国産初のガソリン自動車はタクリー号

エンジンは快調で10km/h以上のスピードで走行したが、思わぬトラブルが発生した。タイヤが変形して走行不能になってしまったのである。空気入りのタイヤを製造できる工場はなく、ゴムを固めただけのソリッドタイヤを鉄板製のリムにボルト留めしていたのだから無理もない。国産車第1号は、量産化されることなく姿を消した。

こうして、日本人による初の国産自動車製造のエピソードは幕を閉じるのだが、これと前後する形で、また違う人物が自動車産業への挑戦を始めていた。
1902年、自転車輸入を手がけていた双輪商会の社長吉田信太郎が仕入れのために渡米する。彼はニューヨークで行われていた第3回モーターショーに立ち寄り、日本にも近い将来自動車の時代がやってくると確信した。エンジンやトランスミッションなどの部品を購入して帰国し、オートモービル商会を設立してオートバイや自動車の輸入に乗り出す。ウラジオストックで自動車技術を学んでいた内山駒之助も合流し、自動車の製造を目指すことになった。

アメリカから持ち帰った部品を使い、内山は2台の自動車を製造する。自信を得た彼は、国産の部品でガソリン自動車を造ることを望んだ。そこに自動車好きで知られる有栖川宮威仁親王から開発を依頼される。機は熟したのだ。内山は1906年初頭から開発に着手し、1年以上かけて「国産吉田式自動車」を作り上げた。手本にしたのは、有栖川宮家が所有していた「ダラック」である。最高速度は16km/hで、ガタクリガタクリとのどかに走ったことから、「タクリー号」という愛称が付けられた。

エンジンは1837ccの水平対向2気筒で、出力は12馬力だった。模倣の域を出なかったものの、初めて日本人が自力で製造したガソリン自動車である。1号車は有栖川宮家に納入され、その後計10台が製作された。中には、トラックに仕立てたものもあったようだ。タクリー号が走ったのは1907年で、その翌年にはフォードが「T型」の生産を開始している。日本で自動車製造の方法を模索していた頃、アメリカではすでに大量生産の時代に入ろうとしていた。

まだフォードやGMといった巨大メーカーは存在していなかったが、20世紀初頭のアメリカではすでに自動車産業が花開きつつあった。写真は1901年に登場した「オールズ・モビル・カーブドダッシュ」。デビュー初年度425台、翌年には2000台が作られ、「世界初の量産車」と言われた。
まだフォードやGMといった巨大メーカーは存在していなかったが、20世紀初頭のアメリカではすでに自動車産業が花開きつつあった。写真は1901年に登場した「オールズ・モビル・カーブドダッシュ」。デビュー初年度425台、翌年には2000台が作られ、「世界初の量産車」と言われた。拡大
内山駒之助らが開発した「タクリー号」こと国産吉田式自動車。有栖川宮親王が所有していた「ダラック」を手本としたものだった。
内山駒之助らが開発した「タクリー号」こと国産吉田式自動車。有栖川宮親王が所有していた「ダラック」を手本としたものだった。拡大
「タクリー号」が初めて走った翌年、フォードは「T型」の生産を開始し、流れ作業による大量生産を確立した。
「タクリー号」が初めて走った翌年、フォードは「T型」の生産を開始し、流れ作業による大量生産を確立した。拡大
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