第8回:WRC――グループBの挑発
ひたすら速さを求め続けた狂乱の時代
2017.10.05
自動車ヒストリー
「アウディ・クワトロ」に「プジョー205ターボ16」、そして「ランチア・デルタS4」と、あまたのモンスターマシンが覇を競った“グループB”時代の世界ラリー選手権。悲劇とともに突然の終わりを迎えた狂乱の時代を、数々の名車とともに振り返る。
勝利のために開発された「ランチア・ストラトス」
ラリーの起源をたどると、1911年のモンテカルロに行き着く。パリ、ベルリンなどから計23台の自動車がモナコを目指して走り、5日間かけてゴールした。Rallyという言葉はre(再び)ally(集まる)という意味を持っている。当時は競技というよりも、社交イベント的な要素が強かったのだ。
やがて競技色を強めたラリーが開催されるようになり、世界各地で独自に発展していく。これらを1973年に世界選手権として組織化したものが、今日に続く世界ラリー選手権(WRC)である。国際自動車連盟(FIA)が主催し、初年度は1月のモンテカルロから始まって全13戦で競われた。初のチャンピオンとなったのは、「アルピーヌ・ルノーA110」である。当初はマニュファクチャラー(登録された製造メーカー)のタイトルだけで争われていたのだ。ドライバーズタイトルがかけられるようになったのは、1979年からである。
クラス分けはグループ1<量産ツーリングカー>、グループ2<特殊ツーリングカー>、グループ3<量産グランドツーリングカー>、グループ4<特殊グランドツーリングカー>となっていた。最高位のグループ4は、グループ3の改造クラスという位置づけである。量産車を戦闘力のあるマシンに作り変えるわけだが、逆の発想から生まれたのが「ランチア・ストラトス」だった。
グループ3は連続する12カ月に5000台以上を生産することが条件だが、グループ4のホモロゲーション規定は、連続する12カ月に400台を生産すればいい。ランチアは最初からWRCの勝利を目的に特殊なマシンを開発し、少量生産で規定をクリアしたのだ。「フェラーリ・ディーノ」のV6エンジンをミドに横置きし、極端に短いホイールベースで回頭性を確保する。ランチア・ストラトスは圧倒的な速さを見せ、1974年からマニュファクチャラーズタイトル3連勝を果たす。
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アウディがもたらした四輪駆動革命
1981年、アウディがラリーの世界に革命を引き起こした。エンジンをフロントかミドに置いて後輪を駆動するのが当然視されていたところに、四輪駆動を持ち込んだのである。5気筒ターボエンジンの320馬力というパワーを、リア2本ではなく、4本すべてのタイヤで受け止めようと考えたのだ。
当時は、四輪駆動車といえば軍用というのが一般的な理解であり、ハイパフォーマンスカーとは相いれないテクノロジーだと思われていた。しかし、勝利という事実が四輪駆動の戦闘力を証明する。第2戦のスウェディッシュラリーではハンヌ・ミッコラが独走で優勝。サンレモラリーではミシェル・ムートンに女性初のWRC優勝をもたらした。
フロントヘビーがもたらす極端なアンダーステアにドライバーは苦しめられたが、それを補って余りあるのが、パワーを確実に伝える駆動力だった。アンダーステアを克服する左足ブレーキのテクニックが考案されると、アウディ・クワトロは無敵の強さを誇るようになった。
1982年にはWRCの車両規定が変更され、レギュレーションが簡略化される。新たなトップカテゴリーのグループBでは、連続する12カ月に200台を製造すればホモロゲーションが取得できようになった。さらに、わずか20台製造するだけでエボリューションモデルのホモロゲーションを認める規定も設けられており、WRCは実質的に“何でもあり”のプロトタイプスポーツカーで争われるようになったのだ。ただし、この年は前規定のグループ4との混走で、アウディがマニュファクチャラーズタイトルを獲得している。
モンスター化するラリー専用マシン
1983年、本格的にグループBの時代がスタートした。この年の主役となったのは、ストラトス以来の“ラリースペシャル”として投入された「ランチア・ラリー(037)」である。後輪駆動ではあったが、市販車ベースのアウディ・クワトロに対し、037はラリー専用車だった。鋼管スペースフレーム製のシャシーにプラスチック製の前後パネルをかぶせ、スーパーチャージャーで強化したエンジンをミドに縦置きしていた。アウディの信頼性不足もあり、この年のマニュファクチャラーズタイトルはランチアが獲得する。これが、二輪駆動ラリーカーの最後の輝きだった。
翌1984年のシーズンでは、ランチアはターマックコースのツール・ド・コルスで1勝を挙げるのが精いっぱいだった。熟成を加えたアウディはパワーアップしたエンジンを擁し、快進撃を続けていく。しかし、アウディ・クワトロをも過去の遺物にしてしまうマシンが登場する。プジョー205ターボ16である。
形は1983年に発売された小型ハッチバック車の「プジョー205」に似ていたが、中身はまったくの別物だった。共通するのはウインドスクリーンとドアハンドルだけといわれたほどである。車体はモノコックと鋼管フレームを組み合わせたシャシーに、軽量なカーボンケブラーのボディーをのせたもの。FFの市販205とは駆動方式も違う。エンジンはミドに横置きされ、パワーは4輪に伝えられた。重量物をすべてホイールベース内側に集めたことが、優れたハンドリングをもたらす。フロントヘビーなアウディ・クワトロに比べ、重量配分で大きなアドバンテージを持っていたのである。
プジョー205ターボ16は、1985年のシーズンに11戦中7勝という強さを見せ、マニュファクチャラーズタイトルを獲得。シーズン後半からはより強力な「E2」を投入し、盤石の体制を築いた。アウディも指をくわえて見ていたわけではない。ボディーを小さくしたスポーツ・クワトロ、そしてエンジンを強化した「スポーツ・クワトロS1」で対抗した。パワー競争は500馬力を超えるレベルとなり、1t程度の軽量なボディーを押さえるために巨大なウイングが装着された。グループBの規定はコンペティターたちの闘争心を挑発し、マシンをモンスター化させていった。
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急激なハイパワー化が生んだ悲劇
熱狂の中で、暗い影が忍び寄っていた。ツール・ド・コルスで、ランチア・ラリーに乗っていたアッテリオ・ベッテガがクラッシュして死亡する。アルゼンチンラリーでは、アリ・バタネンがプジョー205ターボ16で事故を起こして大ケガを負った。急激なパワーの増大に、シャシーが追いついていないのは明らかだった。
そこに登場したのが、ランチア・デルタS4だった。ターボとスーパーチャージャーという、2つの過給機で武装したエンジンは強力なトルクを生み出し、カーボンケブラー製の軽量ボディーを強烈に加速させた。ミドシップ+過給エンジン+四輪駆動という新時代のラリーカーの方程式を、極限まで進めたマシンである。操縦性には難があったが、若き天才ヘンリ・トイボネンが絶妙なコントロールでポテンシャルを引き出した。この年最終戦のRACラリーでデビューウィンを飾り、ライバルの心胆を寒からしめた。
1986年は開幕戦でトイボネンのデルタS4が勝利し、次戦をユハ・カンクネンの205ターボ16が制した。2強の激突が話題となる中、第3戦のポルトガルラリーで悲劇が起きる。この年デビューしたばかりの「フォードRS200」が観客の中に飛び込み、3人が死亡する惨事を引き起こしてしまったのだ。安全性についての議論が沸騰する中、ツール・ド・コルスでトイボネンが事故を起こす。後続車に47秒ものリードを築きながらも攻め続け、タイトな左コーナーで転落して炎上した。この事故で、彼はコ・ドライバーとともに命を落とした。
FISA会長のジャン−マリー・バレストルは、即座に事態収拾に動く。事故の翌日、この年限りでグループBを廃止することを発表した。規制が取り去られたことによる疾風怒濤(どとう)の時代は、あっけなく幕を閉じることになった。翌年からはチャンピオンシップはグループAで争われることになり、WRCは新たな道を模索していくことになる。
デルタS4をドライブしたミキ・ビアシオンは、「エンジニアリング的に間違ったコンセプトだったと思う。競技での性能のみを追求し、安全面についてはまったく配慮していなかった」と語っている。ただ、彼は別の感想も述べている。
「強烈に魅惑的だったよ。僕に最も感動を与えてくれたラリーカーは、間違いなくS4だった。狂った馬を押さえつけるような感覚なんだ。ドライバーにとって支配する喜びは何物にも代えがたい」
グループBは、ドライバーとエンジニア、そして観客の欲望を解放した。しかし、その熱狂は危険と隣り合わせの危ういものだった。
(文=webCG/イラスト=日野浦 剛)
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鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。