア州の実業家たちがフランス車、ダラックのイタリア工場を買収し、1910年にロンバルダ自動車製造株式会社を設立したのが始まりである。社名はイタリア語で「Anonima Lombarda Fabbrica Automobili」と表記され、製造したクルマには頭文字の「A.L.F.A.」という名が与えられた。
技師で実業家のニコラ・ロメオは、第1次世界大戦の軍需で築いた財を投入し、ロンバルダ自動車製造株式会社の経営権を取得する。1918年には所有していた自らの会社と合併させ、ニコラ・ロメオ技師株式会社が誕生した。戦争が終わって生産が再開された民生用のモデルには、彼の名前を冠した「ALFA-ROMEO」のバッジが付けられることになった。
「ティーポ26」「P2」が活躍
ミラノ近郊の町ヴォゲーラに住む機関士のロドルフォ・マセラティには、長兄カルロを頭に6人の息子がいた。父の操る機関車を見て育った兄弟のうち5人は、新時代の乗り物として脚光を浴びつつあった自動車に興味を引かれるようになる。彼らはレーシングドライバーやエンジニアとして働いた後、1914年に共同で会社を設立した。高性能なスパークプラグを製造して資金を得るとともに、レーシングカーの開発を行うようになる。
イソッタ・フラスキーニやディアットのチューニングを請け負いながらレース活動で名を高め、1926年に初のオリジナルレーシングカーを製作する。1.5リッターエンジンを搭載するグランプリマシンの「ティーポ26」だ。グリルに付けられたトライデントのエンブレムをデザインしたのは、ただ一人芸術の道を選んだ五男のマリオである。これで、6人兄弟すべてがクルマに関わることになった。
マセラティは排気量を2リッターに拡大した「ティーポ26B」やV型16気筒エンジンを搭載する「ティーポV4」を開発し、イタリアのレースで目覚ましい活躍を見せるようになる。一方、アルファ・ロメオは頼りになる新戦力を獲得していた。ワークスドライバーだったエンツォ・フェラーリの誘いで、エンジニアのヴィットリオ・ヤーノが参加したのだ。彼が開発したグランプリカー「P2」の戦闘力は高く、グランプリやタルガ・フローリオで華々しい成績を挙げる。
エンツォ・フェラーリはその後レーシングチームの「スクーデリア・フェラーリ」を立ち上げ、アルファ・ロメオのレース活動を請け負うようになる。ヤーノの製作したマシンで参戦し、数々のレースを制した。ヤーノはツーリングカーのジャンルでも実績を残している。「6C1500」「6C1750」「8C2300」などは戦前のアルファ・ロメオを代表するモデルだ。
アルファ・ロメオとマセラティは、互いに競い合うようにして高性能なモデルを生み出していった。しかし、1930年代の中頃になると、どちらのチームも突然勝てなくなる。マセラティの「ティーポ6C」やアルファ・ロメオの「P3」は優れたマシンだったが、急速に力を伸ばしたドイツ勢にはまったく歯が立たなかった。独裁政権を握ったヒトラーから国威発揚の使命を託されたメルセデス・ベンツとアウトウニオンが、豊富な資金力を生かして開発したモンスターを送り込んできたのだ。
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量産車メーカーとして再出発
グランプリでの零落と並行し、経営不振も両社を襲った。アルファ・ロメオは世界恐慌の影響で1933年に経営危機に陥り、産業復興公社(IRI)のもとで半国営企業となっていた。マセラティも資金不足が深刻化し、1937年に実業家アドルフ・オルシの手に経営を委ねることを決断。マセラティ兄弟は10年間エンジニアとして会社に残るという契約を結んだ。なんとか危機は脱した両社だが、1939年になるとレースどころではなくなる。第2次世界大戦が始まり、生産力を軍需に向けることを余儀なくされたのだ。
1943年にイタリアは降伏したが、国土は荒廃して連合軍の攻撃目標となった軍需工場は壊滅状態だった。アルファ・ロメオは工場を再建し、戦前型を改良したモデルの生産から活動を再開する。1950年のパリサロンで、新時代に対応するための変革が明らかになった。展示された「1900」という名のセダンは、先進的なDOHCエンジンを採用していた。モノコックボディーにダブルウイッシュボーンのフロントサスペンションを備えたスポーティーなモデルである。高級スポーツカーの少量生産から、量産車メーカーへと舵を切ったのだ。
マセラティでは、創業者のマセラティ兄弟と新オーナーのオルシとの対立が深まっていた。レーシングカー開発に専念したい兄弟は、ツーリングスポーツカーを販売したいと考えていたオルシと決裂する。彼らはマセラティを去ってO.S.C.Aを設立し、レース活動を続けた。マセラティはオルシの指揮下で高級スポーツカーを生産し、モータースポーツにも参戦したが、経営状況は悪化していった。
1957年にマセラティはワークス体制でのレース活動に終止符を打つ。ロードカーを主体としたメーカーへの転身を決めたのだ。ジュネーブショーに展示された「3500GT」が新時代の幕開けを告げるモデルだった。レースカーに搭載していた3.5リッター直列6気筒DOHCエンジンを利用して開発したGTカーである。デチューン版とはいえ高性能なパワーユニットを持つクーペは好評を博し、マセラティは新たな路線を開拓することに成功した。
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フィアットの下で評価を高める
アルファ・ロメオは1954年に「ジュリエッタ」、1962年に「ジュリア」を発売し、量産車メーカーとして確固たる地位を築いていく。1970年にはイタリア南部の経済開発の一環として企画されたFFモデル「アルファスッド」をリリースし、モデルバリエーションを拡大させた。マセラティは1963年のトリノショーで初の4ドアモデルとなる「クアトロポルテ」を発表した。スポーツカーのイメージをまとった高級セダンである。1966年にはスーパーカーブームの立役者となった「ギブリ」をデビューさせた。
華やかなラインナップをそろえたマセラティだが、慢性的な資金不足に悩まされていた。1968年にシトロエンからの申し出を受け入れ、株式を譲渡して傘下に入る。マセラティが開発したエンジンを「シトロエンSM」に搭載するなどして一定の成果を上げたが、シトロエンも盤石ではなかった。1975年に提携は解消され、マセラティの経営権はデ・トマソに移る。クライスラーと協力関係を結んだ時期を経て、マセラティが最後に選んだのはフィアットだった。1993年にグループ入りし、高級車ブランドとして再出発を果たした。
アルファ・ロメオは一足先にフィアット傘下に入っていた。政府が民営化の方針を打ち出し、持ち株を売却したのだ。フィアット体制の下で品質に磨きをかけ、1997年に発表した「156」が大ヒットする。マセラティはフェラーリとの提携を強化し、スポーティーな「3200GT」で評価を高めた。
2014年、フィアットはアメリカのクライスラーを子会社化し、巨大な自動車メーカーグループ、FCAが誕生した。かつてグランプリでしのぎを削ったライバルであるアルファ・ロメオとマセラティは、そのグローバル戦略を担う重要な部門として、今日も活動している。レースの世界で鍛えられた技術と伝統が、今もブランドを支えているのだ。
(文=webCG/イラスト=日野浦 剛)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。
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