第618回:すしにおにぎりに園芸肥料!
今もなお街にあふれる名車「ランボルギーニ・ミウラ」のネーミング
2019.08.23
マッキナ あらモーダ!
「MIURA」連発のSUSHI店メニュー
わが街シエナのアジア系SUSHI店が、少し前に新装オープンした。第577回で記した「チョコ&ホイップクリームSUSHI」を供していた店である。
営業時間前だったので、外に置いてあったメニューで確認してみた。平日の食べ放題ランチは11.9ユーロ(約1400円)から12.9ユーロ(約1530円)に値上げされていたものの、とりあえずそのままだ。いっぽう店内をのぞくと、回転ずしのコンベヤーが取り払われている。店員を呼んでオーダーするかたちに変わったらしい。
改装前はいつもにぎわっていたことからして、大食の顧客が想定以上に多く来店してたくさんの皿を取られ、採算割れになってしまったのに違いない。先に改装した別のSUSHIレストランも回転式からオーダー式に改めた。
アラカルトのメニューをもう少し詳しく見せてもらう。巻きずしはご飯を外側に、のりを内側に巻いた「URAMAKI(裏巻き)」が圧倒的に多い。黒いのりに対して視覚的抵抗があるイタリア人への配慮であることは明らかだ。
それはともかく、URAMAKIカテゴリーの中に「MIURA(ミウラ)」の文字を発見した。「ONIGIRI(おにぎり)」の欄にも、同様にMIURAがあるではないか。
MIURA SUSHIの起源を探る
自宅に戻り、他のSUSHI店のメニューをインターネット検索すると、やはりMIURAがある。筆者が確認した範囲では、MIURAを提供しているのは、イタリアのSUSHIレストランのみである。
より詳しくMIURAと名のついたSUSHIを確認してみる。すると、さまざまなバリエーションこそあるものの、共通の食材が使われていることが判明した。
何かといえば「サーモン」と「フィラデルフィア・チーズ」である。後者は日本でも森永乳業がライセンス生産しているのでご存じの方が多いと思うが、クラフト社によるクリームチーズの1ブランドだ。
なぜMIURAなのか。残念ながら現段階で、イタリアにその発祥を記した文献は見当たらない。
しかし、その理由のひとつとして類推できるのは、前述のURAMAKIという言葉の一部にURAが含まれていることだ。そこから連想して、MIURAができたのではないか。
もうひとつは、和食ブームにともなう日本関連ワードの増加だ。イタリアのスーパーを見ればわかるが、持ち帰り用のすしには、さまざまな日本の都市名が用いられている。神奈川県の三浦市は、イタリアでは決してポピュラーではない。だが、すしダネに欠かせない漁港があることから、誰かが結びつけたことが考えられる。
そしてもうひとつ、MIURAという言葉がイタリア人に親しまれている決定的な背景には「あれ」がある。
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家庭菜園に「ミウラS」
「あれ」とは、もちろん「ランボルギーニ・ミウラ」である。ミウラのデビューは1966年。すでに53年が経過している。半世紀以上経過しているクルマの名前がなぜ? と読者の皆さんは思われるだろう。
まずランボルギーニ・ミウラのネーミングについておさらいしておこう。Miuraとはスペイン・セビリア地方で、ミウラ家が19世紀から経営している牧場の名前および、そこで飼育されていたどう猛な闘牛である。それを選んだのは、創業者フェルッチョ・ランボルギーニが、おうし座生まれであったからだった。
ちなみに筆者が小学生時代、「三浦という日本人が最初に発注したから、ミウラになった」と、物知りぶって吹聴していた上級生がいた。今会ったら問いただしてみたいものだ。
1955年の「フィアット600」と1957年の「フィアット500」はイタリアの戦後経済成長の幕開けを告げたクルマであったが、ミウラはその絶頂を象徴するモデルであった。
フランク・シナトラやイラン国王など多くのセレブリティーが買い求めたことも、自動車ファン以外にその名を広く知られるきっかけとなった。
楽観的な経済情勢の中、ミウラは一種の社会現象でもあったのだ。そうした空気をよりイメージさせてくれるのは、フェルッチョの長男トニーノの記述である。
「ボローニャのモンテ・グラッパ通りにバール・ミウラが開店し、果てはミウラ美容室、ミウラ・レコードまでできた」(トニーノ・ランボルギーニ著・拙訳『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』光人社 2004年より)
ミウラ・レコードに関してイタリアのウェブサイト『Archivi della musica』で検索してみると、1968年に創立されたレーベルとある。シンボルマークは雄牛の角を図案化したものである。
いっぽうで、前述のようにミウラが牧場や闘牛の名前だったことは、実はイタリアではほとんど知られていない。ミウラの名が広まったのは、明らかにランボルギーニ車があったからなのである。
今回の執筆を機会に、日本でいう『イエローページ』にあたる『パージネ・ジャッレ電子版』で調べてみると、今日でも「ミウラ」と称する商業施設がイタリア各地にリストアップされる。バールやピッツェリア、ホテル、写真館、農機具店、化粧品製造業とさまざまな業種にわたっているのがわかる。
そしてイタリアには「ミウラ」を名乗る、これまた別の商品もある。それを知ったのは、知人の菜園を訪ねたときだった。片隅に置かれていた園芸用肥料の袋を見て思わず声をあげた。
その名は「ミウラS」。1968年に登場した「ランボルギーニ・ミウラP400S」を想起させる。ミウラ時代のランボルギーニには存在しなかったF1がチェッカードフラッグとともに描かれていたり、「新フォーミュラ」という文字が加えられていたりするのは、やや勇み足といえる。
ただしよく見ると、そのF1はタイヤのトレッドパターンからしてトラクターである。農業用トラクターといえば、ランボルギーニの出発点だ。こうした点からも、この肥料は明らかにランボルギーニ・ミウラを意識したであろうことは間違いない。
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ランボのインパクトは続く
ついでにいうと、ミウラSの効き目がどれほどあったかは定かでないが、知人が育てたトマトは、おすそ分けしてもらうと芳醇(ほうじゅん)のひとことに尽きる。スーパーで買うものとは濃さが段違いだ。個人的には、知り合いにランボルギーニ・ミウラのオーナーがいるより、こちらのほうがうれしい。
ところでイタリアでは今日でも、年配の人に「ランボルギーニといえば?」と問うと、「トラクター」と答える人が少なくない。実際、1972年にランボルギーニの農機部門を買収したサーメは、SDFと社名を改め、今日でもランボルギーニブランドのトラクターを生産している。また、フェルッチョ時代の古いモデルも、農家によって大切にメンテナンスされて郊外で生き延びていることが多い。ランボの農機は今も現役なのである。
いっぽう「スポーツカーのランボルギーニといえば?」と聞くと、即座に「ミウラ」と返ってくるのが常だ。
ミウラ登場後のイタリアは1969年の「熱い秋」と呼ばれる労働運動、そして1973年の第1次オイルショックという暗いトンネルに次々と吸い込まれてゆく。
日本では前述した筆者の子ども時代にスーパーカーブームがあったおかげで「カウンタック(クンタッシュ)」を知る人は多いが、本場イタリアでそれを覚えている人が限られるのは、当時社会的ムードが一変し、スーパーカーどころではなくなってしまったことを物語っている。
戦後イタリア社会が最も活況を呈していた時代のクルマ。ゆえに今日でも、イタリアではランボルギーニといえばミウラなのであり、ワードとしてのMiuraは今も輝いているのである。SUSHIレストランの一品としてその名が選ばれ、まったく違和感なくイタリア人に受け入れられているのは、こうした経緯があるからと筆者は信じる。
最後に、ランボルギーニが社会に与えたインパクトということで、最新例をもうひとつ。フェルッチョの孫のひとり、エレットラ・ランボルギーニは、歌手&タレントとして、あのユニバーサル・ミュージックからデビューしている。2016年には『プレイボーイ』誌のグラビアも飾っている。
公式サイトにおける彼女のビジュアルは、見る人によってはかなりのインパクトであろう。なにしろ背中や臀部(でんぶ)の一部にはヒョウ柄のタトゥーが施されていて、ダイヤモンドによるピアスの数は体全体で42に及ぶという。
それでも、もしフェルッチョが生きていたら、数々の伝説を生んだ彼の豪快なキャラクターからして、この大胆な孫娘をさぞかし溺愛していたに違いない。
(文=大矢アキオ<Akio Lorenzo OYA>/写真=Akio Lorenzo OYA、ランボルギーニ/編集=藤沢 勝)

大矢 アキオ
コラムニスト/イタリア文化コメンテーター。音大でヴァイオリンを専攻、大学院で芸術学を修める。日本を代表するイタリア文化コメンテーターとしてシエナ在住。NHKのイタリア語およびフランス語テキストやデザイン誌等に執筆活動を展開。NHK『ラジオ深夜便』では、22年間にわたってリポーターを務めている。『イタリア発シアワセの秘密 ― 笑って! 愛して! トスカーナの平日』(二玄社)、『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)、『メトロとトランでパリめぐり』(コスミック出版)など著書・訳書多数。最新刊は『シトロエン2CV、DSを手掛けた自動車デザイナー ベルトーニのデザイン活動の軌跡』(三樹書房)。