第27回:ロールス・ロイスとベントレー
激動の時代を生き抜いた2つの名門
2018.07.05
自動車ヒストリー
今も昔も、高級車の代名詞として語られるロールス・ロイスと、豪快かつ豪奢(ごうしゃ)なGTカーを世に送り出してきたベントレー。英国が生んだプレミアムブランドはどのようにして生まれ、今日に命脈をつないだのか。誕生の経緯と、その後の数奇なエピソードを紹介する。
赤旗法で自動車の進歩が止まったイギリス
貴族の子弟として生まれたチャールズ・スチュアート・ロールズは、1896年にパリへ旅行した折にプジョーを手に入れる。新しもの好きの学生だった彼は自動車の魅力にとりつかれたが、祖国イギリスでは満足に走らせることができなかった。1865年に施行された赤旗法のせいである。蒸気自動車の普及に恐れをなした馬車業者が行政府に圧力をかけ、自動車に不利な規定を定めさせたのだ。赤旗を持った人間がクルマの前を歩いて危険を知らせなければならず、スピード制限も設けられた。
自動車の未来に希望を抱いていたロールズは、仲間とともに赤旗法撤廃に向けて運動を起こす。制限速度を無視し、ロンドン市内をハイスピードで走り回った。わざと捕まって、裁判で赤旗法の不条理を訴えようとしたのである。しかし、上流階級の彼らを拘束すれば面倒なことになるため、警官は見て見ぬふりをした。それでもさすがにこのばかばかしい法律は1896年に廃止され、ロールズは大手を振ってクルマを走らせることができるようになったのである。
彼はヨーロッパ各国のレースに出場するようになり、本国にもモータースポーツの団体を設立する。また、親友のクロード・ジョンソンとともにC.S.Rolls & Co.を創立し、プジョーやミネルヴァなどの自動車の輸入販売を手がけるようになった。好きなことを仕事にできたのは喜ばしいが、ロールズには大きな不満があった。レースに出場するクルマも、売るクルマも、英国車ではないということだ。赤旗法の時代にイギリスは自動車の進歩から取り残され、フランスやドイツに後れを取ってしまっていた。
そこに、希望の光を見せてくれる人物が現れた。フレデリック・ヘンリー・ロイスである。ロールズとは対照的に貧しい粉ひきの息子として生まれた彼は、苦学の末に電気製品の会社を興し、事業を成功させていた。
先進的な設計思想で高品質なモデルを開発
ロイスは自動車の将来性に目をつけ、フランスのドコーヴィルを購入して最新の技術を学ぼうとする。しかし、彼が感じたのは失望だった。振動の激しさとコントロール性の悪さは、精密な電気製品を開発してきた彼にとって我慢のならないものだった。
ドコーヴィルを参考にしながらも徹底的に設計を洗い直し、1904年にロイスは水冷直列2気筒エンジンを搭載した「10HP」を完成させる。気化器と点火装置に工夫をこらしたこの試作車は、類のないスムーズさと静かさで人々を驚かせた。設計自体は平凡なものだったが、良質な材料を用いて工作精度を高めたことで飛躍的に品質を高めたのだ。完璧を求めてクオリティーを徹底的に追求するロールス・ロイスの考え方は、すでにこの時から芽生えていた。
画期的な試作車のうわさを聞きつけたロールズはロイスと会い、2人が自動車の未来に関するビジョンを共有していることを感じ取った。すぐに独占販売を申し入れ、1904年12月に契約が結ばれる。ロイスは3気筒、4気筒、6気筒車を設計し、車名は2人の頭文字をハイフンで結んだものとすることが定められた。開発には時間がかかるかと思われたが、ロイスは瞬く間に3種のエンジンを作り上げ、1905年中にV型8気筒エンジンを搭載したモデルまで試作した。
驚異的な速さで開発できたのは、どのエンジンにも同じシリンダーブロックを使ったからだ。2気筒ずつ鋳造し、6気筒の場合はそれを3個並べる。今で言うモジュール構造の考え方で、ロイスが非常に合理的で先進的な設計思想を持っていたことがわかる。
試作車はパリサロンに出品され、フランスの自動車業者に大きな衝撃を与えた。“自動車後進国”イギリスから、今までトップを走っていたフランスの製品をはるかに上回る品質の自動車が持ち込まれたのである。多くの受注を獲得し、1906年3月には正式にRolls-Royce Limitedが発足した。
戦場で高い信頼性が評価される
ロールス・ロイスはモータースポーツに積極的に取り組み、好成績をあげて声望を高めた。ロールズ自身がステアリングを握り、高性能をアピールしたのである。1906年11月のロンドン・オリンピア・ショーでデビューした新しい6気筒モデルの「40/50HP」では、耐久性を証明するために過酷なロングランに取り組んだ。グラスゴー-ロンドン間をノンストップで1万5000km走行し、その後シャシーとエンジンを分解して摩耗度を調べるというものである。
燃料コックの不具合で走行距離は1万4371kmにとどまったものの、これはシドレーが持っていたそれまでの記録の約2倍にあたる。分解してみると摩耗はステアリングホイールまわりにわずかに発見されただけで、必要な交換部品は2ポンド2シリング相当にとどまった。
このトライアルを行ったモデルはボディーが銀色に塗装され、“Silver Ghost”というプレートが取り付けられていた。静粛性とスムーズさを見せつけたことで人気が高まり、音もなく滑るように走るイメージを正確に表した「シルバーゴースト」の名は正式名称になった。ロールス・ロイスは、これ以降15年ほどの間はシルバーゴーストのみを生産した。
間もなく第1次世界大戦が始まり、シルバーゴーストは装甲をまとって戦地で活躍することになる。信頼性の高さは戦場では何よりも大きな意味を持ち、悪路をものともしない頑丈さが高い評価を受けた。アラビア半島で砂漠を駆け抜ける姿に感銘を受けたトーマス・エドワード・ロレンスは、後に欲しいものを問われて「シルバーゴースト、それに一生乗れるだけのタイヤを添えて」と答えたといわれる。
レースで名を上げたベントレーを傘下に
赤旗法が撤廃されて以降、イギリスでは急速にモータースポーツが発展した。1907年には世界初の常設サーキットであるブルックランズが完成している。裕福な家庭の子弟にとって、自動車のスピードは何よりの楽しみだった。ウォルター・オーウェン・ベントレーもその一人である。少年時代から機械好きだった彼は、自動車会社でエンジニアとして働いた後に第1次世界大戦に参戦し、海軍航空隊で航空エンジンの改良に携わる。戦争が終わると、彼は自ら自動車会社を創立した。
最初に作ったのは3リッター直列4気筒エンジンを搭載したモデルで、SOHCヘッドにツインプラグを備え、最高出力は70馬力だった。ベントレーはクルマを完成させると、早速レースに取り組んだ。1922年にはワークスチームのベントレー・ボーイズが結成される。参加したのは、いずれも裕福な家庭で育った若者である。1923年に始まったルマン24時間レースに参加し、5位の成績を残す。翌年には初優勝を果たし、1927年から1930年にかけては4連勝して圧倒的な強さを見せつけた。
栄光の道を歩んでいるかに見えたが、会社の経営は危機に陥っていた。レースで勝利するためにオーバークオリティーな製品を作っていたため、販売しても利益は薄かったのだ。1931年、ベントレーは破綻し、ロールス・ロイスの傘下に収まることになった。これにより、ベントレーはロールス・ロイスのチューンドバージョンという性格を持つことになる。同じエンジンを搭載したモデルでも、ベントレー版の方が最高速度は上回っていた。
たもとを分かち、新しい出発を迎える
第2次大戦後になると、この図式に変化が表れる。両ブランドの性能差はなくなり、ボンネットの先端に付くのが「スピリット・オブ・エクスタシー」か「ウィングドB」かという点以外に違いが見つかりにくくなっていったのだ。
キャラクターが曖昧になったことが、顧客離れを招く。超高級車の存在意義が社会の変動とともに変わっていったこともあり、ロールス・ロイスの経営基盤は揺らいでいった。1973年にはロールス・ロイスの自動車部門がヴィッカーズ社に売却され、1998年にはさらに新たな買収騒ぎが持ち上がる。BMWとフォルクスワーゲンの間で争奪戦が繰り広げられ、最終的にはロールス・ロイスがBMW、ベントレーがフォルクスワーゲンの傘下となった。
図らずもドイツの自動車メーカー2社がブランドを分け合うことになったが、結果的にはこれがプラスに働いた。ロールス・ロイスは2003年に新型「ファントム」を発売し、高級サルーンの伝統を継いだ。同じ年にベントレーは「コンチネンタルGT」を発売し、スポーティーなクーペという出自に新たな意匠をまとった。さらにはルマン24時間レースに出場して優勝を勝ち取っている。
ドイツの資本が入っても、ロールス・ロイスとベントレーの魂は受け継がれた。最近では、ロールス・ロイスが「カリナン」、ベントレーが「ベンテイガ」というプレミアムSUVを発売し、最新のトレンドを取り入れている。確固とした思想の裏付けがあるブランドは、時を超えた力を持っているのだ。
(文=webCG/イラスト=日野浦 剛)
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鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。