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第858回:苦手な教師たちとも「クルマ」でつながった

2024.05.09 マッキナ あらモーダ! 大矢 アキオ
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始まりは2サイクルの「フロンテ」

2024年の日本におけるゴールデンウイークは「子どもの日」で締めくくられた。読者諸氏は、担任の先生がどのようなクルマに乗っていたか覚えているだろうか? 今回は筆者の少年時代、学級担任だった教師たちのクルマを思い出してみる。しばし私的述懐におつきあいいただこう。

時計を1970年代初頭にまで巻き戻す。東京・多摩地区の小学校に受験のため、両親と訪れたときである。筆者の脳裏に焼きついたのは、試験の内容や面接の質疑応答ではない。駐車場にとまっていたクルマたちだった。初代「トヨペット・コロナ マークII」の横に白い初代「トヨタ・カローラ」が2台。それらに隠れるように2代目「スズキ・フロンテ」がいた。

後日、小学1年生として入学した筆者の学級担任は、なんとその小さなフロンテのオーナーだった。体育大学を卒業して間もない先生だった。本来であれば、先生は生徒たちが登校する前にやってきて、生徒たちが下校してから帰宅する。にもかかわらず、教職員駐車場のブロック塀に吹きかけられる空冷2サイクルの白煙が記憶に残っているのは、ときおりエンジンをかけて調子を見ていたのだろう。参考までに、例のコロナ マークIIは一般の小学校でいうところの校長にあたる先生の自家用車で、2台のカローラは中堅の先生たちのものだった。

自転車や徒歩通勤だった3年および4年生の担任を経て、5年生になると今度は“サンマル”こと3代目カローラに乗る先生が担任になった。彼は筆者の父親に「排ガス規制の対策で、走りがあまりよくなくて」とこぼしていたものだ。

その小学校で唯一輸入車に乗っていたのは、筆者が在籍していた美術部の顧問を務めていた女性の先生で、初代「アウディ80」だった。当時のアウディはクワトロ攻勢前夜。つつましい家族車だった。だが、家にあるのが初代「フォルクスワーゲン・ビートル」だった筆者にとって、アウディは夢のクルマだった。駐車場は教室側からは見えず、廊下をはさんでトイレ側からしか見えなかった。したがって用を足しに行くたび、窓を開けてはその美しいライムグリーンのボディーを眺めていた。

その小学校に、作曲家の神津善行氏が講演に来た日があった。当時の氏は、夫人の名前を織り込んだ著書『ぼくの英才教育:くたばれ中村メイコ』で、エッセイストとしても頭角を現し始めていた。クラスメートたちは本人をひと目見ようと控室に殺到したが、筆者は独り、例の駐車場に回った。神津氏がどんなクルマに乗ってきたのか確認したかったのである。

すると2代目「シボレー・カマロ」がたたずんでいた。カマロは、父が行きつけだったヤナセの営業所でたびたび目にしており、珍しいクルマではなかった。だが、やはり著名人が乗っているクルマからは、別なるオーラが放たれていた。しばし当時日本車では一般的でなかった着色(ティンテッド)ガラスを眺めた。そして、前述のアウディ80を忘れ、いつかアメリカ車に乗ろうと誓った。筆者の支離滅裂な自動車の好みは、当時から始まっていたのかもしれない。

筆者の恩師たちが乗っていたクルマをファクトリーフォトで振り返る。これは初代「トヨペット・マークII」。
筆者の恩師たちが乗っていたクルマをファクトリーフォトで振り返る。これは初代「トヨペット・マークII」。拡大
2代目「スズキ・フロンテ」。
2代目「スズキ・フロンテ」。拡大
幼少期の筆者。小学校就学直前、初めて新幹線「こだま」に乗せてもらったとき。
幼少期の筆者。小学校就学直前、初めて新幹線「こだま」に乗せてもらったとき。拡大
初代「アウディ80」。小学校の先生が乗っていたのは、まさにこの色だった。
初代「アウディ80」。小学校の先生が乗っていたのは、まさにこの色だった。拡大
1976年「シボレー・カマロ」。ステアリングを握るおじさんがイカしている。
1976年「シボレー・カマロ」。ステアリングを握るおじさんがイカしている。拡大
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人生を決めた(?)ドイツ語の授業

1970年代末に入学した中学では、理科のベテラン教員が担任になった。獣医師でもあった彼は、5代目「日産ブルーバード」(810型)が通勤車だった。本人がブルーバードファンであることが判明したのは授業中、昔みずから撮影したという教材用8ミリフィルムを上映したときだった。画面に初代「ダットサン・ブルーバード」(310型)が映り込んでいたのだ。授業のあと、筆者が「あれはテールランプが柿の種といわれたやつですね」と指摘すると、「いや、私が乗っていたのは、その後だ。小変更された後の型だったんだ」と、中学生の筆者にも正確に説明したのは、やはり理系出身である。この教師は、のちに大ヒットする910型に乗り換えたことからしても、生粋のブルーバード愛好家だったことがうかがえる。

続いて中学2・3年の担任は、電車通勤の国語の先生になってしまった。内部進学で入った音大附属の高校も1年次は、これまた国鉄中央線のヘビーユーザーである、別の国語教師がクラス担任になった。

2年生になると一転。今度はなんと3代目「オールズモビル・トロネード」に乗る教師が担任になった。さしてクルマに関心のない他のクラスメートは“ベンツ”と勝手に呼んでいたが、初代トロネードはゼネラルモーターズにおける前輪駆動車の草分け的存在で、3代目もフロントドライブが採用されていた。

ただし、声楽家でもあったこの担任は、他の教師陣と比べると一見クールな風貌だった。そのためたとえオールズモビルであろうと、クルマの話など到底切り出せなかった。

実はこのあたりまで、筆者の自動車に対する関心は、あまり周囲に知られていなかった。劇的変化が訪れたのは、日本人教師によるドイツ語の授業だった。当日どういう流れだったかは失念したが、先生の話は「自動車誕生の地はドイツ」という内容に及んだ。そしてこう解説した。「昔ダイムラー・ベンツという人が……」

それを聞いた筆者はすかさず挙手し、「違います。1886年にゴットリープ・ダイムラーが四輪車、カール・ベンツが三輪車を発明しました」と訂正した。クラスメート一同から「おー」という感嘆の声が湧いた。

大人の今なら、ほかの生徒の前で恥をかかせるような振る舞いは避けただろう。ともあれ、そのドイツ語教師は授業後、職員室に帰ってから「いやー、A組の大矢君にはまいったよ」といった具合に、ことの顛末(てんまつ)を同僚に話したと思われる。事実、ドイツ語に続く時間割であった社会の時間、担当の教師はすかさず「大矢君は自動車のエキスパートだそうですね」と言って笑った。今になって振り返れば、あの瞬間、筆者の職業は決まっていたのかもしれない。

1984年に日産の座間工場で「フォルクスワーゲン・サンタナ」の生産が始まると、例のドイツ語教師は授業内にもかかわらず、教壇から「大矢君、サンタナはドイツと日本をつなぐ新時代ですね」と声をかけた。周囲はなんのことだか皆目わからなかったに違いない。

やがて運転免許も持っていないのに、クラスメートの両親から自動車購入に際して、どの車種がいいか相談を受けるようになった。ダイムラー訂正発言の影響は、まだ続いた。ある日の放課後、自分の机の物入れを見て驚いた。輸入車販売店のダイレクトメールが束になって入っているではないか。誰が入れたかは即座にわかった。当時オールズモビルを扱っていた東邦モータースのものがいくつか交じっていたからだ。そう、どう接してよいかわからなかった声楽家の担任だった。自宅に届いたものをまとめ、筆者にくれたのだった。彼もドイツ語教師から、筆者のことを聞いたのは明らかだった。以来、その担任とはクルマの話をたびたびするようになった。「世の中の人はベンツがいい、と言う。けれども、コーナリングを伴わない東京都心からの首都高・中央道の高速通勤なら、アメリカのクルマがいちばん楽なんだよ」と、オールズモビルを愛好する理由も教えてくれた。

1961年「ダットサン・ブルーバード」の後ろ姿。初期型のテールランプは、その形状から「柿の種」と呼ばれた。かつて担任が所有していたというのは、レンズ面積が拡大された後期型だったという。
1961年「ダットサン・ブルーバード」の後ろ姿。初期型のテールランプは、その形状から「柿の種」と呼ばれた。かつて担任が所有していたというのは、レンズ面積が拡大された後期型だったという。拡大
1982年「日産ブルーバード ターボSSS」。
1982年「日産ブルーバード ターボSSS」。拡大
2代目「オールズモビル・トロネード」に乗る高校の担任教諭。筆者画。
2代目「オールズモビル・トロネード」に乗る高校の担任教諭。筆者画。拡大
1985年「日産フォルクスワーゲン・サンタナ2000Xi5アウトバーン」。
1985年「日産フォルクスワーゲン・サンタナ2000Xi5アウトバーン」。拡大
高校時代、学園祭の日の筆者。
高校時代、学園祭の日の筆者。拡大

“コンマス”は「ジェミニ イルムシャー」でやって来た

1980年代中盤、進学した音楽大学は当初、高校までのような自動車談義には恵まれなかった。大学の公用車は初代「日産プレジデント」、学長も「グロリア」に乗っていた。いずれも販売店「西武日産」のステッカーが貼ってあった。創立時からして西武系とつながりが深い学校法人だったので、その縁だったのだろう。ときおり来るNHK交響楽団の客員教授も、いかつい2代目「メルセデス・ベンツSクラス」だったりして、今ひとつエンスージアスト感がない。

やがて2年生になり、一般の大学でいうところのゼミ担当教授が変わることになった。聞くところによると、ドイツの名門オーケストラで団員として活動後、日本の地方交響楽団でコンサートマスターとして活躍している人だという。それなりに構えて臨んだ。

間もなく、本人のクルマが白い「いすゞ・ジェミニ イルムシャー」であることが駐車場のクルマから判明した。それを筆者が指摘すると、本人は「楽団がある地方と東京を移動する際、関越(自動車道)ですごく速いんだ」と、授業の真剣さとは対照的に、うれしそうに教えてくれた。ちなみに夢のクルマは、ジェミニとまったく性格が異なる(初代)「日産シーマ」だと教えてくれた。時代である。ともあれこれ以来、この教授との距離も一気に縮まった。

言っておくが筆者は、教師たちの機嫌をとるためにクルマの話を切り出したことはない。実際、成績には反映されなかったし、そのような社交性を持ち合わせていたら、その後の社会でも出世していただろう。いったんクルマの話題となると、どの教員も向こうから途端に熱く語り始めたのだ。筆者流にいえば“サイレント・エンスージアスト”だったのである。

今日でも欧州の自動車愛好家ミーティングを取材に行くと、「俺のクルマ撮って、撮って」と寄ってくるオーナーよりも、駐車場の片隅で黙々と愛車といる参加者のほうが、面白いクルマを持っていたり、ストーリーが隠されていたりすることが多い。そうした人々に果敢に話しかけられる勇気は、思い起こせば今回紹介した恩師たちがいたおかげに違いないのである。

(文とイラスト=大矢アキオ ロレンツォ<Akio Lorenzo OYA>/写真=トヨタ自動車、スズキ、アウディ、ゼネラルモーターズ、日産自動車、いすゞ自動車/編集=堀田剛資)

2代目「いすゞ・ジェミニ イルムシャー」。筆者の大学時代の恩師が駆っていたのは、セダン版だった。
2代目「いすゞ・ジェミニ イルムシャー」。筆者の大学時代の恩師が駆っていたのは、セダン版だった。拡大
大矢 アキオ

大矢 アキオ

Akio Lorenzo OYA 在イタリアジャーナリスト/コラムニスト。日本の音大でバイオリンを専攻、大学院で芸術学、イタリアの大学院で文化史を修める。日本を代表するイタリア文化コメンテーターとしてシエナに在住。NHKのイタリア語およびフランス語テキストや、デザイン誌等で執筆活動を展開。NHK『ラジオ深夜便』では、24年間にわたってリポーターを務めている。『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)、『メトロとトランでパリめぐり』(コスミック出版)など著書・訳書多数。近著は『シトロエン2CV、DSを手掛けた自動車デザイナー ベルトーニのデザイン活動の軌跡』(三樹書房)。イタリア自動車歴史協会会員。

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