第47回:軽自動車の原点「スズライト」
“小さな巨人”スズキの挑戦史
2019.04.18
自動車ヒストリー
小型大衆車メーカーとして、世界的に一目置かれる存在となっているスズキ。その技術はどのようにして磨かれ、今日に受け継がれているのか。織機メーカーとして誕生し、日本初の実用的な軽自動車を世に送り出した同社の歴史を振り返る。
織機製造から自動車産業に進出
2015年8月、国際仲裁裁判所がスズキとフォルクスワーゲンの間で争われていた提携解消の問題について判決を下した。ほぼスズキの全面勝利と言っていい内容である。2009年に両社は包括的提携を発表していたが、思惑の違いからすぐに不協和音が生じ、スズキが提携解消を申し入れていたのだ。イコールパートナーだと考えていたスズキに対し、フォルクスワーゲンはあくまでグループの戦略内の関係と位置づけていた。
フォルクスワーゲンが欲しかったのは、スズキの持つ新興国での販売網と小型車づくりのノウハウである。世界最大級の自動車会社グループにとっても、スズキは魅力的な存在だった。日本の激しい軽自動車競争の中で小型軽量化と低コスト化の技術が養われ、他の追随を許さないレベルになっていたからだ。スズキには、半世紀にわたって小さなクルマをつくり続けてきた歴史がある。原点は、1955年に発売した「スズライト」だ。
創業者の鈴木道雄は、1909年に浜松で鈴木式織機製作所を設立した。足踏み式の小型織機から始め、1920年には鈴木式織機株式会社に改組して動力織機に進出。効率の高さが評判を呼び、東南アジアへの輸出も行うようになった。順調に業績を伸ばしたが、織機は耐久性が高くて新規の需要が生まれにくい。いずれ先細りになることは明らかで、鈴木は新たな分野への進出に迫られた。そこで目をつけたのが自動車事業である。鈴木は技術力を生かすには自動車が最適だと考えたのだ。
1937年に「オースチン・セブン」を購入してエンジンの研究を始める。解体して構造を見極め、本物と同等の性能を持つコピーエンジンをつくり上げた。この年には豊田自動織機製作所を母体にトヨタ自動車工業が設立されており、日本では自動車製造に向かう機運が高まっていた。鈴木式織機でもフェートン型のプロトタイプを試作したが、以後は自動車開発どころではなくなった。日本は戦時体制に突入しつつあり、軍部から砲弾などの製造を要請されたのだ。
焼け野原でオートバイを製造
戦争で浜松は焼け野原となったが、幸運にも郊外にあった高塚分工場の被害は少なかった。しかし、懸念したとおり織機の販売は低迷する。打開策として思いついたのが、二輪車の製造だった。陸軍から払い下げられた6号無線発電機用エンジンを流用すれば、安上がりになる。すでにホンダが先行してオートバイメーカーとなっており、浜松ではほかにも多くのメーカーが二輪車事業に参入していた。現在の日本にはオートバイメーカーが4社あるが、カワサキを除くスズキ、ホンダ、ヤマハは浜松がルーツである。
1952年、鈴木織機は36ccのバイクモーター「パワーフリー号」を発売した。翌年エンジンを60ccに拡大した「ダイヤモンドフリー号」を市場に投入すると、月産4000台のヒット。1954年には社名を鈴木自動車工業株式会社に変更した。四輪事業に進出する意欲の表れだが、社内では反対論が強かった。せっかく二輪で成功しているのだから、リスクを冒して自動車製造に向かう必要はないというのだ。
鈴木道雄は次女の婿養子に迎えた常務の鈴木三郎をリーダーにした社長直轄のチームを作って開発をスタートさせる。「フォルクスワーゲン・タイプI(ビートル)」「シトロエン2CV」「ロイトLP400」「ルノー4CV」を購入して分析を始めた。検討の結果、手本として最適だと考えられたのは、2ストロークエンジンを横置きにしたFF車のロイトである。
日本では1949年に軽自動車の規格が定められた。全長2800mm、全幅1000mm、エンジンは4ストロークが150cc、2ストロークが100ccというもので、現実的にはこの枠組みで四輪車を製造するのは不可能だった。度重なる規格改定を経て1951年には全長3000mm、全幅1300mm、4ストロークが360cc、2ストロークが240ccとなり、ようやく「オートサンダル」などのモデルがつくられるようになったが、いずれも商業的な成功を収めたとはいえなかった。規格がようやく現実的なものに定まったのは、1954年に2ストロークエンジンでも排気量が360ccまで認められるようになってからだった(施行は1955年4月)。
半年でつくった試作車で箱根越え
スズキでは軽自動車の開発が急ピッチで進められた。2月にロイトを解体して分析を始め、9月には第1号試作車が完成している。10月に第2号車を使って路上での走行試験が行われた。浜松から東京を目指すルートで、箱根の山を越えなければならない。当時は箱根登板試験が自動車の性能を判定する基準とされていた。
舗装された路面は1割もなく、わだちの刻まれた砂利道を走っていかなくてはならない。試作車は過酷な試練に耐え、東京の芝浦に到達した。目的地は簗瀬自動車の本社である。長年自動車の輸入を手がけてきた梁瀬次郎社長に見せ、感想を聞こうというのだ。簗瀬氏は自らハンドルを握って都内を走り、性能に太鼓判を押す。自信を深めたスズキは試作車をベースに改良を重ね、1955年10月にスズライトを発売した。
スズライトには当初セダン、ライトバン、ピックアップの3モデルが用意されていた。1956年4月には東京・日比谷の第3回全日本自動車ショウに出品され、来場者の注目を集める。直売方式の価格は、それぞれ42万円、39万円、37万円。ダットサンの75万円に比べれば安いが、大卒初任給が6000円に届かなかった時代には簡単に手を出せるものではない。量産効果を出すため、1958年にはライトバン1車種に絞られた。
スズキにとって初めての四輪自動車は、先進的なメカニズムを持っていた。この時代にエンジン横置きの前輪駆動を選択したのは驚きである。日本でFF車が普及するのは1970年代になってからだ。ユニバーサルジョイントの性能を確保することが難しかったことが理由といわれる。スズライトはFF方式の採用で車内のスペースを広く取ることができ、ライトバンではフラットな荷室を実現できた。
軽自動車のトレンドを作り出す
リーフリジッドが当たり前の時代に、スズライトのサスペンションはコイルスプリングを用いた4輪独立懸架だった。ただし、これについてはオートバイメーカーだったのでリーフスプリングを扱ったことがなく、コイルを使わざるを得なかったのかもしれない。1956年からは耐久性の高い横置きリーフに変更されている。
2ストロークエンジンに関しては経験があったため、手本にしたロイトよりも高効率に仕上げることができた。空冷直列2気筒エンジンは、初期モデルでも15.1ps/3800rpmの最高出力を得ていた。トランスミッションは3段で、最高速度は80km/hである。1959年の2代目は最高出力が21ps/5500rpmに向上。ボディースタイルは「Mini」に似ているが、スズライトのほうが1カ月ほど発表時期は早かった。
物品税を回避するために当初は商用車のみだったが、1962年に乗用車版が登場。「スズライト フロンテ」と名づけられた。1967年の2代目からは「フロンテ360」になり、スズライトは1968年に販売を終了する。1976年の規格改定で排気量の上限が550ccになり、1979年に商用車の姉妹車「アルト」が登場。47万円という低価格で大ヒットし、排ガス規制の影響で販売不振に陥っていたスズキの救世主となった。
スズキの自動車づくりの原点となったスズライトの精神は、その後も脈々と受け継がれていく。1993年にはハイトワゴンの「ワゴンR」が登場し、軽自動車の新たなトレンドとなった。チャレンジングな姿勢を貫いたことで、スズキは世界の大メーカーから技術力を高く評価される“小さな巨人”に成長したのだ。
(文=webCG/イラスト=日野浦剛)
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鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。