第3回:ヘンリー・フォード
大量生産で世界を変えた資本主義の申し子
2017.07.27
自動車ヒストリー
名車「フォードT型」を世に送り出し、自動車を通してまさに世界を変えてみせたヘンリー・フォード。大量生産の実現により企業と労働者がともに繁栄の道を歩めると信じ続けた、時代の寵児(ちょうじ)の生涯を振り返る。
エジソンの激励で自信を深める
「今日私たちが自動車と呼んでいるものの実現を早めた点で、エジソンはもっと功績を認められなければならない」(『自動車王フォードが語るエジソン成功の法則』)
ヘンリー・フォードは、トーマス・エジソンへの感謝の念を生涯持ち続けた。彼の言葉が、自分のクルマ作りの方向性が正しいと確信させたからだ。
1896年8月11日、ニューヨークでエジソン電気会社の代表者会議が開かれ、親睦を深めるための夕食会にフォードも出席していた。会食中、乗り物用蓄電池の充電が話題になった。電気事業者にとって大きなビジネスチャンスになるというのだ。当時は蒸気自動車、ガソリン自動車、電気自動車が混在する状況だったが、その場では電気自動車の優位を前提に議論が進行した。しばらくの間フォードは黙って聞いていたが、やがて自分がガソリン自動車を造ったことを告げる。すぐさまエジソンが興味を示し、2ストロークなのか4ストロークなのか、点火はどうするのかなどと矢継ぎ早に質問を投げかけた。フォードが的確な説明を返すと、わが意を得たりというようにテーブルをたたいて彼を激励した。
エジソンの見解では、電気自動車は発電所の近くでなければ機能せず、バッテリーが重いのも弱点だ。蒸気自動車はボイラーと火元を運ばなければならないので、論外というしかない。フォードのガソリン自動車は自前の動力装置を積んでおり、高い可能性を秘めている。
フォードにはまだ迷いがあったが、天才からお墨付きを与えられて自分の考えが正しいことを確信する。電気に関して世界一の知識を持っているエジソンが、モーターよりもガソリンエンジンのほうが動力として適していると断言したのだ。
自ら会社を起こして自動車製造を目指す
子供の頃から機械いじりが好きだったフォードは、16歳でディアボーンの生家を出てデトロイトに行く。機械工となり、工場を渡り歩きながら腕を磨いていった。1891年にはエジソン電気会社に入社し、2年後には技師長に昇進する。電気の技術に精通して将来を嘱望されたが、彼にはほかにもっとやりたいことがあった。ガソリン自動車の開発である。仕事から帰ると自宅の片隅を改造した作業場で研究を続け、1896年に第1号車を完成させた。自転車のタイヤを4つ付けた簡易な構造の自動車で、「クォドリシクル」と名付けた。
エジソンの助言を受け、フォードは改良モデルの開発にとりかかる。動力伝達の方法や電気関係の装備について、彼らはテクニカルな議論を重ねた。もともとはスターターと発電機を一体化する計画だったが、エジソンの意見を受け入れて別々のユニットに分ける方式に変更する。2人はプライベートでも親交を深め、互いに尊重し合う関係になっていった。しかし1899年、フォードはエジソン電気会社を辞する。デトロイト自動車会社を設立し、本格的に自動車づくりを始めたのだ。
事業を始めるにあたり、デトロイトの実業家たちから資金の提供を受けた。そのことが会社経営に混乱をもたらす。フォードは農民たちに安価で使い勝手のいい乗り物を提供したいと考えていたのだが、実業家たちが彼の構想に理解を示すことはなかった。その頃はよほどの金持ちでなければ自動車には手を出せなかった時代である。できあがった製品は満足できる性能を得られず、しかも高価格だった。めぼしい実績を残せぬまま、最初の会社は1901年に解散してしまう。
次にフォードは、クルマを宣伝するためにモータースポーツでの勝利を利用しようと考えた。デトロイトで行われたレースに彼自身が出場して優勝を果たすと、もくろみどおり再び出資者が現れた。ヘンリー・フォード・カンパニーが設立され、新たな事業が始まる。しかし、すぐにまたフォードと出資者たちとの考え方の違いが露呈した。フォードはここでも大衆車の製造を目指したが、出資者たちは高価格なモデルを売って手っ取り早く利益を得ようと考えたのである。フォードは会社を去り、ヘンリー・リーランドが技師長を継いだ。会社名はキャデラック社に改められ、後にゼネラルモーターズ(GM)に合流していくことになる。
自動車の歴史を変えたT型
フォードはあきらめなかった。大排気量のレーシングカー「999」で好成績をあげると、今度は石炭業者のマルコムソンや機械メーカーのダッジ兄弟などが資金提供に手を上げた。1903年、彼はフォード・モーター・カンパニーを設立する。初めて作った「A型」がキャデラック社のモデルとよく似ていたのは、どちらもフォードが設計したからだ。彼は改良を重ねるたびにモデル名を「B型」「C型」と順に名づけていった。
またしても出資者たちとの意見の相違が明らかになっていくが、フォードは前回の経験を生かして周到に事を進めていた。利益が出ると自分の出資を増やしていき、やがて株式の大半を押さえる。ワンマン体制を築き、フォードの意思が会社の方針となる状況を作っていった。彼の陣頭指揮で作られた小型車の「N型」がヒットすると、豊富な資金を得ていよいよ計画を実行する条件が整った。1908年にデビューしたT型が、自動車の歴史を変えることになる。
フォードの構想は、単に製品としての自動車だけを対象にしていたのではない。産業構造を変え、社会を変革することまでを視野に入れていた。彼は産業の発展が人々に自由をもたらし、企業の成長とともに労働者も豊かになると考えていた。そして、フォード社こそがその理念を現実化したという強烈な自負を持っていた。
1926年に書かれた著書『藁(わら)のハンドル』では、誇らしげにこれまでの実績を回顧している。すでに1300万台以上のT型フォードが生産され、フォード社は20万人以上の従業員を抱える大企業に発展していた。関連会社も含めると60万人もの人々が恩恵を受け、家族を入れればフォード社が300万人を養っている計算だ。成功と繁栄をもたらしたのは、「小型で、丈夫で、シンプルな自動車を安価につくり、しかも、その製造にあたって高賃金を支払おうというアイデア」だったという。
フォード社の真の発展は1914年から始まったとも記している。この年、それまで2ドルあまりだった労働者の最低賃金を5ドルに引き上げた。豊かになった従業員は、購買力が高まることで顧客としても有力な存在になっていく。生産が拡大すると価格が低下し、製品を購入できる層がさらに増加する。自動車生産が起爆剤となって影響はアメリカ社会全体に波及し、国全体が豊かになっていったというのだ。
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企業と労働者がともに繁栄するという理想
『藁のハンドル』には、フォードの強烈な自負心を反映した主張がちりばめられている。
「私たちが繁栄しているから、自動車を持てたのではない。私たちは、自動車を持っているからこそ繁栄しているのである」
「わが国の全般的な繁栄は、農作物の収穫高とは関係なく、自動車の所有台数に正比例している」
「一日数セントのために、長時間働く中国の苦力より、自分の家や自動車を持っているアメリカの労働者のほうが幸福である。一方は奴隷であり、他方は自由人である」
生産の拡大が需要を呼び起こし、需要に応えるために企業が成長する。労働者には適正な賃金が支払われ、消費者として巨大な存在となっていく。すべてが好循環で、フォードの前には無限の可能性が広がっているように見えた。しかし、実際には危機が目前に迫っていた。自動車はすでにアメリカの隅々にまで行き渡り、市場は飽和しつつあった。旧態依然としたT型は、大衆の欲望に応えられなくなっていく。毎年モデルチェンジを繰り返して新奇さを強調するシボレーが、急速に競争力を高めていた。
1927年5月26日、突然T型の生産が終了する。次期モデルは開発されておらず、半年後にA型の製造が開始されるまで工場は動かなかった。1929年、大恐慌が自動車産業を手ひどく打ちのめした。フォードは著書の中で「管理さえ適切にやれば、『不況期』を迎えねばならない理由は毛頭ない」と宣言していたが、市場の論理は冷徹だった。
1918年にフォードは息子のエドセルに社長職を譲っていたが、実権は手放さなかった。早くからT型に代わるモデルを作るよう進言していたエドセルを一顧だにせず、己の信念を曲げなかったことが傷口を広げた。彼はボクサー出身のハリー・ベネットを総務部長に雇って労働組合に対抗し、融和的だった息子を批判した。しかし、経営者と労働者が鋭く対立すれば現場は混乱する。生産性の低下は誰の目にも明らかだった。
1943年、エドセルが早世するとフォードは社長に復帰したが、2年後に引退して孫のヘンリー・フォード2世に後を譲る。その2年後の1947年、ヘンリー・フォードは故郷のディアボーンで84年の生涯を閉じた。彼は大量生産のシステムを作ることで、企業と労働者がともに繁栄の道を歩めると信じていた。素朴で素直な資本主義の申し子であり、進歩と成長を心から信じることのできる幸福な時代を生きた。
(文=webCG/イラスト=日野浦 剛)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。