クルマの進化は、ドライバーを幸せにしているか?

2026.02.03 あの多田哲哉のクルマQ&A 多田 哲哉
【webCG】クルマを高く手軽に売りたいですか? 車一括査定サービスのおすすめランキングを紹介!

現代のクルマは、運転支援をはじめ、さまざまな電動装備がドライバーをサポートしてくれます。それらは、ドライバーを幸せにしていると言い切れるでしょうか? 多田さんのご意見を聞いてみたいです。

なかなか難しい質問ですね。一人ひとりの価値観にもよることですし。

私の主観で言うなら、それはもう間違いなく皆さんを幸せにしていると思いますし、そう思って何十年も自動車会社でクルマをつくってきました。

ただ、環境破壊の問題は無視できません。近年は気候の変動が深刻化していて、例えば、とんでもなく暑い夏がくる。こうした現象のなかでクルマが与えた悪影響がどれくらいあるのかというのは、心に引っかかっているところでもあります。

そんな思いもあって、私は今、山奥に移住して、なるべく自然エネルギーを使い、雨水をためて庭の水に再利用するような暮らしをしています。まあ今回は、それは置いておくとして……“クルマの進化”で一番大きいのは「誰でも運転できるようになった」という点でしょう。

本当にこれは、すごく大きなことなんです。黎明(れいめい)期のクルマは、運転に際してさまざまな“儀式”が求められました。今の人は信じられないと思いますが、エンジンをかけること自体が難しかったのです。私が初めてクルマを所有した大学生のころ、かれこれもう50年ほど前の話ですが、当時は始動のために「チョーク」というものを使っていました。空気の流入量を絞って空燃比を高め、始動性を上げる装置なのですが、若い人のほとんどは知らないでしょうね。

チョークの引き加減も、その日の気温や状態によって違いました。それに加えて、アクセルのあおり方なども工夫します。エンジンをかけるだけでもそれなりの経験と準備が必要で、いざセルを回して一発でエンジンがかかったら、その日は「最高にいい日」だった(笑)。

もし失敗したら? 「あー、しまった!」です。再トライするものの、そのうちエンジンがカブって(=点火プラグが未燃焼ガスでぬれてしまい)いよいよ始動困難になる。それで学校や会社に遅れるなんてことも普通にあった時代でした。エンジンをかけることが、クルマに乗るための大きなハードルのひとつだったんです。そう話すと今の人はポカーンとして、「始動ボタンを押せばかかるもんじゃないんですか?」と言われますが。

「チョークを引けばエンジンがかかるようになった」のだって相当な進化で、さらに昔はエンジンのクランクを手動レバーで回していた。“ケッチン”(不意のクランク逆回転により始動レバーがはね返されること)を食らって手を捻挫した! なんてトラブルもありました。私自身、「今日はエンジンがうまくかからない」と愚痴った際に、もっと上の世代の方から「お前はクランクを(自分の手で)回したことがあるのか?」とたしなめられたものです。

そうやって苦労を重ねて、今のように誰でも普通にクルマを走らせられるようになったのは、すごく大きな進化なんです。天候や路面状況に左右されていた時代は、自動車の用途自体が限られていたのだし、さまざまな使い道で、いろいろな場所にまでクルマのもたらす恩恵が行き届くようになったという意味で、今日のようにクルマが進化したのは、とても幸せなことだと思います。

一方で、今回こうした質問が寄せられるのは、「クルマにどれほど愛着を持って接することができているか」という議論をしたい人が一定数いるからでしょう。今、エンジンが一発でかかることにいちいち幸せを感じる人はいませんからね。そうした類いの幸せ感や愛着を感じられるところが、どんどん失われてきたのは間違いありません。そういうことを懐かしがって、「もう一度、キャブレターの付いたクルマを買ってみよう」という方が少しずつ増えてきているのが今なんだと思います。

「幸せ」というのは、切り口によって結論が全く違います。全体で見れば間違いなく進化してみんな幸せになった。けれど、マニアックに捉えれば、「手間がかかった時代のほうが愛着を持てて、乗ること自体に幸せを感じられたと思う人も、便利になればなるほど増えてくる」ということなんだと思いますね。

→連載記事リスト「あの多田哲哉のクルマQ&A」

多田 哲哉

多田 哲哉

1957年生まれの自動車エンジニア。大学卒業後、コンピューターシステム開発のベンチャー企業を立ち上げた後、トヨタ自動車に入社(1987年)。ABSやWRカーのシャシー制御システム開発を経て、「bB」「パッソ」「ラクティス」の初代モデルなどを開発した。2011年には製品企画本部ZRチーフエンジニアに就任。富士重工業(現スバル)との共同開発でFRスポーツカー「86」を、BMWとの共同開発で「GRスープラ」を世に送り出した。トヨタ社内で最高ランクの運転資格を持つなど、ドライビングの腕前でも知られる。2021年1月に退職。