車両開発者は日本カー・オブ・ザ・イヤーをどう意識している?

2025.12.16 あの多田哲哉のクルマQ&A 多田 哲哉
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国内の自動車業界では、年末のカー・オブ・ザ・イヤー選定が恒例の行事となっています。「この一年で最も優秀と思われるクルマ」に与えられる賞とのことですが、エンジニア・開発現場の方はCOTYをどう意識していますか? それが車両開発に影響することもありますか?

今の若い人はご存じないかもしれませんが、かつて、日本カー・オブ・ザ・イヤーが最も盛んだったころは、クルマの売れ行きに大いにかかわるといわれていました。私の印象でいえばそれは、1989年に初代「トヨタ・セルシオ」が出たころ、1990年前後だと思います。

当時の私はブレーキやABS関係の開発にたずさわっていて、冬季は北海道での試験に臨んでいたのですが、その隣では初代セルシオのテストも行われていました。担当のスタッフから「カー・オブ・ザ・イヤーが取れるかどうかがかかっている。選考委員の人を欧州の古いお城に連れて行って最上級のもてなしをしたり、そのためにみんなでがんばっているんだよ」なんて聞かされて、へえ、そんなことまでするんだと思ったものです。なおセルシオは、その年のカー・オブ・ザ・イヤーを受賞しています。

その後、自分自身がクルマの企画全体を見る立場になると、カー・オブ・ザ・イヤーは、はるかに身近なものになりました。

年末になると、カー・オブ・ザ・イヤーに関して自分の担当するクルマがどうなるのかという話をするようになりましたし、ピークのときは、接待もずいぶん過激になりましたね。時には、ジャーナリストの方から度の過ぎた要求をいただいて、「なんだか、しょうもない世界だなあ」とため息をついたこともあります。

そんな調子だったからでしょう、だんだんユーザーのほうがカー・オブ・ザ・イヤーから離れていくようになって、同賞がクルマの売れ行きや世間の評判ともあまり関係のないものになっていき、今に至るという感じです。

そういう流れのなかで、初代「86」「BRZ」を発売した際には、トヨタとスバルの広報の間で「せっかく共同開発したことだし、両社でタッグを組んで86/BRZを推すというのはどうでしょう?」という話が持ち上がり、2012-2013 日本カー・オブ・ザ・イヤーにエントリーすることになりました。私もそのキックオフ式に呼ばれて行って、みんなでがんばろう! なんて言ったのを覚えています。

その後、このカー・オブ・ザ・イヤー関連のインタビューを雑誌社から受けることになり、「賞を取れると思いますか?」との質問を受けた際には、「選ばれるならそれはありがたいことですが、このクルマの発売当時のコンセプトは『ユーザー自身がつくり上げるクルマ』であって、カスタマイズしてもらうことも前提なので、発売後すぐに賞をもらうよりは、3年なり5年なり後のほうがいい。一定期間を経て、コンセプトどおりにみなさんが認めてくださるなら、それが一番うれしい。“発売3年後に評価されるカー・オブ・ザ・イヤー”なんてものがあったらいいですね」などという返事をしました。

そうしたら、このインタビューは「トヨタの多田はカー・オブ・ザ・イヤーなんて要らないそうだ」という話にまとめられて出て、トヨタ社内では大騒動になってしまいました。「なにがなんでも賞を取ってもらわないと、私の査定にかかわるじゃないですか!」なんて不満を訴える関係者もいましたね。

結果、86/BRZは賞を取れませんでしたが、あとになって何人ものジャーナリストに「多田さんは賞が要らないそうなので、86/BRZに投票するのはやめましたよ」と言われたのには参りました(苦笑)。

時を経て、「GRスープラ」。日本の賞はさておき、このクルマはドイツの「ゴールデンステアリングホイール賞」を受賞しました(2019年)。前触れもなく現地からその知らせがあって、ベルリンでの授賞式に呼ばれて赴いたところ、現地で話を聞いてみれば、賞の選考方式が日本カー・オブ・ザ・イヤーとはまるで違っていました。

まず投票するのは、ユーザー。そこで選ばれたクルマを、自動車業界だけにとどまらない各界の専門家が、基本的な走行性能だけでなく、デザインやコンセプト、経済性、社会における存在意義などさまざま観点から公平に話し合い、結果もオープンにして決める、みたいなことになっている。賞の権威から何から、まるで違うと感じました。

日本カー・オブ・ザ・イヤーもこれまで何度となく改革を試みたことがあるとは聞きますが、結局はなにも変わっていないし、このままだとユーザーの興味はますます薄れていくと思います。いわゆるオールドメディアの問題にも通じるところがある。今や双方向でユーザーの声が伝わる時代なのですから、その点にもっと配慮してイヤーカーを選ぶべきではないかと思いますね。

質問にある「車両開発に影響することがあるのか?」という点については、冒頭に触れた1990年ごろは多少あったかもしれませんが、その後は、カー・オブ・ザ・イヤーに選ばれるためにこうしようみたいなことは、まったくないですね。開発に影響を与えるほどのことを言ってくれる人もいないし。逆に、それくらい意味のあるコメントをもらえたらありがたいのですが、日本のジャーナリズムは、残念ながらそうなっていない。特に、自動車業界は。

ほかのメーカーのエンジニアともそうした話をすることはありますが、今回私が述べてきたようなことは、どの開発者も同様に感じているのではないでしょうか。

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多田 哲哉

多田 哲哉

1957年生まれの自動車エンジニア。大学卒業後、コンピューターシステム開発のベンチャー企業を立ち上げた後、トヨタ自動車に入社(1987年)。ABSやWRカーのシャシー制御システム開発を経て、「bB」「パッソ」「ラクティス」の初代モデルなどを開発した。2011年には製品企画本部ZRチーフエンジニアに就任。富士重工業(現スバル)との共同開発でFRスポーツカー「86」を、BMWとの共同開発で「GRスープラ」を世に送り出した。トヨタ社内で最高ランクの運転資格を持つなど、ドライビングの腕前でも知られる。2021年1月に退職。