第735回:下積み時代の苦労が報われる!? デビューが異例に地味だった大ヒットモデル
2021.12.09 マッキナ あらモーダ!「現象」となったクルマですが
2021年12月、日本では女優・伊藤かずえの愛車「シーマ」のレストアが、日産自動車系列のオーテックジャパンによって実施されたことが話題である。
初代シーマ(Y31型)は1988年に発表された。昭和世相史で必ずといっていいほど語られるように「シーマ現象」はすさまじいものだった。当時、東京で音大生だった筆者が記憶しているのは「日産ローレル セダン」で通勤していたドイツ人教授が、オーケストラの授業で指揮棒を振りながら「日産シーマのように(堂々と)」と叫んだことがあった。「いすゞ・ジェミニ イルムシャー」が愛車だった指導教員も「シーマ欲しいな」と、懇親会の席で語っていたものだ。
そのシーマに関して、少し前に日本のある自動車誌編集者から驚くべきことを聞いた。同車は1987年の東京モーターショーに、今日でいうところのコンセプトモデルこそ展示されたものの、後年のような大々的な記者発表会が催されないまま発売されたというのだ。
にもかかわらず大ヒットとなったのは、あっぱれというしかない。
国際ショーではなかったが
著名なイタリア車のデビューというと、トリノモーターショーやジュネーブモーターショーが舞台といったイメージがつきまとう。だが、お披露目は地味でも、後にロングセラーとなったモデルが数々ある。
代表例は1957年の「アウトビアンキ・ビアンキーナ」だろう。今日の「ランチアY(イプシロン)」の遠い祖先であるこのクルマは、「フィアット500」のメカニカルコンポーネンツを流用しながら、やや上級志向の性格を与えられたクルマだった。結果として、1969年までの12年間で、30万台以上が生産される人気車種となった。
ビアンキーナは1957年9月16日にミラノの国立科学技術博物館で発表されている。アウトビアンキの出資企業のトップであるフィアット創業家のジョヴァンニ・アニェッリ氏をはじめ、フィアットのヴィットリオ・ヴァレッタ社長やピレリのアルベルト・ピレリ氏、そしてビアンキ家のジュゼッペ・ビアンキ氏といった、そうそうたる顔ぶれが臨席していた。また、アウトビアンキの本拠地はミラノ郊外のデージオであったから、地理的にも整合性がある。しかし、その後の大成功を考えると、どこかローカル感が漂っていた。
続いては2021年に50周年を迎えた「フィアット127」である。1971年に誕生した同車は、イタリア本国だけでなくスペインや南米でも現地生産が行われ、1987年までに510万台以上が生産されるロングセラーとなった。そればかりか、世界の自動車メーカーにとって、2ボックス前輪駆動小型車のベンチマークとなった。
しかしその発表は、3月のジュネーブショーと11月のトリノショーのはざまである4月だった。さらに、外部コンサルタントとしてデザインを担当したピオ・マンズー氏が、発表前にミラノからトリノへとモックアップの最終プレゼンテーションに向かう途中、交通事故でこの世を去るという悲しい出来事もあった。しかし工業デザイナーとしても数々の名作を残した彼のマスターピースは、大きく開花したことになる。
アイドルを探せ
最新例としては「フィアット500e(500エレットリカ)」であろう。フィアットブランドの先進性と環境への配慮の象徴として誕生した同モデルは、2020年3月のジュネーブショーでにぎにぎしく披露される計画だった。しかし、新型コロナウイルスの感染対策のため、ショーは2月末に急きょ中止が決定された。
フィアットブランドのオリヴィエ・フランソワCEOは出張中の米国からミラノ市長に連絡。3月3日、同市のトリエンナーレ美術館で、限られた報道陣だけを招いての新車発表が行われた。開催のわずか2日前に決まったというだけあって、数台の実車を館外にディスプレイしただけの、極めて簡素な内容だった。
その後も今日まで、500eには主要市場の国際ショーで披露される機会が訪れていない(2021年9月のミュンヘンにおける「IAAモビリティー」は、フィアット自体が出展を見送った)。
しかし目下のところ、そうした展示の機会が少ないというハンディを克服しているようだ。2021年1月から11月までのイタリア国内電気自動車新車登録台数で、500eは3位「ルノー・トゥインゴZ.E.(5303台)」、2位「スマート・フォーツーEQ(5721台)」をしのぎ、1位(9866台)となっている。このままであれば年間トップも確実ともみられる。
2022年以降も好調を保つことができれば、地味なデビューから大逆転の新たな一例となるだろう。
筆者の周囲には、モーターショーやイベント設営を仕事としてきた人が数々いるので複雑な思いだが、あえて結論づけるなら、「クルマのヒットと派手なお披露目は無関係である」ということだ。
「メルセデス・ベンツRクラス」(2005年)や「プジョー1007」(2005年)、そして「トヨタiQ」(2008年)のように、コンセプトカー時代から華やかなデビューの場を与えられつつも後継車を生まなかったモデルをみると、その思いをさらに強くする。
新型コロナウイルスの感染拡大を機会に、モーターショーのあり方が大きく変化しつつある今、どのようなスタイルで披露されたクルマが人々により認知されてゆくのか、関心をもって見守りたいと思う。
最後に再び昭和感覚で恐縮だが、1970年代中盤、従来の芸人とはまったく異なるしゃれた話芸を、あるテレビ番組の最後のコーナーで披露する人物を発見した。当時小学生だった筆者は、眠い目をこすりながら、彼の出番を待っていたものである。
その人物とは、今日のタモリ氏である。当時はマイナーな局だった東京12チャンネル(現テレビ東京)の、『チャンネル泥棒! 快感ギャグ番組! 空飛ぶモンティ・パイソン』という、これまた知る人ぞ知るコメディー番組だった。
いっぽう実際の出演は目撃していないものの、テクノポップユニットのPerfumeが駆け出し時代にたびたび出演していたのは、東京の旧サンストリート亀戸の青空ステージだったいう。筆者も日本出張中に買い物で訪れるたび、ここからスターへの階段が始まったのかと思うと感慨深かった。
意外に地味なデビューだったクルマが大ヒットするのは、これからも大出世タレントを見るのに似た喜びがあるに違いない。
(文=大矢アキオ<Akio Lorenzo OYA>/写真=日産自動車、Akio Lorenzo OYA/編集=藤沢 勝)

大矢 アキオ
コラムニスト/イタリア文化コメンテーター。音大でヴァイオリンを専攻、大学院で芸術学を修める。日本を代表するイタリア文化コメンテーターとしてシエナ在住。NHKのイタリア語およびフランス語テキストやデザイン誌等に執筆活動を展開。NHK『ラジオ深夜便』では、22年間にわたってリポーターを務めている。『イタリア発シアワセの秘密 ― 笑って! 愛して! トスカーナの平日』(二玄社)、『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)、『メトロとトランでパリめぐり』(コスミック出版)など著書・訳書多数。最新刊は『シトロエン2CV、DSを手掛けた自動車デザイナー ベルトーニのデザイン活動の軌跡』(三樹書房)。