第51回:時代を駆けぬけるBMW
苦闘から歓びへ
2019.06.13
自動車ヒストリー
「駆けぬける歓び」をスローガンとして掲げ、Cセグメントのコンパクトカーであろうと大型のSUVであろうと、常に“走り”の楽しいクルマを提供し続けるBMW。彼らのこの理念はいかにして生まれたのか? 苦闘に満ちたその歴史を振り返る。
航空機製造からオートバイへ
「駆けぬける歓び」は、自動車メーカーのスローガンとして最も有名なものだろう。BMWが常にドライビングプレジャーを追求していることを簡潔なフレーズで主張する。しかし、1952年に発売された「501」は、今日の理念とは趣を異にするモデルだった。大型で立派なボディーを持つが、戦前型を苦心して作り変えた1971ccの直列6気筒エンジンの出力はわずか65馬力。走りは鈍重で、ユーザーからの評価は芳しくなかった。スポーティーなイメージは、その後の長い苦闘の時代を経て確立したものなのだ。
BMWの誕生は1916年とされている。母体となったのは、航空機産業に従事する2つの会社だ。そのひとつ、1913年創業のラップ・モトーレン・ヴェルケは、バイエルン州のミュンヘン郊外に工場を築き、エンジン製造を始める。その近くには1911年に設立されたグスタフ・オットー・フルークマシーネン・ファブリークという会社があった。社名にあるグスタフ・オットーとは、4ストロークエンジンの発明者ニコラウス・アウグスト・オットーの息子。彼が航空機の機体を製造する会社を立ち上げたのだ。ラップ社は早速オットー社にエンジンを供給し始める。
やがて、1916年3月7日にオットー社はバイエリッシェ・フルークツォイク・ヴェルケ(バイエルン航空機製造)に社名を変更。翌年の7月25日には、ラップ社もバイエリッシェ・モトーレン・ヴェルケ(バイエルン発動機製造)に社名を変更した。
協力関係を深めていった両社は、やがて統合への道を歩むこととなる。ドイツの南部に位置するバイエルンは、謹厳な気質の北部とは異なる開放的で陽気な精神を持つといわれる。この地で誕生したことが、BMWのクルマづくりを基礎づけた。
1914年に第1次世界大戦が始まり、航空機の需要が急増する。BMWの技術力は高く評価され、業績は拡大していった。経営は順調だったが、1918年にドイツは敗戦。ヴェルサイユ条約によって軍用航空機エンジンの製造は禁止され、会社存続のために鉄道用のブレーキ製造を引き受けて急場をしのぐしかなかった。苦境の中でもエンジンの開発は続けられ、オートバイ用の500cc水平対向2気筒エンジンがヒット商品となる。イギリスのビクトリアなどに採用され、BMWの財政状況は好転していく。1923年には独自モデルの「R32」を発売し、高評価でベストセラーとなった。
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「326」で大型高級車市場に参入
二輪車メーカーとして成功を収めると、BMWでは自動車製造へ進出する機運が高まった。しかし、オートバイが売れたといっても、すべてを自社開発するほどの資本はない。大株主のダイムラー・ベンツは自社製品と競合するモデルの販売は許さず、BMWは小型車のライセンス生産を目指すことになった。
折よくも、ディクシー・アウトモビール・ヴェルケという会社を売りたいという話が持ち込まれる。1896年に創業したファールツォイク・ファブリーク・アイゼナハが発展した会社で、イギリスの「オースチン・セブン」のライセンス生産を行っていた。1928年にBMWはディクシー社を買収し、「3/15 PS」の生産・販売を開始する。ベースとなったセブンは中産階級の人々でも手に入れられる実用車として人気となっていて、BMWが独自の改良を施したモデルも好調な販売を記録した。
BMWの完全なオリジナルモデルは1933年に誕生した。直列6気筒エンジンを搭載した「303」である。排気量は1173ccで出力は30馬力、最高速度は90km/hだった。スタイルはオーソドックスなものだったが、フロントの左右に長円形のグリルを備えたのが目を引いた。今に至るまでBMWのデザインアイコンとなっているキドニーグリルは、このモデルから始まったのである。
この年、ドイツではヒトラーが政権を握り、モータリゼーションの推進を掲げた彼は自動車登録税を廃止した。大排気量車の購入に有利な条件で、BMWは上級モデルの開発に動く。1936年、「326」がデビュー。全長4600mm、全幅1600mmという大型ボディーで、流行の流線形デザインを取り入れていた。エンジンは1971ccとなり、最高出力は50馬力。BMWは悲願の大型高級車市場に初めて参入したのだ。
同じ年、ニュルブルクリンクに新型のスポーツカーがさっそうと姿を現した。圧倒的な速さでレースに勝利するが、そのモデルはプロトタイプでテストのために走行したことが後で判明する。翌年になって市販車として登場したのが「328」だった。エンジンは326と同じシリンダーブロックを使用していたが、ヘッドはアルミ製で圧縮比を6:1から7.5:1に変更。出力は80馬力まで向上し、830kgの軽量ボディーを150km/hで走らせた。
発売後にもレースへの参加を続け、1940年のミッレミリアではスペシャルボディーが与えられたマシンで優勝を果たしている。流麗なデザインと走行性能の高さが称賛され、戦前のBMW最高傑作は328だと考える人が多い。しかし、ビジネスとしては成功しなかった。総生産台数はわずか462台にとどまる。ヨーロッパには再び戦争の影が広がり、BMWも1939年からは軍需に向けた生産に専念することになる。
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危機を乗り越えて自動車生産を再開
1945年の敗戦で、ドイツは連合国の管理下に入った。軍需産業が禁止されたのは当然で、BMWも解体される。東ドイツ側にあったアイゼナハの工場はソ連の統治下に入り、残った施設を使って「321」「327」などの戦前型モデルの生産が再開された。当初はBMWと同じ青と白のエンブレムを使用していたが、後に抗議を受けて赤と白に変更する。新しい社名はアイゼナハ・モトーレン・ヴェルク(EMW)である。
一方、ミュンヘンの工場はアメリカ軍に接収され、軍用車の修理を行うようになる。戻ってきた社員たちは破壊された工場から材料をかき集めて作った鍋や釜を販売し、再起の道を探っていた。まず手をつけたのは、オートバイの開発である。新たに247ccの単気筒エンジンを設計し、1948年から「R24」の生産を始めた。定評のあるBMWのオートバイは市場から歓迎され、会社再建に向けて条件が整っていく。
自動車製造については、まずはライセンス生産から再開しようと交渉が重ねられたが、どのメーカーとも折り合いがつかなかった。自社開発のモデルとして企画されたのが「331」である。オートバイ用の600ccエンジンを搭載した乗員2名の小型車で、「フィアット500」の影響を受けている。ミニマムな仕立ての経済的な実用車は、戦後復興期のドイツで需要があるとエンジニアは考えていた。しかし、販売部門からは激しく反対される。戦前の体験から、大型高級車路線を歩むのがBMWの本来の姿であると彼らは主張したのだ。
本来の精神に立ち戻ったノイエ・クラッセ
プロトタイプまでつくられた計画はご破算となり、大型車のプロジェクトが始まった。326をベースとして、ボディーにモダンな曲面を取り入れてつくられたのが501である。全長4730mm、全幅1780mmという堂々たるボディーで、重量は1300kgを超えていた。
501は非力なエンジンが不評で、1954年には2580ccのV8エンジンを搭載した「502」を送り出す。翌年には排気量を3180ccに拡大し、商品力アップを図った。しかし、501/502は商業的な成功を勝ち得ていない。労働者の平均月給は約360マルクで、2万マルク近い価格のクルマを購入できる層は限られていたのである。「メルセデス・ベンツ300SL」に対抗したスポーツカー「507」も投入して高級車路線を推し進めるが、時代の要求とマッチしたモデルではない。507の生産台数は252台にとどまった。
財政的に追い詰められる中で、救世主となったのは不思議な形をしたミニマムなクルマだった。イタリアの「イソ・イセッタ」のライセンスを受け、「BMWイセッタ250」として販売したのである。信頼性の高いBMW製のエンジンに換装したモデルは庶民の足として人気となり、排気量を高めた「BMWイセッタ300」と合わせて16万台以上を売り上げた。イセッタの好評は他メーカーの参入を招き、ドイツでは“クラインヴァーゲン”が流行する。
ただ、販売数は多くても利益は薄く、BMWが危機を脱したとはいえなかった。1959年の株主総会では、実質的にダイムラー・ベンツ社の傘下に入って再建を図るというプランが提案される。辛くも提案は否決され、新たに経営の主導権を握ったのはヘルベルトとハラルトのクヴァント兄弟だった。30%を超える株式を取得して筆頭株主となった彼らは、新世代のミドルクラスセダンを開発するよう指示を出す。
1961年に発表された「1500」は、モダンな外観と卓越したハンドリング性能を持ち、批評家から絶賛される。新しい時代を感じさせるスポーティーなセダンは市場からも大きな支持を得た。このモデルから始まった「ノイエ・クラッセ」と呼ばれる一連のモデルには、運転の楽しさを追求する明快な主張があった。「駆けぬける歓び」というBMWの精神に立ち戻ったのである。
(文=webCG/イラスト=日野浦 剛)
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鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。