第198回:父の不在が母を暴走させる――崩壊する家族の物語
『ワイルドライフ』
2019.07.05
読んでますカー、観てますカー
ポール・ダノの初監督作品
なんと心引かれる顔合わせか。主演はジェイク・ギレンホールとキャリー・マリガン。そして、ポール・ダノの初監督作品である。期待するのは当然だが、『ワイルドライフ』は予想を上回る出来栄えだった。まずは、才能あふれる映画の作り手が現れたことを喜び、感謝したい。
この3人は、いずれも過去にこの連載で取り上げている。ギレンホールは、2015年の『ナイトクローラー』で心を持たない不気味なパパラッチを演じた。2005年の『ブロークバック・マウンテン』ではイケメンカウボーイだったのに、今の立ち位置は演技派性格俳優である。今作でも狂気を秘めたエキセントリックな男を怪演している。
キャリー・マリガンは、2012年の『ドライヴ』でライアン・ゴズリングの相手役を務めた。『17歳の肖像』『わたしを離さないで』に続いての薄幸な役である。『SHAME -シェイム-』では作品選びを間違ったが、『華麗なるギャツビー』では再び過酷な運命に泣く女性だった。彼女の悲しそうな笑顔にはこういう役が似合ってしまう。今回も、不幸な人妻だ。しかし、同時に強い女性でもある。
2012年の『ルビー・スパークス』でスランプの小説家を演じていたのがポール・ダノ。エリア・カザンの孫娘ゾーイ・カザンが恋人役だった。彼らは実生活でも交際していて、結婚はしていないようだが2018年に女児が誕生している。『ワイルドライフ』は2人の共同脚本。カザンはプロデュースも担当している。
子役はダノに生き写し
ダノは、『ワイルドライフ』は“家族についての映画”だと語っている。リチャード・フォードの小説が原作だが、彼自身の家族の記憶が背景にあるようだ。幸福な家族として始まり、ささいな出来事の積み重なりから夫婦関係は崩壊していく。それでも、家族は残る。関係性は変化しても、つながりはなくならない。
1960年代のモンタナ州で、父ジェリー(ギレンホール)はゴルフ場でキャディーとして働いている。客の評判はいいようで、仕事は順調だ。妻ジャネット(マリガン)とは時に意見が異なることもあるが、穏やかな愛情で結ばれている。お互いに譲り合い、大きなケンカになることはない。大事な一人息子のジョーを慈しみ育てることが、彼らにとっての生きがいなのだ。
ジョーを演じているエド・オクセンボールドには驚いた。ポール・ダノに生き写しなのだ。ぽってりした唇といい、シャイな目線といい、少年時代はこうだったろうと思わせる。名を知られるようになったきっかけの映画『リトル・ミス・サンシャイン』の撮影時にはダノは20歳を超えていたから直接の比較にはならないが、優しげな表情には通じるものがある。
ジェリーはゴルフ場から突然クビを言い渡される。客と賭けゴルフをしたことをとがめられたのだ。“闇営業”の変種ということだろうか。顧客のとりなしでゴルフ場は解雇を撤回するが、ヘソを曲げたジェリーは拒否してしまう。働くところならいくらでもあると言いながら、家でゴロゴロしているだけで就職活動をする様子はない。見かねたジャネットは自ら仕事を探す。夫婦の間には、次第に冷たい空気が漂うようになる。
時給1ドルで山火事消火に向かう
ジェリーが乗っているクルマは「フォード150ハンディマン・ステーションワゴン」。本来は企業向けに売られた飾り気のない実用車である。クルマはどうしても必要で、価格を重視して購入したのだろう。生活レベルは決して高くはない。ジャネットの稼ぎだけでは、早晩行き詰まるのは目に見えている。ジョーも学校の帰りに写真館でアルバイトを始めた。
突然、ジェリーは山火事を消す仕事に行くと言い出した。楽ではないし、危険に身をさらすことになる。それでも時給はわずか1ドルだ。命がけの行為に対する報酬としては少なすぎる。ジェリーは正義の心から人の役に立ちたいと思っているのか。それとも、単に出口の見えない状況から逃げ出そうとしているだけなのか。
ジェリーは妻を振り切ってトラックの荷台に乗り、山に向かう。残されたジャネットはもう優しい母親ではない。これまでガマンしてきた欲望を隠さなくなり、いつも神経質で怒りっぽくなった。さまざまな不満を口に出すようにもなる。父も母も、自分のことばかり考えていてジョーは視界の外だ。彼の心が安らぐのは、写真館で撮影の準備をしている時だけである。
ジョーが家に帰ってくると、見慣れないクルマが停まっている。ピンクの「キャデラック・クーペ ドヴィル」だ。中には母がさえない中年男性と一緒にいた。自動車ディーラーの経営者だという。太っていて髪は薄いが、高そうなスーツを着ていて羽振りがよさそうだ。
フォードに襲いかかるキャデラック
巨大なキャデラックは、ジェリーが置いていった緑色のワゴンの後ろに停めてある。まるで背後から襲いかかっているようだ。位置関係と大きさで、そのクルマのオーナーの関係性を暗示している。ダノ監督は、意図的にこの構図を選んだのだ。家を離れたジェリーにとって、物質的な存在感を誇示するキャデラックが脅威となりつつある。
この映画が描いているのは、“不在”なのだ。テーマが“不在”であるというだけではない。“不在”は表現手法でもある。対象の変化を直接映し出すという無粋なことはしない。父に何か重大な出来事が生じている時、観客がスクリーンに見るのは驚きのあまり表情を失ったジョーの顔である。
メインビジュアルに使われている画像が象徴的だろう。互いに目を交わす父と母の間には、不在の椅子が置かれている。見事と言うしかない。これは、『メイジーの瞳』や『ラブレス』などの系譜に連なる映画なのだ。
初監督にしてこのクオリティーというのは驚く。ダノは気負いとも顕示欲とも無縁だ。これみよがしで派手な描写は排し、静かに淡々と語る。キャスティングも完璧である。マリガンは可憐(かれん)さを封印して疲れた中年女になりきった。ギレンホールの熱量は言うまでもない。彼らの最高レベルの演技を引き出したのは、監督の技量である。彼の作る映画に出たいという俳優が、これから殺到するだろう。ポール・ダノの演技も好きだが、監督次回作を早く観たい。
(文=鈴木真人)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。