祝! デビュー50周年
「いすゞ117クーペ」誕生の経緯を振り返る
2018.10.05
デイリーコラム
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2018年9月24日、神奈川県大磯町の大磯ロングビーチで、いすゞ117クーペオーナーズクラブ主催の「いすゞ117クーペ生誕50周年記念ミーティング」が開かれた。当日はクラブ員とビジターを合わせて、全国から95台の「117クーペ」が集結、会場では開発に携わったいすゞOBによる講演会も行われた。これを機に、「走る芸術品」とも呼ばれた117クーペ誕生の経緯を振り返る。
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“秒速分歩”の進化の中で
巨匠ジョルジェット・ジウジアーロがカロッツェリア・ギア在籍時代に手がけたスタイリングの美しさのみならず、日伊合作による自動車開発の成功例として、日本自動車殿堂の歴史遺産車にも認定されている117クーペ。高度経済成長とシンクロして日本の自動車工業が急速な発展を遂げた、日本車の青春時代ともいえる1960年代生まれの名車の1台である。
歴史を振り返るたびに思うことだが、1960年代における日本車の進化の速度はすさまじかった。戦後ほぼゼロからのスタートながら、自動車先進国である欧米に追いつき追い越せとばかりに技術開発競争に没頭した結果、日進月歩どころか秒速分歩の勢いで進化していったのである。
そのきっかけのひとつとなったのが、日本初の全面舗装された専用レーシングコースである鈴鹿サーキットで、1963年に開かれた戦後初の本格的な四輪レースである第1回日本グランプリ。その時点では鈴鹿サーキットのオーナーであるホンダはまだ走らせる四輪車を持っておらず、トヨタや日産、プリンスなども直4 OHVエンジンを積んだ市販車しかエントリー車両がなかった。
ところがホンダは翌1964年から四輪モータースポーツの最高峰であるF1グランプリに参戦開始。二輪ロードレースGPでの蓄積があったとはいえ、参戦2年目となる1965年の最終戦メキシコGPで初優勝を遂げてしまう。プリンス/日産とトヨタも、60年代末の日本グランプリでは、大排気量マルチシリンダーの純レーシングユニットをミドシップした、世界的にもまれなモンスターマシンを作り上げ、激突するまでになっていたのだ。
ほかに類のない驚異的な進化は、こうした性能面だけではなかった。カーデザインにおいても、またしかりだったのである。
幸運がもたらした作品
戦前からの歴史を持ち、戦後は大型商用車の専門メーカーとして再出発したいすゞが、乗用車市場へ進出すべく英ルーツグループと技術提携を結んだのは1953年。そこから始まった「ヒルマン・ミンクス」のライセンス生産から学んだ経験をベースに、1962年初のオリジナル乗用車となる「ベレル」をリリースした。
ベレルはいすゞの社内デザインながらピニンファリーナの影響が色濃いスタイリングだったが、当時国産メーカーの間ではイタリアのカロッツェリアとのコラボレーションがトップファッションだった。先陣を切ったのは1960年のトリノショーにミケロッティの手になる「スカイラインスポーツ」を出展したプリンスで、続いて日野が同じくミケロッティ、ダイハツがヴィニャーレ、日産がピニンファリーナ、マツダがベルトーネと契約。バスに乗り遅れるなといすゞもトリノ詣でを敢行し、1964年10月にカロッツェリア・ギアとデザイン委託契約を結んだ。
そこから後の「フローリアン」、そしてそれをベースとする「117クーペ」が生まれるわけだが、いすゞにとって幸運だったのは、ちょうどそのプロジェクトの最中に、まだ20代の若さながら、すでにベルトーネで数々の傑作を手がけていたジウジアーロがギアに移籍してきたことだった。
いすゞとギアを結びつけたのは、後にジウジアーロらとともにイタルスタイリング(イタルデザインの前身)を立ち上げ、日伊自動車産業の架け橋となった宮川秀之氏である。「ジウジアーロとは、彼がベルトーネ在籍中にマツダとの仕事を通じて知り合い、親しくなった」というその宮川氏から、以前に興味深い話を伺ったことがある。
いわく、ジウジアーロがチーフデザイナーとしてギアに移ってきた1965年後半の時点で、すでにフローリアンとなるモデルのデザインは前任者によってほぼ出来上がっていた。それをベースとする派生モデル、つまり117クーペとなるべきモデルのレンダリングもいくつか存在したが、そのなかに宮川氏を納得させるような、レベルが高く、かつインパクトのある作品は見当たらなかったという。
そこで宮川氏は、派生モデルについては仕切り直して、才気あふれるジウジアーロにやらせてほしいと、ギアの社長だったガスパルド・モーロに頼み込んだ。いすゞは将来有望なクライアントだから、ほかの仕事を後回しにしても最優先すべきという宮川氏の意見にモーロは同意し、その命を受けたジウジアーロも期待に応え、短期間ですばらしいクーペのレンダリングを仕上げた。
そのレンダリングに記された日付は1965年12月15日だったが、翌1966年3月10日に開幕したジュネーブモーターショーのギアのスタンドには、「ギア いすゞ117スポーツ」と名乗る美しい4座クーペが展示されていた。驚くべきことに、3カ月に満たない期間でプロトタイプを作り上げてしまったのである。
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“進歩的なスタジオ”が開発を担当
ちなみにギア いすゞ117スポーツに割り込まれる形となったギアのプロジェクトは、1966年11月のトリノショーでそろってベールを脱いだ「マセラティ・ギブリ」と「デ・トマソ・マングスタ」。このトリノショーでは、117クーペと近似性を感じさせるデザインの「フィアット・ディーノ クーペ」もデビューしている。どちらもほぼ同時期のジウジアーロ作品なので不思議はないのだが、フィアット・ディーノのデザインはギアではなくベルトーネ名義。ジウジアーロがベルトーネ在籍中、つまり117クーペより先に始まったプロジェクトであるが、公開は後になったわけである。この事実からも、ギア いすゞ117スポーツがいかに短期間で作られたかがわかるだろう。1960年代の日本車の急速な進化の裏には、予想外といっては失礼だが、こうしたイタリア人のスピーディーな仕事ぶりもあったのだ。
1966年10月の東京モーターショーのいすゞブースには、「いすゞ117」と称するフローリアンのプロトタイプ、そして「いすゞ117スポーツ」と名乗る117クーペのプロトタイプが並んで展示された。いすゞ117スポーツはジュネーブショー出展車両とは異なる、ギアで製作された2号車。1号車より丸みを帯びてよりソフィスティケートされ、ほぼ生産型に近い姿となっていた。
その頃にはいすゞは117スポーツの開発を決定、1966年末から翌1967年春にかけてチームをイタリアに送り込んでプロジェクトを進めることになるが、それと前後してイタリア側の体制にも変化が起きた。ジウジアーロがギアから独立、宮川氏らとともにイタルスタイリングを設立(公式な設立時期は1967年春、翌1968年にイタルデザインに改称)したのである。
「職人技に根ざした板金屋から発展した旧来のカロッツェリアとは一線を画す、モダンなマスプロダクションに直結するデザインおよびエンジニアリングを行うスタジオ」となるべく設立されたイタルスタイリングに、117クーペの開発はそのまま引き継がれた。117クーペの生産化をもくろむいすゞにとっては、そうした進歩的かつ合理的な発想を持つパートナーを得たことは、ジウジアーロがギアに移籍してきたことに続く幸運だったといえるかもしれない。
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人気あってのロングライフ
1967年8月、いすゞは117クーペの市販化を決定。その後もイタリアから板金職人チームを招聘(しょうへい)してボディー製造について学ぶなど日伊の協働は継続され、1968年12月、ついに117クーペ(型式名:PA90)は発売された。
フローリアン用をベースとするシャシーに、フローリアンや「ベレット1600GT」用の直4 OHVをDOHC化した1.6リッターエンジンを搭載。入念に仕上げられたフル4シーターの高級グランツーリスモながら、最高速度190km/h、0-400m加速16.8秒という公表された性能データは、当時の1.6リッター級ではトップクラス。操縦性と乗り心地の両立についても高く評価された。
乗用車づくりの経験が浅いいすゞが、短期間のうちに流麗なイタリアンデザインの高性能かつ完成度の高いGTを作り上げたことは、少なからず周囲を驚かせた。だが、ボディー製造に手作業の工程を含む少量生産車とあって、172万円という価格はベレット1600GT(85万7000円)2台分以上。国産車では「日産プレジデント」(191万~275万円)、「トヨタ・センチュリー」(208万~268万円)、「トヨタ2000GT」(238万円)に次ぐ、1.6リッター級としては異例の高価格車となってしまったのだった。
当初はモノグレードだったが、国産初となる電子制御インジェクションを備えた117クーペECなどグレード追加を経て、1973年に生産効率向上とコストダウンを目的としたマイナーチェンジを実施。俗に「ハンドメイド」と呼ばれる初期モデルから、機械プレスされたボディーを持つ「量産丸目」に変わった。1977年には再びマイナーチェンジで角形デュアルヘッドライトを持つ「量産角目」となり、その後も改良を重ねながら1981年4月まで作られた。累計生産台数は8万6192台という。
会社の規模から頻繁なモデルチェンジは難しかったため、いすゞの乗用車は概して長命な傾向があったが、117クーペの12年余というモデルサイクルはフローリアンの約14年半に次ぐ。だが諸事情により延命せざるを得なかったフローリアンに対して、117クーペは生産終了前の1年間でも5000台以上売れていたのだ。モデル末期の高級パーソナルカーで、いすゞの販売力を考えたら立派なものだろう。裏を返せば、117クーペが人気を保ち続けたということである。そして市販開始から50年、生産終了から37年を経た今なお多くのオーナーに愛され続けていることは、この日のミーティングで明らかになったとおりである。
日本車にイタリアンデザインが導入されてから60年弱、その間に多くのモデルが生まれてきた。中でもいすゞ117クーペは、最も美しく、魅力的なモデルの一台であるといえる。数多いジウジアーロの作品の中でも、傑作のひとつに数えられるだろう。しかも、もしジウジアーロがベルトーネからギアに移籍してこなかったら、もし宮川氏の提案がなかったら生まれていなかったであろうことがドラマチックではないか。名車には誕生にまつわるエピソードがつきものだが、その経緯からして運命的だったクルマ、それが117クーペなのである。
(文=沼田 亨/写真=沼田 亨、CG Library/編集=関 顕也)
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沼田 亨
1958年、東京生まれ。大学卒業後勤め人になるも10年ほどで辞め、食いっぱぐれていたときに知人の紹介で自動車専門誌に寄稿するようになり、以後ライターを名乗って業界の片隅に寄生。ただし新車関係の仕事はほとんどなく、もっぱら旧車イベントのリポートなどを担当。