偉人の素顔は気さくで誠実 日本を代表する“自動車人”鈴木 修 会長の功績と人となり
2021.03.08 デイリーコラム功績を挙げればきりがない
去る2月、スズキの鈴木 修 会長(以下鈴木会長)が6月の株主総会をもって代表取締役会長の座を退き、相談役に就くと発表された。その功績や退任の理由などについては、すでに多くのメディアで紹介されているが、1958年に28歳でスズキに入社して以来、同社を世界的な自動車メーカーに育て上げた偉大なる実業家であり、自動車人である。
鈴木会長が自動車人としてのキャリアをスタートさせた1958年といえば、スズキが自転車用補助エンジンによって自動車業界に参入してから6年、初の四輪車である軽の「スズライト」をリリースしてからまだ3年しかたっていなかった。世間を見渡すと、軽自動車というカテゴリーを確立した「スバル360」がこの年に誕生している。つまり、わが国のモータリゼーションの黎明(れいめい)期だったわけだ。
2009年に刊行された自伝『俺は、中小企業のおやじ』(日本経済新聞出版社)によれば、鈴木会長は入社4年後の1962年(32歳)に生産本部部長、東京オリンピックの1964年(34歳)には取締役営業本部長に就任。ということは、青年時代から卒寿(90歳)を超える現在まで、およそ60年間にわたってフロントラインに立ち続け、世界規模でモータリゼーションを推進してきたのだ。世界の自動車産業を見渡せば、スズキより歴史が古いメーカーもあれば、規模が大きいメーカーもある。だが、これだけ長期間にわたって事業をけん引し続けた、カリスマ的なリーダーを擁する会社はないだろう。
私事で恐縮だが、筆者は鈴木会長がスズキに入社した年に生を受けた。つまり、自分がものごころつくかつかぬかの頃から、還暦を過ぎた現在までと同じ期間、鈴木会長はずっとスズキを支えてきたわけである。その重圧たるや筆者のような凡人には想像もつかないが、歳月の重みは実感できる。それゆえに、鈴木会長の残した足跡が唯一無二であろうことだけはわかるのだ。
ちなみに鈴木会長の入社当時、スズキの年間売上高は48億円だったという。過去最高だった2019年3月期の連結決算は3兆9000億円弱だから、単純計算では売上高を800倍以上まで伸ばしたことになる。
余談になるが、筆者がごく幼い頃に見た記憶のある実車の1台が、実家の数軒先にあった「スズライトTL」だった。1959年にデビューしたスズキの軽ライトバンだが、それから60年近くたった今、人生初のスズキ車となる現行「スイフトスポーツ」を愛用している。それをもって自分はスズキと縁があった、などと無理やりこじつけるつもりはないが、このクルマ、少々不満な点はあるものの、ことコストパフォーマンスに関しては最強ではないかと思う。そして、こんなクルマは鈴木会長が育て上げたスズキにしかつくれないだろうとも思うのだ。
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「ジムニー」誕生にみる勘の鋭さ
鈴木会長の成し遂げたビッグビジネスといえば、真っ先に語られるのがインドやハンガリーへの進出、そしてゼネラルモーターズおよびフォルクスワーゲンとの提携であろう。いっぽう生み出したヒット商品といえば、「ジムニー」「アルト」「ワゴンR」が3本柱といえるのではないだろうか。
1970年にデビューしたオフロード4WDのジムニーは、鈴木会長の企画による初のヒット作だが、もともとスズキが開発したモデルではない。小規模な軽メーカーだったホープ自動車がごく少量を生産していた「ホープスターON型」に目をつけた鈴木会長が製造権を買い受け、スズキで再設計して1970年に売り出したものだ。
先に紹介した『俺は、中小企業のおやじ』にはその経緯が記されているのだが、次のような衝撃的なエピソードが含まれている。
「恥を忍んで打ち明けますと、当時の私には2輪駆動と4輪駆動との区別がつきませんでした。『クルマならタイヤが4つあるのだから、4輪駆動が当たり前だろう。2輪駆動というのはオートバイのことに違いない』と思っていました」
周囲の人間から、自動車会社の社員なのにクルマのことがまるでわかってないと笑われたそうだが、当時の役職は東京駐在の常務取締役。いくら営業担当とはいえ、失礼ながら笑いでは済まされないレベルの話である。それでいながらホープスターON型の実力を知るや、これをスズキで商品化すればヒット間違いなしと確信して実現させてしまったのだから、ビジネスに対しては恐ろしいほど鋭い勘の持ち主だったわけだ。
軽自動車の歴史を変えた2台の傑作
鈴木会長が「忘れることのできないクルマ」と語るのが、社長に就任した直後の1979年に発売した初代アルトである。徹底したコストダウンと、当時の税制では物品税がかかる乗用車ではなく商用車登録とすることで、47万円という驚異的に安い、しかも自動車業界初の全国統一価格を実現。爆発的なヒット作となったのだった。
当時のスズキは、初代アルト発売の数年前から始まった排ガス規制に適合させるべく、それまでの2ストロークエンジンから4ストロークエンジンへの転換を図っていたが、開発に失敗。業界のリーダーだったトヨタを介してライバルのダイハツから4ストロークエンジンを供給してもらい急場をしのいでいた。
社長として、そうした窮状から抜け出す全責任を負った直後に放った初代アルト。見事逆転満塁ホームランとなってスズキを救い、鈴木会長にとっても経営者としてやっていく自信になったという。それだけでなく、初代アルトは1970年代前半から低迷していた軽市場全体にとっても復活の起爆剤となった。アルトに刺激された他社も追随して軽ボンバン(軽商用車登録のボンネットバン)のブームが起き、市場が再び活況を呈したのである。
「1台のクルマが会社の運命を変え、市場全体の構造を変える。社長に就任して早々に、しかも40歳代の若い時期にこんな事態にめぐり合えたのは、掛け値なしに幸運なことでした」
鈴木会長は先の自著にこう記しているが、たしかにもし初代アルトがなかったら、その後の軽自動車界は異なる展開をみせていたことだろう。
同様にもう1台、市場構造を変えてしまったクルマが1993年に登場した初代ワゴンRである。これは鈴木会長自身のアイデアではなく、しかもいったん商品化を見送った経緯のある企画だそうだが、「期待もしてないから好きなようにやらせた」ところ、その合理的なコンセプトがバブル崩壊後の価値観にマッチして大ヒットしたわけだ。もし初代ワゴンRが存在しなかったら、軽トールワゴンというカテゴリーは、現在とは違った形になっていたかもしれない。
ちなみにワゴンRという車名の名づけ親は鈴木会長である。「セダンもあるけどワゴンもあるのだから、『ワゴンあ~る』でいいじゃないか」というダジャレめいた由来は、都市伝説ではなく事実なのだ。
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故徳大寺有恒氏が語った思い出
鈴木会長と聞くと、思い出すのが7年前に亡くなった徳大寺有恒氏である。徳大寺氏の晩年、筆者は時折取材のお供をしたのだが、行き帰りの車中で聞く昔話が実に興味深く、楽しかった。話題はさまざまだったが、彼が名を挙げた数少ない国産メーカー関係者のひとりが鈴木会長だったのだ。
2人の出会いは、徳大寺氏いわく「修さん(敬意と親しみを込めて、われわれの前では鈴木会長をそう呼んでいた)が社長に就任した頃」というから、彼が『間違いだらけのクルマ選び』を大ヒットさせて一躍その名を知られるようになった1970年代末頃のことだろう。当時徳大寺氏は、自動車メーカー各社の社長にインタビューする企画を総合雑誌で連載していたのだという。
初対面の鈴木会長は、徳大寺氏に強い印象を残したそうだ。
「そのころ俺は40歳になるかならないかだったから、社長はみんな年上。それもあるし、地位のある方々だから、たいていは慇懃(いんぎん)な中にも上から目線が感じられたのだが、修さんだけは違った。のっけから『何でも聞いてください!』みたいな感じなんだよ。偉ぶるとか、飾るとかいうことがまったくなく、とても率直で誠実。こちらの質問に答えられないことがあると、その場に担当の部下を呼んで、正確で具体的な返答をしてくれた。それから何度もお目にかかっているが、そのときと印象がまったく変わらないんだ」
今を去ること12年、そんな話を聞かせてくれた徳大寺氏と、スズキ本社の近くにオープンしたばかりのスズキ歴史館を訪ねたことがある。鈴木会長との出会いは1970年代後半だが、それより10年ほど前には何度もスズキ本社を訪れたという徳大寺氏。1960年代後半から70年代にかけて、ドレスアップ/チューニングパーツからアパレルまでそろえていた総合カー用品メーカーのレーシングメイトを主宰していた彼は、スズキとコラボレーションして「フロンテ」(LC10)用パーツをプロデュースしていたのだ。そんな経験を持つ徳大寺氏は、久々のスズキ訪問を懐かしがっていたのだが、歴史館ではうれしいサプライズがあったのだった。
記者会見で語られた「生きがいは仕事」という言葉
スズキ歴史館のオープンは2009年4月だが、われわれが訪れたのは翌5月。プレス向けの見学会に参加したのだが、歴史館では同日にアルト誕生30年と世界累計販売台数1000万台達成を記念したセレモニーも開かれた。それにはもちろん鈴木会長も参列されたのだが、式が終わるや否や徳大寺氏の元に駆け寄ってくださり、急きょ予定にはなかったカリスマ経営者と自動車評論の第一人者のビッグ対談が実現したのだった。
ちょうど前年にリーマンショックが起きてGMが実質的な経営破綻に追い込まれた直後とあって、その話題から2人の話は始まった。
鈴木会長:それにしても、まあ大変な時代になっちゃったね。あのGMが瀕死(ひんし)の状態に追い込まれようとは。明日はわが身と思わなくちゃいけません。
徳大寺:とはいえそんな状況の中でも、スズキは元気じゃないですか。
鈴木会長:いやいや、みんなが元気じゃなくちゃダメ。元気な者同士が競争するのがいいんですよ。健康な者が病弱な人と競争して勝つのは当たり前ですから。
徳大寺:たしかに。
鈴木会長:でも私は運がよかった。アメリカに力を入れていたら、今ごろは真っ赤っ赤ですよ。まあインドはインドで大変だったけどね。
徳大寺:そうそう、会長はインドの大手新聞が独立60周年を記念して行った「今日のインドをつくった人、育てた人」という特集記事で、100人のインド人に対して3人だけ選ばれた外国人のひとりだったそうですね。(注:あとの2人はマザー・テレサとラジーヴ・ガンディー元首相夫人でイタリア出身のソニア・ガンディー)
鈴木会長:ええ。でもホントに大変でしたよ。結局のところは人間対人間だから、なんて言うけどね、文化や風習の違いを乗り越えるのは並大抵じゃなかったですよ。あまりの身勝手な理屈に、ぶん殴ってやりたいと思ったことさえありますから。
徳大寺:そこをグッとこらえて結果に結びつけ、インド政府から受章されるまでになられた。
鈴木会長:そうですね。殴らないでよかったよ。(笑)
……といった感じで和やかに話は進んだのだが、なにしろ多忙の身である鈴木会長。残念ながらこのへんでお開きとなった。別れ際に鈴木会長は「お互いこれからもまだまだ元気にいきましょう」とおっしゃっていたのだが、徳大寺氏はそれから5年後に天に召された。
ちなみに鈴木会長は当時79歳だったのだが、年齢を問うた徳大寺氏に対して「常々言ってるように年齢は7掛けで考えているので55、56歳ですよ」と答えたのだった。「毎度のことながら会長にはかないませんな」と徳大寺氏は返していたが、その謎の7掛け理論でいくと、それから干支(えと)がひと回りした今も鈴木会長は63、64歳。それなら筆者とほぼ変わらないではないか。
2月の記者会見でも「生きがいは仕事。人間、仕事を放棄したら死んでしまう。みなさんも仕事を続けてください」と言われていたが、そのお言葉、胸に刻ませていただきます。
(文=沼田 亨/写真=スズキ、沼田 亨/編集=堀田剛資)

沼田 亨
1958年、東京生まれ。大学卒業後勤め人になるも10年ほどで辞め、食いっぱぐれていたときに知人の紹介で自動車専門誌に寄稿するようになり、以後ライターを名乗って業界の片隅に寄生。ただし新車関係の仕事はほとんどなく、もっぱら旧車イベントのリポートなどを担当。