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第74回:デザインの革新者バッティスタ・ファリーナ
世界を制したイタリアのカロッツェリア

2020.05.07 自動車ヒストリー 鈴木 真人 世界に冠たるカロッツェリアのひとつに数えられる、イタリアのピニンファリーナ。自動車の造形に多大な影響を与えたデザインのスペシャリスト集団は、いかにして誕生したのか。創業者であるバッティスタ・“ピニン”ファリーナの生涯とともに振り返る。

馬車工房から始まったカロッツェリア

イタリアの自動車産業は、デザインの面で常に大きな存在感を保ち続けてきた。多くのカロッツェリアが、魅力的なスタイルのモデルを送り出したからである。イタリア語でカロッツァは高級馬車を意味し、それをつくる工房がカロッツェリアだ。もともとは上流階級向けに馬車を製作していたが、自動車が馬車に代わる交通手段として普及すると、クルマのボディーを架装するようになっていった。

他国にも同じような工房はあったが、ほとんどが消滅している。一方イタリアでは、今なおいくつかのカロッツェリアがデザイン会社として生き残っている。現在では自動車に限らず、鉄道車両や航空機、家電や家具などのデザインをすることも多い。インダストリアルデザイン全般を請け負うようになっているのだ。中でもピニンファリーナは最大のカロッツェリアで、イタリアを代表する企業でもある。

ピニンファリーナは、イタリアの自動車メーカーではフィアットやアルファ・ロメオ、マセラティ、ランチアなどのデザインを請け負ってきた。フランスのプジョー、アメリカのゼネラルモーターズやフォードなどとも関係が深い。日本のメーカーでは、日産の410型「ブルーバード」のデザインを手がけたことが有名だ。ホンダや三菱にも、ピニンファリーナがデザインしたモデルがある。

多様なモデルを生み出しているが、ピニンファリーナといえば、誰もが最初に思い浮かべるのがフェラーリだろう。1952年に両社の関係が始まり、現在に至るまで多くの魅力的なモデルがデザインされてきた。

イタリア最大のカロッツェリアであるピニンファリーナは、これまでにあまたの自動車のデザインを手がけてきた。写真は2019年のジュネーブショーで発表されたオリジナルの電動スーパーカー「バッティスタ」。(写真=佐藤靖彦)
イタリア最大のカロッツェリアであるピニンファリーナは、これまでにあまたの自動車のデザインを手がけてきた。写真は2019年のジュネーブショーで発表されたオリジナルの電動スーパーカー「バッティスタ」。(写真=佐藤靖彦)拡大
1963年に登場した410型「日産ブルーバード」。そのデザインは、ピニン・ファリーナの手になるものだ。
1963年に登場した410型「日産ブルーバード」。そのデザインは、ピニン・ファリーナの手になるものだ。拡大
「フェラーリ400スーパーアメリカ エアロディナミカ」と、ジョバンニ・バッティスタ・ファリーナ。
「フェラーリ400スーパーアメリカ エアロディナミカ」と、ジョバンニ・バッティスタ・ファリーナ。拡大

1930年代に流線形のモデルを生み出す

ピニンファリーナは、ジョバンニ・バッティスタ・ファリーナによって1930年に創設された。当初の名称は“ピニン・ファリーナ”だった。これが“ピニンファリーナ”になるまでには、長い物語がある。1893年にピエモンテ州の貧しい家で11人兄弟の下から2番目の子として生まれた彼は、“ピニン”と呼ばれていた。長兄も同じジョバンニという名前で、区別するために“小さい子供”を意味する愛称で呼ばれたのである。

兄ジョバンニはスタビリメンティ・ファリーナという工房を始め、ピニンは11歳の時にそこで見習工として働くことになった。17歳になるとスタイリング部門と設計部門の責任者を任される。腕を磨いたピニンは、1930年にトリノで念願だった自分の工房を開いた。これが、カロッツェリア・ピニン・ファリーナである。製品には“ピニン”と“ファリーナ”の2つのエンブレムが付けられていたが、やがて1枚になって“ピニンファリーナ”がトレードマークになる。ブランドとしては、早い段階からピニンファリーナと認識されていたのだ。

「アルファ・ロメオ8C 2300クーペ ヴィクトリア」や、「イスパノ・スイザ・クーペ グランスポルト」などの高級車を手がける一方、「フィアット508バリッラ クーペ」といった小型車もデザインした。さらに1930年代後半になると、ピニン・ファリーナは斬新な流線形のモデルをたてつづけに生み出す。1937年の「ランチア・アプリリア」は風洞実験によって設計された先進的なモデルだったが、ピニン・ファリーナはこれをベースに、さらに空力を突き詰めた「エアロディナミカ」と呼ばれるモデルをつくり出した。フェンダーやグリル、ヘッドライトなどを統合し、クルマ全体が有機的なまとまりを持つ造形が試みられている。

第2次大戦中は軍用トラックなどの生産に転じざるを得なくなるが、戦争が終わるとピニンは新時代のクルマづくりに向けて動き出した。ただ、1946年のパリサロンに参加しようとしても、敗戦国イタリアのメーカーは展示を拒絶されてしまう。彼は“自主的に”参加する道を選んだ。「アルファ・ロメオ6C 2500 S」と「ランチア・アプリリア カブリオレ」を運転して持ち込み、会場となったグラン・パレの玄関に並べて駐車したのだ。正式に展示されたモデルよりもこの2台が注目される結果となり、フィガロ紙は「悪玉ファリーナがプライベートサロンをオープン」と書きたてた。

ジョバンニ・バッティスタ・ファリーナ(1893-1966)
ジョバンニ・バッティスタ・ファリーナ(1893-1966)拡大
バッティスタにとって最初期の作となる「フィアット12/15HPゼーロ」(1912年)。ゼーロは、「メーカーが販売するのはローリングシャシーのみで、ボディーはコーチビルダーにつくらせるのが当たり前」だった時代に、4ドアトルペードのボディーを制式としていた点で画期的なクルマだった。そのトルペードボディーをデザインしたのが、若かりし頃のバッティスタだった。
バッティスタにとって最初期の作となる「フィアット12/15HPゼーロ」(1912年)。ゼーロは、「メーカーが販売するのはローリングシャシーのみで、ボディーはコーチビルダーにつくらせるのが当たり前」だった時代に、4ドアトルペードのボディーを制式としていた点で画期的なクルマだった。そのトルペードボディーをデザインしたのが、若かりし頃のバッティスタだった。拡大
トヨタ博物館が収蔵する、ピニン・ファリーナがボディーを架装した「ランチア・アストゥーラ ティーポ233C」。当時のピニン・ファリーナは、イタリアの名だたるスポーツカーやグランドツーリングカーのボディーを手がけていた。
トヨタ博物館が収蔵する、ピニン・ファリーナがボディーを架装した「ランチア・アストゥーラ ティーポ233C」。当時のピニン・ファリーナは、イタリアの名だたるスポーツカーやグランドツーリングカーのボディーを手がけていた。拡大
風洞実験を経て開発された「ランチア・アプリリア」。戦前のモデルとしては極めて優れた空力性能を備えていた。
風洞実験を経て開発された「ランチア・アプリリア」。戦前のモデルとしては極めて優れた空力性能を備えていた。拡大

世界を驚かせた「チシタリア202」

そして、1947年の「チシタリア202」が、ピニン・ファリーナの名を世界に知らしめることになる。チシタリアは1946年にピエロ・デュジオによって設立されたスポーツカーメーカーで、ダンテ・ジアコーザの設計した「D46」や「ポルシェ360チシタリア」でレースに出場している。

デュジオがピニン・ファリーナに依頼したのは、空力性能に優れたクーペである。フェンダーとボディーをなめらかにつなげたチシタリア202のスタイルは革新的で、戦後の自動車デザインの方向性を決定づけたといわれる。ヴィラ・デステのコンクール・デレガンスではグランプリを獲得し、完成された近代的なフォルムは“動く彫刻”と評された。1951年にニューヨーク近代美術館(MoMA)で行われた展示会では優秀なデザインの8台に選ばれ、永久展示の指定を受けている。

この成功を見て興味を抱いたのが、エンツォ・フェラーリである。バッティスタもレースの世界で活躍を始めていたフェラーリに関心を持っており、いわば相思相愛だった。しかし、両人とも独自の思想を持つカリスマであり、顔合わせには困難が伴った。どちらも相手の本拠地に赴くことをよしとしなかったのである。ふたりの顔を立てるため、最初の会見はトリノとモデナのちょうど中間にあるトルトーナのレストランで行われた。

ピニン・ファリーナが手がけた「チシタリア202」のデザインは、戦後の自動車の方向性を決定づけたとされる。写真はトヨタ博物館が収蔵する個体。
ピニン・ファリーナが手がけた「チシタリア202」のデザインは、戦後の自動車の方向性を決定づけたとされる。写真はトヨタ博物館が収蔵する個体。拡大
「チシタリア202」の成功以降、一気に名声が高まったピニン・ファリーナ。1953年にMoMAで開かれた2回目の自動車企画展「10 Automobiles」では、「ランチア・アウレリアGT」「シムカ8スポーツ」「ナッシュ・ヒーレー」(写真)と、選出された10台のうち実に3台がピニン・ファリーナの手になるものだった。なお、同企画展ではスタビリメンティ・ファリーナのクルマも2台が選ばれている。
「チシタリア202」の成功以降、一気に名声が高まったピニン・ファリーナ。1953年にMoMAで開かれた2回目の自動車企画展「10 Automobiles」では、「ランチア・アウレリアGT」「シムカ8スポーツ」「ナッシュ・ヒーレー」(写真)と、選出された10台のうち実に3台がピニン・ファリーナの手になるものだった。なお、同企画展ではスタビリメンティ・ファリーナのクルマも2台が選ばれている。拡大
バッティスタ・ファリーナ(左)とエンツォ・フェラーリ(中央)、バッティスタの息子のセルジオ(右)。
バッティスタ・ファリーナ(左)とエンツォ・フェラーリ(中央)、バッティスタの息子のセルジオ(右)。拡大

フェラーリやプジョーと協力関係を築く

一度会ってしまえば互いに尊敬の念を抱くのに時間はかからず、フェラーリはピニン・ファリーナとの協力関係を築くことになる。それまではヴィニャーレやトゥーリングといったカロッツェリアに発注していたデザインを、ピニン・ファリーナに一任したのだ。最初につくられたモデルが1952年の「212インテル カブリオレ」で、均整のとれた上品な美しさを持っていた。同じ年にアメリカのナッシュとの事業提携が始まり、1955年にはプジョーとの協力関係を開始する。ピニン・ファリーナの名は、世界中に広まっていった。

目覚ましい業績を知ったイタリア大統領のジョバンニ・グロンキが動く。「イタリアの産業とデザインを世界に知らしめた」ことを評価し、民事上、法律上のすべてにおいてピニンファリーナを正式名称とすることを認める大統領令を布告したのだ。ブランドと姓を一致させることは、バッティスタを支えてきた息子のセルジオが提案していたアイデアだった。“カロッツェリア・ピニン・ファリーナ”は、晴れて“カロッツェリア・ピニンファリーナ”となった。

68歳になったバッティスタは、セルジオをマネージング・ディレクターに指名する。1966年、大規模な研究調査センターを設立して年間25種のプロトタイプを製作する体制が整った直後、彼は永遠の眠りについた。72年の生涯は閉じられたが、ピニンという愛称はブランド名としてこれからも続いていく。

(文=webCG/イラスト=日野浦剛)

ピニン・ファリーナがデザインを手がけた最初のフェラーリとなった「212インテル カブリオレ」。
ピニン・ファリーナがデザインを手がけた最初のフェラーリとなった「212インテル カブリオレ」。拡大
ピニンファリーナはイタリア以外のメーカーにも積極的にデザインを提供していった。写真は1997年に登場した「プジョー406クーペ」。リアのタイヤハウスの前方に、ピニンファリーナのエンブレムが貼られている。
ピニンファリーナはイタリア以外のメーカーにも積極的にデザインを提供していった。写真は1997年に登場した「プジョー406クーペ」。リアのタイヤハウスの前方に、ピニンファリーナのエンブレムが貼られている。拡大
今日も存続する、数少ないカロッツェリアのひとつとなったピニンファリーナ。現在はインドのマヒンドラグループの傘下となっている。
今日も存続する、数少ないカロッツェリアのひとつとなったピニンファリーナ。現在はインドのマヒンドラグループの傘下となっている。拡大
鈴木 真人

鈴木 真人

名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。

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