第34回:北欧からの風――ボルボ&サーブ
グローバル化の中で保ち続けた独創性
2018.10.11
自動車ヒストリー
他のどの国のモデルとも趣を異にする、独創性が魅力の北欧の2ブランド、ボルボとサーブ。欧州屈指の工業国である、スウェーデンの自動車史そのものともいえる両社の変遷を、その歴史を彩ったあまたのモデルとともに振り返る。
金属加工会社から生まれたボルボ
1980年代後半から90年代にかけて、日本ではボルボとサーブの人気が高まりつつあった。バブル最盛期にはもてはやされたメルセデス・ベンツやBMWに代わるモデルが求められていたのだ。精密で高性能なドイツ車とは違った味わいを持つクルマということでクローズアップされたのが、北欧スウェーデンから清新な風をもたらした2つのメーカーである。どちらのモデルも、一目見ただけで他のヨーロッパ車とは明らかに違うことが見てとれた。
人気の高かったサーブのモデルが「900」である。強いラウンド型で立ち気味のフロントウィンドウとスラントノーズを備え、見たことのないプロポーションがスタイリッシュな印象を与えた。特に女性から好まれた派手なボディーカラーのカブリオレは、アメリカンな雰囲気さえ漂わせていた。
対照的なイメージで支持されたのがボルボである。「240」や「740」などの角張った形をしたモデルは、武骨さや真面目さを体現しているように見えた。とりわけ注目を集めたのは、ワゴンモデルである。実用に徹したフォルムが逆に新鮮で、クルマに荷物をたくさん積んでレジャーに出かけるというトレンドにも親和性があった。
目新しさが人気の背景にあったことは否定できない。世界的に見ても、スウェーデン車は自動車のメインストリームではなかった。ただ、この国は古くから工業国として知られており、特にスウェーデン鋼は上質な鉄鋼の代名詞とされていた。ボルボの誕生にも、金属加工の会社が関わっている。
1924年、ボールベアリング製造会社SKFの重役だったアッサール・ガブリエルソンが、エンジニアのグスタフ・ラーソンに自動車設計を依頼した。ガブリエルソンは自社の製品が高品質で価格競争力もあることを知り、技術力を生かしてスウェーデンに自動車工業を起こすべきだと考えたのだ。そこで以前SKFに勤めていたラーソンに声をかけ、プロトタイプの製作に乗り出した。基本理念として定められたのは、徹底したテストを行って高い品質を追求することである。
彼らはSKFの休眠ブランドになっていたボルボ(ラテン語で「回る」「転がる」の意味)の名を使って自動車製造を始めた。初の量産車は、1927年に発売された「PV4」である。PVとはPerson Vagnの略で、サルーンの意味を持つ。売れ行きはなかなか伸びなかったが、翌年から販売したトラックの成功で経営基盤が整っていった。1932年に累計生産台数1万台を達成した時、その内訳は乗用車が3200台、トラックが6800台という比率だった。
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航空機製造の技術を生かした「サーブ92」
一方、サーブが誕生したのは第2次大戦後である。母体となったのは軍用機を製造していたスウェーデン航空機株式会社で、Svenska Aeroplan ABと表記する。これが社名の由来となった。戦争の終結が近づき軍用機需要の激減が現実味を帯びると、民需への転換が喫緊の課題となる。サーブは民間機の製造を目指し、軽飛行機の「91サファイア」と小型旅客機の「90スカンディア」を開発した。
この2機だけで会社を維持していくことは困難で、新分野への進出が不可欠だ。検討の結果選ばれたのが乗用車製造だった。戦争が終われば小型車の需要が高まると予想されており、すでにボルボは大戦終結前に新型車の「PV444」を発表している。4人乗り、40馬力、4気筒を意味するこのモデルは、大きな反響を呼んでいた。
サーブのエンジニアは、航空機製造の経験を生かして未体験の自動車開発に取り組んだ。風洞実験をボディー設計に取り入れるという手法を使ったことが、空力性能の高い流線形のデザインにつながっている。1946年に作られた試作車の「92001」は、空気抵抗係数を表すCd値が0.32に抑えられていた。0.5程度が常識だった当時としては異例の数字である。モノコックボディーを採用したのも、軽量化を重視する航空機メーカーらしい選択だった。エンジンはドイツのDKWにならって2気筒2ストロークとし、前輪駆動を採用している。
1947年、サーブは初の乗用車として「92」を発表する。航空機の「90」と「91」に続くモデルとしての命名だ。この年にはボルボもPV444の本格的な量産を開始しており、スウェーデンの自動車工業は力強く歩み始めた。
サーブ92は改良を重ねて発展していく。エンジンは3気筒になり、さらには4ストロークのV型4気筒に換えられる。最終的な発展形の「96」は、1980年まで製造された。一方、ボルボはPV444の販売が好調で、1958年の生産終了までに累計約20万台を世に送り出した。世界にボルボの名を知らしめたのは、1956年に発表された「アマゾン」である。この名称はドイツのクライドラーが保有していたため、国外では「120」などの数字がモデル名となっていたが、アマゾンという愛称のほうがよく知られていた。
アマゾンは、北米への輸出に重点が置かれたモデルだった。すでにPV444はアメリカで販売実績があり、アマゾンもスタイリッシュでパワーのある中型車として高い評価を受ける。サーブも国外への進出に積極的で、1951年にアメリカへの輸出を開始していた。スウェーデンの市場だけでは販売数に限界があり、両社がターゲットとしてアメリカを重視したのは当然だったといえる。
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安全性の追求が評価を高める
優れた安全性を備えていたことも、アマゾンが高い評価を受けた理由である。ボルボは3点式シートベルトを開発し、1959年型から標準装備として導入を始めていた。特許は無償で公開され、3点式シートベルトは全世界のメーカーに広まっていく。
ボルボの安全性を追求する姿勢は、アマゾンに限った話ではない。スウェーデンでは道路でヘラジカと遭遇する事故がしばしば発生しており、設計段階から対策を練る必要があった。1944年には割れたガラスでけがをする危険を低減するため、合わせガラスを開発している。このほかにも、ダブルトライアングルブレーキングシステム、インストゥルメントパネルのソフトパッド化、多段式衝撃吸収ステアリングコラム、安全ガソリンタンク、チャイルドシートなど、ボルボが世界に先駆けて採用した安全技術は数多い。1972年には安全実験車「VESC」を発表し、1974年に発売した「240」から、その成果を設計に取り入れるようになった。
製品開発以外の分野でも、ボルボは積極的な取り組みを見せている。1950年代半ばには画期的な保証制度を始めた。購入後5年間は事故や故障で修理が必要となった場合、400クローネを超える額をボルボが負担するというものだ。全損事故を起こしても、400クローネで新車を手に入れることができたのである。その代わり、事故に関して徹底的な聞き取りを行い、車体の損傷や事故状況を調べあげてデータを収集した。これが後の安全装備開発に役立つことになる。
サーブのクルマにも先進的な工夫が施されていた。「900」のキーシリンダーはセンターコンソールに設置されており、シフトレバーをリバースに入れないとキーが抜けない。雪道での駐車で、意図せず動き出すことを防ぐための工夫である。北欧ならではの行き届いた配慮なのだ。
安全に対する姿勢や独創性から、次第に評価を高めていったボルボとサーブだが、1970年代に入ると自動車業界は大規模な変化の時期を迎える。市場は流動化し、会社の規模を拡大しなければ生き残りが難しくなっていた。ヨーロッパでは自動車メーカーの合併が相次ぎ、経営の悪化から政府の支援を受けて国営企業化するケースも発生する。小国スウェーデンに自動車メーカーが2つあるのは効率的ではないという議論が生まれるのは必然だった。
1977年、ボルボとサーブの経営陣は提携に向けて検討を始めたことを発表する。一体化して競争力を高めることが期待されたが、交渉はわずか3カ月で頓挫した。両社は企業文化がまったく異なっていたのだ。クルマの設計を見ても、当時のボルボは後輪駆動で、サーブは前輪駆動を採用していた。雪道での安全性は自社の方式が優れていると主張し合い、考えが一致することはなかった。
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自動車業界再編で分かれた明暗
世界の自動車業界再編の動きは止まらなかった。存在感を高めるためにはニューモデルを投入する必要があるが、膨大な開発費がかかる。サーブの新型上級モデルのプロジェクトは、イタリアのフィアット、アルファ・ロメオ、ランチアと共同で行われることになった。基本設計を共用し、それぞれのメーカーが自社ブランドで販売する。1985年に発売された「サーブ9000」は、「フィアット・クロマ」、「アルファ・ロメオ164」、「ランチア・テーマ」の姉妹車として誕生した。
サーブ9000は順調な売れ行きを示したが、1車種だけで十分な利益を生み出すことは難しい。資金不足が表面化し、サーブはゼネラルモーターズ(GM)の支援を受け入れる。1990年にサーブは新会社となり、技術面でもGMの恩恵を受けることになった。1993年に2代目となった900は、「オペル・ベクトラ」とプラットフォームを共用している。サーブは2000年にGMの完全子会社になった。
ボルボの経営状況も次第に悪化していく。当時は400万台以上の規模を持たない自動車会社は立ち行かなくなるといわれており、規模の拡大が急務とされていた。提携を模索した結果、1999年にフォードの傘下に入ることが発表される。アストンマーティン、ジャガー、ランドローバーとともに高級車ブランドのPAG(プレミア・オートモーティブ・グループ)に加わることになったのだ。もともとボルボとサーブはアメリカ志向が強く、この組み合わせは納得のいくものだった。豊富な資金力を得て、両メーカーは魅力的なモデルを開発していく。
しかし、今度は肝心のGMとフォードが経営難に陥ってしまう。新たな危機の後、2社の命運はくっきりと分かれた。サーブはいくつかの企業のもとで再建が計画されたが、資金不足などでいずれも暗礁に乗り上げ、2017年にブランドは消滅した。一方、ボルボは2010年に中国の吉利グループに売却されたが、開発の拠点はスウェーデンに置かれたまま、質の高いモデルを製造し続けている。2017年7月、ボルボが2019年以降に発売するモデルは内燃機関のみのパワーユニットを採用しないと発表した。時代の流れにいち早く対応する姿勢を見せ、北欧の枠を超えたグローバルなプレミアムブランドとなるという方向性を選択したのだ。
(文=webCG/イラスト=日野浦 剛/写真=サーブ、ボルボ・カーズ、二玄社)
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鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。