第714回:HRC Sakuraでわかった「ホンダがF1をやりたくなる理由」
2022.08.09 エディターから一言ホンダのモータースポーツ活動を担う、ホンダ・レーシング(HRC)の開発現場に潜入。さまざまな最高峰レースを戦ってきた“秘密基地”の内部ではどんなことが行われているのか、詳しくリポートする。
日本の“聖地”「HRC Sakura」へ
イタリアにはマラネロ、イギリスにはミルトンキーンズやブラックレー、ウォーキング──これらがF1チームの本拠地名であることは好事家ならご存じのとおり(ちなみに順番に、フェラーリ、レッドブル、メルセデス、マクラーレンの各拠点)。こうしたF1ファンにとって“聖地”ともいえる名前のなかに、日本の「Sakura」を加えたとしても、誰も文句は言わないだろう。
ホンダF1活動の第4期(2015年~2021年)のパワーユニット開発拠点として知られる、栃木県さくら市にあるSakura。稼働を始めた2014年当初は、ホンダ・リサーチ&デベロップメント=HRDをその名に冠していたが、2022年4月からは、もともと二輪レース活動を担っていたHRCが四輪モータースポーツ部門と統合されたことで、四輪レース部として「HRC Sakura」と呼ばれるようになった。
世界最高峰のF1で頂点を極めたパワーユニットが生み出され、SUPER GTやスーパーフォーミュラなどを含めた四輪モータースポーツの技術の粋が集められた“研究開発基地”。普段は立ち入ることが許されない秘密の施設が、この度メディアに公開された。
そこで目にしたのは、最新鋭の設備とそれを動かす技術者の熱意、そして「なぜホンダがモータースポーツ活動にこだわるのか」「なぜF1をやりたくなるのか」という理由だった。
F1パワーユニットの組み立ては「2人で7日間」
見学ツアーで最初に訪れたのは、F1パワーユニットの組み立てエリアだ。白を基調としたクリーンで整頓された部屋に、パワーユニットや各種コンポーネント、工具が整然と置かれ、作業着を身にまとったエンジニアにより手作業で組み上げられている。
作業時間は、パワーユニット1基につき2人が担当して7日間。加えて、熱エネルギー回生とターボチャージャーを合体させたF1ならではのユニット「MGU-H」のアッセンブリーには、専任で1人が1台を担当し5日間かかるというのだから、実に丁寧に組み立てられているのがわかるだろう。
年間20戦以上を戦う多忙極めるF1では、シーズン中も休まる暇はなく、各レースの後には「レース間メンテ」と呼ばれるメンテナンスが実施されている。年間3基までとされる厳格なルールのもと戦わなければならないため、信頼性の確保には細心の注意を払うことになり、サーキットから戻ってきたパワーユニットは、内視鏡検査で異常がないか確認され、また消耗品のチェック、ルール上交換が許されているセンサーなどの部品交換などを受けることになる。
まったく新しいパワーユニットなら、組み立てた後にベンチテストで事前にパフォーマンスや不具合の確認が可能だが、一度でもレースに投入されたものは、レギュレーションでベンチに載せることが許されない。つまり、レース間メンテ後はそのまま空輸され、マシンに搭載されてサーキットを走ることになる。そのため、よりいっそう緊迫した作業なのだという。
なお、自分が担当したパワーユニットがどのマシンに搭載されているかはエンジニア各人も把握しているそうで、「勝ち負けよりも、『壊れないでくれ!』とドキドキしながらテレビを見ています」と笑って答えてくれていたのが印象的だった。ファンやメディアなら「パワーユニットにトラブル!」とまくし立てておしまいだが、当事者にしてみたら後悔と反省、そして改善が求められる、厳しい世界なのである。
作業に従事するひとたちは一見してみな若い。メカニックとしてサーキットに派遣されることにもなるため、体力がなければ務まらないからだ。Sakuraで先輩からたたき込まれたノウハウを現場でも生かせる。モータースポーツを通じた人材育成の一端を垣間見ることができた。
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「ミッション・ルーム」は、まさに戦いの最前線
大小数十台のモニターが整然と列を成して並び、コース図やラップチャート、細かい数字やグラフが幾百も表示されている。まるでNASAの管制室のようなその場所は、「SMR(サクラ・ミッション・ルーム)」。レースウイーク中にサーキットとネットワーク回線でつながれ、さまざまなデータと戦略が飛び交うことになる“参謀室”だ。
SMRの役割は、「リアルタイムで走行データを監視」して「レース中現場と戦略の相談」をすること。さらにレースで発生した課題を開発側にフィードバックすることもしなければならない。車体挙動やGPSデータ、パワーユニットの状態を示す膨大なデータが、マシンに搭載された数百ものセンサーから飛ばされ、超高速回線を使って瞬時にサーキットからSMRに届けられる。データ解析はほとんど現地と時差なくリアルタイムで可能というからすごい。
扱うデータも実に多様だ。エネルギーマネジメント、油圧や水圧、温度、さらには運動エネルギーを回生する「MGU-K」のパワーアシスト(ディプロイメント)の状況など、解析ツール上のタブを切り替えて確認することができる。異常値を検出するとアラートが出るようになっているが、対策を考えるのは専門の知識を持った人間。特にレースウイークの初日にあたる金曜日は、さまざまなチェックを行うために大人数がこの部屋に詰め、多忙な時間を送ることになるという。
ホンダが第4期初優勝を飾った2019年の第9戦オーストリアGPでは、勝利に向かってまい進中だったマックス・フェルスタッペンに「エンジンモード11、ポジション5」という、のちにファンの間で語り草になる無線指示が出された。これもSMRでの解析結果が反映されたうえでのオーダーであり、信頼性のためにパワーを抑えていたところを解放し、「大丈夫、全開で勝ちにいけ」というメッセージとして出されたものだった。
最高峰F1では、現状分析から対応の判断までの時間にも驚くほどの速さが求められる。何らかの事象が見つかった場合、数千種類もあるセッティングから、ものの数分で最適な改善提案をまとめ、即時にサーキットにいる現場担当者に投げなければならないというのだ。
「F1のプラクティス中は、ピットに戻ってきて次に走りだすまでに数分程度しかない。だから走行中にデータを解析して対策をまとめ、次のランに反映できるようにしておかなければならないのです」。そんな言葉を聞き、即断即決が求められ、すぐに結果が分かってしまうF1の、厳しくも特殊な環境に驚くばかりだった。
取材日の2日前にハンガリーGPを終えたばかりのSMRには、必勝を祈願したお守りがデスクに置かれたまま。最後は神頼みか、とどこかほほ笑ましくもあった一方、ここがサーキットと同じ「戦いの最前線」であることを物語るものとして印象に残っている。
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シーズン中のパワーユニット改善、風洞で200km/hテストを体験
組み上がったパワーユニットは、ベンチテストに回される。実際の出力性能や信頼性などを最終確認する“最後の砦”になるわけだが、レース前のさまざまなシミュレーションもこの工程で行われる。搭載されるマシンやドライバーごとの事前机上シミュレーションに始まり、サーキット特性に合わせたドライバビリティーやエネルギーマネジメント、コースの気温や湿度など環境への適合性などが検証され、そのデータをもとにパワーユニットの性能や耐久性を最適化していく。
今季からF1のパワーユニット開発が凍結されたとはいえ、許される範囲でパフォーマンス改善もされている。例えば、スタート時のドライバーのアクションに対して、トルクの発生が遅れていることがデータで判明。この現象でホイールがスリップし出遅れてしまいかねないため、レッドブルと協議した結果、ローンチにおけるトルク追従性を良くするために過給圧の制御を調整し、スタート時の性能が向上したという。改善前後のデータをグラフで見せてもらったが、その詳細は公表できないものの、反応のスピードが上がっていること、そして、さすがチャンピオン、フェルスタッペンのローンチが抜きんでて良いことが示されていた。
F1でホンダが手がけるのはパワーユニットだけ。とはいえ、SUPER GTなどでは車体も開発しており、そこで出番となるのが風洞、すなわちレーシングカーの実走環境を模擬的に検証する巨大施設である。直径8mの“ジャンボ扇風機”が強風を起こし、空気の流れが車体に与える影響を測る仕組みだ。車体を乗せて高速で動く「ムービングベルト」は、Sakuraでは自動車用としては世界最大クラスをうたう「1ベルト(シングルベルト)方式」が採用されており、車高が低いレーシングカーに適した精緻な測定が可能だという。
実物のマシン「NSX-GT」がセットされた風洞施設の中、「ノズル」と呼ばれる送風口から数mという至近の場所で、実際の風洞テストの模様を見学させてもらった。
開口部内に立ち入ったら体ごと吹き飛ばされるほどの強風が吹き出しているはずなのだが、ノズルを外れると微風しか感じない。ベルトとタイヤがうなりをあげ高速で回転し、リアウイングがわなわなと震え、モニターに目をやると時速は「200km/h」を示していた。
ベルト下のダウンフォース計測センサーなどで実数値を記録する仕組みだが、空気の流れ、いわゆる「流れ場」は目に見えないため、あわせてコンピューターを使った「CFD(計算流体力学)」による分析を行うなどして空力最適化を図っているという。
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ホンダが「F1をやりたくなる理由」
このほかにも、実車をドライブしているような疑似環境を構築する「DIL(ドライバー・イン・ザ・ループ・シミュレーター)」や、医療でもおなじみのX線CTを使っての部品検査、1960年代のホンダF1マシンなどを動態保存する「ヘリテージ部門」など多くの施設を巡り、おなかいっぱいになったところで見学ツアーは終わった。
どの設備も最新鋭かつ高度なオペレーションが行われており、またそれらを丁寧に説明してくれた技術者の方々からは、沈着で冷静な口調の裏に、確たる自信と熱意を感じずにはいられなかった。
第4期のF1活動を振り返れば、それもそのはずとうなずけるものだ。
2015年に始まったマクラーレンとの3年間は、優勝も表彰台もなく最高5位。パワーユニットは非力なうえによく壊れ、技術者としてのプライドは大きく傷ついた。実際、今回の取材でも、「一番悔しかった時は?」との質問に「2015年の日本GPで『これじゃ(下位カテゴリーの)GP2エンジンだ』と言われた時ですね」と答えてくれた方もいた。
そんなどん底を味わった彼らが、F1を撤退する最後のシーズンになって、ついにレッドブルとともに世界一の称号を勝ち取るまでになり、また今シーズンはレッドブル・パワートレインズの名で引き続きホンダ製パワーユニットが勝利を重ねている。この間、どれほどの時間やリソースがさかれ、知恵が絞られ、失敗が繰り返されたか。
今回見聞きしたSakuraにまつわるさまざまな技術やエピソードは、まぎれもなく過酷なモータースポーツでの経験、その頂点であるF1活動に裏打ちされたものであり、そこで働くひとたちの心に矜持(きょうじ)が宿らないはずはない。ホンダが度々F1をやりたくなる理由は、まさにここにあるのだ。
HRCを率いる渡辺康治代表取締役社長は、「レースは、短期間でヒトと技術を磨く究極の方法」と、量産車メーカーであるホンダとモータースポーツの密なる関係を説明する。最高峰カテゴリーで磨かれた技術とエンジニアにSakuraで出会ってみると、その言葉が決してきれい事ではないのだと、納得してしまうのである。
(文=柄谷悠人/写真=ホンダ・レーシング/編集=関 顕也)
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柄谷 悠人
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