第79回:闘う空想家プレストン・トーマス・タッカー
“未来のクルマ”を追った男の夢と挫折
2020.07.16
自動車ヒストリー
夢の自動車の実現を目指し、戦後のアメリカに突如として現れたプレストン・トーマス・タッカー。彼の描いた未来のクルマとはどのようなもので、その理想はなぜついえたのか。“夢追い人”タッカーと、彼の手がけた「タッカー'48」の物語を振り返る。
コッポラ監督の父が注文した新型車
フランシス・フォード・コッポラ監督が8歳の時、彼の父親がカーディーラーに1台のクルマを注文した。しかし、いくら待っても新車は届かなかった。クルマをつくるはずだった会社が消滅したからである。“50年先を行く”とまで評された先進的なモデルは、世に出る前に葬り去られてしまった。幼いコッポラにとっても印象的な出来事だったのだろう。彼は1988年に映画『タッカー』を公開する。「THE MAN AND HIS DREAM」という副題が付けられていた。
THE MANとは、プレストン・トーマス・タッカーのことだ。映画の冒頭で「空想家、発明家、夢追い人、時代の先を行く男」と説明される。革新的な機構とスタイルを持つタッカー'48(タッカー・トーピードとも呼ばれる)を引っさげてアメリカの自動車業界に挑戦し、夢破れて去っていった男だ。コッポラ監督は、タッカーの闘いを描くことで、豊かな創造性こそが社会に希望をもたらすというメッセージを送ろうとした。
タッカーが生まれたのは1903年のことで、その5年後には「T型フォード」が発売される。アメリカでは急速に自動車が普及しつつあり、タッカー少年も「ハップモビル」「パッカード」「マーモン」などのニューモデルに熱い視線を送っていた。いつかは自らの手でクルマをつくりたいと意欲を燃やした彼は、13歳から自動車工場で働き始め、さまざまな現場を転々として自動車の製造工程を学んだ。彼は学校で技術を身につけたのではなく、現場で体験して覚えたのである。
ディーラーでセールスマンとして働いた後、タッカーはレースの世界に飛び込んだ。ハリー・ミラーに出会い、彼のもとでマネジャーとして働き始める。ミラーはインディ500で9回優勝した実績を持つ当時最高のレースカーデザイナーだったが、チームは経営破綻していた。タッカーが資金を提供し、1935年にミラー&タッカーが設立される。レースカーの設計を行いながら、タッカーは別の事業計画も進めていた。第2次世界大戦にアメリカも参戦することが確実だと考え、軍用車の開発を急いだのだ。
装甲車から新時代の乗用車へ
彼は新型装甲車を軍に売り込もうとした。「タッカー・タイガー」の愛称を持つコンバットカーである。パッカードのV12エンジンを搭載し、最高速度は180km/hに達したとされる。テストでは不整地でも120km/hで走ったというから、装甲車としては過剰なスピードだ。軍に採用されなかった理由のひとつは速すぎたことだといわれている。高性能を追求した結果、価格も高くなってしまったのだろう。
タッカー・タイガーの売りは、スピードだけではない。ボディー後部のルーフには、タッカー・タレットと呼ばれる旋回砲塔が備えられていた。砲手は防弾ガラス製のキャノピーの中で37mm機関砲を撃つことができ、モーターで向きを変える。一回転するのにかかる時間は4.6秒だった。この装備は高く評価され、タッカーの会社を買収したヒギンズ社によって航空機や舟艇の砲塔に技術が生かされることになる。
一方で、タッカーの興味はもはや軍用車にはなかった。戦争は早晩終わる。平和な世の中になれば、誰もが美しくて性能のいいクルマを求めるだろう。新時代にふさわしい画期的な自動車をつくりたい。タッカーは長年温めていた構想を雑誌の広告として発表する。タイトルは「TORPEDO ON WHEELS」。車輪の上に乗った魚雷という名の通り、イラストで描かれたのは流線形のファストバックスタイルを持つモデルである。
技術面でも斬新な構想が記されていた。エンジンがリアに搭載されており、FRが当然だと考えていたアメリカのユーザーにとっては衝撃的だった。“ビートル”こと「フォルクスワーゲン・タイプI」はまだ知られていない時期である。
駆動方式よりもはるかにユニークなのが動力伝達の方法である。「ハイドロリック・ドライブ」と名付けられた機構で、左右の後輪に個々にトルクコンバーターを配し、駆動力を別々に伝えるという。トランスミッションやディファレンシャルギアが不要になることで、パーツを800点減らすことができると主張していた。
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先進技術と高度な安全思想
サスペンションには4輪独立懸架を採用し、フロントはサイクルフェンダー。ステアリング操作によってフェンダーの先端に取り付けられたヘッドランプも動くので、夜間のコーナリングが安全になるという触れ込みであった。安全性は重要なアピールポイントで、シートベルトが装備され、ダッシュパネルはソフトパッドで覆われていた。フロントウィンドウには脱落式の強化ガラスが使われている。当時としては驚くほど高度な安全思想が貫かれていた。
すべての構想が実現したわけではない。生産型は4ドアセダンになり、サイクルフェンダーは採用されなかった。安定性の確保が難しかったからである。代わりにフロント中央に備えられた「サイクロプスアイ」と呼ばれるランプを動かすことによって、進行方向を照らすようになっていた。またハイドロリック・ドライブも実用化のレベルには達しておらず、搭載は断念された。
エンジンは当初予定されていた9.7リッター水平対向6気筒エンジンが間に合わず、代わりにヘリコプター用の5.5リッター水平対向6気筒エンジンを搭載。本来は空冷だったが、水冷方式に改造している。理想をそのまま実現できたわけではないが、それでも200km/h近くの最高速度を実現し、安全性が高く、流れるようなボディースタイルを持つ新型車は大衆を熱狂させた。
製造が始まる前から、タッカー'48と名付けられたモデルには注文が殺到。タッカー自身の資本は乏しかったが、株式を発行して資金を調達した。構想だけで投資家を動かしたのである。タッカー'48を売りたいというディーラーは2000に達し、契約金が開発に投入された。爆撃機「ボーイングB29」を生産していたシカゴの巨大な工場を手に入れ、事業化の体制が整う。1948年になって本格的な生産が開始された。
しかし、思わぬ理由でプロジェクトはストップさせられてしまう。証券取引委員会(SEC)の査察が入ったのだ。資金を集めたにもかかわらず一向に販売が始まらないことが問題視され、会計記録を提出するように求められた。疑惑が報道されると株価は暴落し、資金は枯渇。生産を続けるのは不可能になった。
製造されたのはわずか51台
タッカーには詐欺と証券取引法違反の疑いがかけられ、裁判では合計155年の懲役が求刑された。彼は理想のクルマを実際につくろうとしていたと主張し、SECに反論する。弁論の応酬の末、彼は無罪を勝ち取った。陪審員はタッカーが本気で未来のクルマをユーザーに提供しようとしたと信じたのだ。
無罪にはなったものの、工場はすでに管財人の手に渡っていた。生産継続は不可能となり、プロトタイプを含めてもわずか51台でタッカー'48の製造は終了。そのうち47台が動態保存されている。コッポラ監督が2台を保有し、『タッカー』のプロデューサーを務めたジョージ・ルーカスも同じく2台のオーナーだ。
SECによるタッカーの査察には、ビッグスリーの意向が働いていたという説もある。映画は圧力の存在を前提としたストーリー展開になっていた。ただ、タッカー自身があまりに前のめりになったことで準備不足だったという面も否定できない。技術的にも未完成の部分は多かった。「日野コンテッサ」の開発に携わった鈴木 孝博士は、博物館でタッカー'48を見た時の感想を記している。
「ラジエーターの左右はすけすけで、これではラジエーターを通過した熱い空気が、確実にもう一度ラジエーターの前に回り込んでしまうし、ラジエーターの下にていねいに六つも並べられた排気管からの排気も、また確実にラジエーターから吸い込まれるだろう。エンジンルームから気化器に導かれる空気は、エアクリーナーをたちまち詰まらせてしまうに違いない」(『エンジンのロマン』プレジデント社刊)
理想は高かったが、製品としての完成度が不十分だったのは確かだろう。しかし、タッカーの果敢な挑戦は、アメリカが持つダイナミズムの原動力になるべき行動だったはずだ。彼が裁判の最終弁論で述べた言葉が残されている。
「大企業が一個人の発想を押しつぶせば、進歩を閉ざすばかりか今までの汗と涙が無駄になってしまう。いつかこの国はどん底に落ちて、旧敵国のドイツや日本からラジオやクルマを買うことになるでしょう。そんなことがあってはならない。私はアメリカ人の健全な良識を信じ、希望を持っています」
(文=webCG/写真=Tucker Automobile Club of America、トヨタ博物館/イラスト=日野浦剛)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。