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第39回:進撃のシルバーアロー
グランプリで磨かれた技術力

2018.12.20 自動車ヒストリー 戦前のグランプリを席巻した銀色のレーシングカー「シルバーアロー」。一連のマシンを輩出したメルセデス・ベンツは、どのようにしてサーキットを席巻するにいたったのか。1906年から始まる挑戦の歴史を、数々のエピソードとともに振り返る。

ライバルだったダイムラーとベンツ

グランプリの名が付くレースが初めて行われたのは、1906年である。フランス自動車クラブ(ACF)が主催し、ルマンの公道を閉鎖してつくったコースでスピードが競われた。レギュレーションでは、工具や照明装置などを除いた重量が1000kgまでとされたが、7kgまでの点火装置を追加することは許されている。

参加したのは、フランス10、イタリア2、ドイツ1の合計13チーム。ドイツからエントリーしたのはダイムラー社のメルセデスだった。ガソリン自動車が誕生してから20年、その間に目覚ましい技術の進歩があり、優勝したルノーの平均速度は100km/hに達していた。

メルセデスが初めて優勝したのは1908年。この年のレギュレーションは車重が1100kg、ピストンの表面積が合計755平方センチメートル以下というものだった。4気筒であれば、ボアを155mmまでに収めなければならない計算になる。排気量を上げるためには、ストロークを伸ばすしかない。ダイムラーは170mmのストロークを持つ12.78リッター直4 OHVエンジンを開発した。最高出力の130馬力は1500回転で発生する。当時のエンジンは現代からすると超低回転型だった。

2位と3位に入ったのは、この年から参加したベンツである。2社が合併してダイムラー・ベンツになるのは1926年のことで、当時はライバル同士だった。ベンツが採用したのは、ストロークが160mmの12.06リッター直4 OHVエンジンである。

1914年からはレギュレーションの条件がピストンの表面積から排気量に変わる。4500ccまでとされたこの年のグランプリは、メルセデスが圧倒的に強く、ほとんどのレースを制した。115馬力の直4 SOHC 16バルブエンジンの戦闘力に加え、先進的なウエッジシェイプのボディーが強さの秘密だった。

1906年に開催された第1回フランスグランプリの様子。2日間にわたり、総計1236kmの距離で競われた。
1906年に開催された第1回フランスグランプリの様子。2日間にわたり、総計1236kmの距離で競われた。拡大
1万2986ccの直4エンジンを搭載したルノーのレーシングカー「AK90CV」。第1回フランスグランプリでは、同車に乗るフェレンク・シジズが優勝した。
1万2986ccの直4エンジンを搭載したルノーのレーシングカー「AK90CV」。第1回フランスグランプリでは、同車に乗るフェレンク・シジズが優勝した。拡大
1908年のフランスグランプリは、7月7日にディエップの近郊で行われ、「メルセデス140hp」の35号車に乗る、クリスチャン・ローテンシュラッガーが優勝した。
1908年のフランスグランプリは、7月7日にディエップの近郊で行われ、「メルセデス140hp」の35号車に乗る、クリスチャン・ローテンシュラッガーが優勝した。拡大
1914年のフランスグランプリにて、クリスチャン・ローテンシュラッガーが運転するメルセデスのレーシングカー。同レースではローテンシュラッガーが1位となり、また3位までをメルセデスが独占した。
1914年のフランスグランプリにて、クリスチャン・ローテンシュラッガーが運転するメルセデスのレーシングカー。同レースではローテンシュラッガーが1位となり、また3位までをメルセデスが独占した。拡大
メルセデス・ベンツ の中古車

新レギュレーションでレース戦略が変化

第1次世界大戦が始まり、1915年から1920年まではグランプリは行われていない。1921年に再開された時のレギュレーションは、車重800kg、排気量3000cc以下というもの。翌年はさらに厳しくなり、650kg、2000ccという規定となる。10リッター以上の巨大なエンジンを搭載していた頃とは様変わりした。第1次世界大戦では航空機が兵器として重要な役割を果たすようになり、空気の薄い高空でも出力が落ちないようにするための過給技術が発展した。自動車にも応用され、小さな排気量でもハイパワーを出せるようになったのである。

ひたすら出力だけを追い求めてエンジンを巨大化する時代は終わり、グランプリで勝つためには総合力を高めることが必要となった。軽量化やサスペンションの強化で操縦性を向上させることが重要になったのである。レース戦略が高度化し、タイヤや燃料を消耗させないことが勝利の鍵となっていった。

ベンツは1923年に風変わりな形のマシンをレースに投入する。水滴形ボディーの「トロップフェンヴァーゲン」だ。2リッター直6 DOHCエンジンを搭載したミドシップのマシンで、サスペンションは四輪独立懸架である。革新的なマシンだったが、過給装置を持たないエンジンの出力は90馬力にすぎず、レースでは活躍できなかった。

その頃、ダイムラー社の技術部長に就任したのが、フェルディナント・ポルシェ博士である。彼は手始めに前任者のパウロ・ダイムラーが残した2リッター直4エンジンの改良に取り組む。スーパーチャージャーによる過給は、当時最先端の技術的課題だった。ポルシェ博士は2リッター直8 DOHCエンジンも開発している。1気筒あたり4バルブの先進的な設計が特徴で、6000回転で160馬力という高回転型だった。

1926年にはグランプリのレギュレーションはさらに厳しさを増し、車重600kg、排気量1500cと定められた。マシンの速度を抑えて安全性を確保するための改定だったが、自動車メーカーの反発は大きく、ACFとは無関係なフォーミュラ・リブレのレースが行われるようになる。

1923年にベンツが投入した「トロップフェンヴァーゲン」。空力を考慮したボディー形状やスイングアクスル式のサスペンションが採用されるなど、意欲的なレーシングカーとなっていた。
1923年にベンツが投入した「トロップフェンヴァーゲン」。空力を考慮したボディー形状やスイングアクスル式のサスペンションが採用されるなど、意欲的なレーシングカーとなっていた。拡大
1923年に開かれたベルリンでの自動車ショーにて、ベンツのブースに展示された「トロップフェンヴァーゲン」。
1923年に開かれたベルリンでの自動車ショーにて、ベンツのブースに展示された「トロップフェンヴァーゲン」。拡大
1923年9月9日にモンツァで開催されたヨーロッパグランプリの様子。このレースでベンツの「トロップフェンヴァーゲン」は4位と5位に入った。
1923年9月9日にモンツァで開催されたヨーロッパグランプリの様子。このレースでベンツの「トロップフェンヴァーゲン」は4位と5位に入った。拡大
「フォルクスワーゲン」の生みの親であるフェルディナンド・ポルシェ。1906年から1928年までダイムラーおよびダイムラー・ベンツに在籍し、レーシングカーやスポーツカー、航空機用エンジンなどの開発を主導した。
「フォルクスワーゲン」の生みの親であるフェルディナンド・ポルシェ。1906年から1928年までダイムラーおよびダイムラー・ベンツに在籍し、レーシングカーやスポーツカー、航空機用エンジンなどの開発を主導した。拡大

華々しい戦績を挙げた「アルファ・ロメオP2」

合併によってメルセデス・ベンツとなったチームでは、ポルシェが開発した6.8リッターエンジンを搭載したマシンが活躍する。「ホワイトエレファント」と呼ばれた「S」で、名ドライバーのルドルフ・カラチオラによって数々の勝利を得た。1928年には7リッターの「SS」と「SSK」も登場するが、ポルシェ博士はこの年でダイムラー・ベンツ社を去った。

グランプリを含むヨーロッパのレースでは、アルファ・ロメオとマセラティが勢力を伸ばしていた。アルファ・ロメオではヴィットリオ・ヤーノが設計した「P2」が華々しい戦績を挙げ、マセラティの「ティーポ26」も高い戦闘力を誇った。ブガッティも「タイプ35B」「タイプ51」でグランプリの最前線に躍り出た。

1931年から1933年のグランプリレースは、車重や排気量に制限のないフリーフォーミュラとなる。7リッターエンジンの重量級メルセデスと2リッターエンジンのアルファ・ロメオが同じレースで走ったこともあった。そんな中、アルファ・ロメオは1932年に「P3」を投入する。2654ccのエンジンは最高出力215馬力を発生し、軽量なボディーのおかげで優れた操縦性も備えていた。

1934年からは、さらに新しいレギュレーションが適用されることになった。排気量は無制限だが、車重は750kg以下、ボディーの幅は85cm以下とされた。アルファ・ロメオP3やブガッティ・タイプ51は、この規定内に収まっている。大きくて重いメルセデスのSSKは出走不可能で、新しいマシンを開発する必要に迫られた。

750kgという車重は、当時の大型スポーツカーの約半分である。重量制限によって排気量は2.5リッター程度に抑えられると主催者は考えていた。マシンの性能が上がって最高速度が240km/hに達するようになり、パワー競争を放置すれば重大な事故が起こりかねない。スピード抑制のために策定されたレギュレーションだったが、思惑は外れた。技術の進歩は主催者の見通しをはるかに上回っていたのだ。

1928年7月15日にニュルブルクリンクで開かれたドイツグランプリの様子。フェルディナンド・ポルシェ(前列左)やルドルフ・カラチオラ(後列右から3番目)、アルフレッド・ノイバウアー(後列右)らが写っている。
1928年7月15日にニュルブルクリンクで開かれたドイツグランプリの様子。フェルディナンド・ポルシェ(前列左)やルドルフ・カラチオラ(後列右から3番目)、アルフレッド・ノイバウアー(後列右)らが写っている。拡大
鬼才ヴィットリオ・ヤーノがアルファ・ロメオで初めて手がけたレーシングカー「P2」。デビューレースでいきなり優勝を果たし、1920年代のアルファ・ロメオ黄金時代を支えた。
鬼才ヴィットリオ・ヤーノがアルファ・ロメオで初めて手がけたレーシングカー「P2」。デビューレースでいきなり優勝を果たし、1920年代のアルファ・ロメオ黄金時代を支えた。拡大
高い運動性能を武器にアルファ・ロメオとしのぎを削ったブガッティの「タイプ35」シリーズ。「35B」はスーパーチャージャーを搭載した高性能モデルで、1924年から1930年まで造られた。
高い運動性能を武器にアルファ・ロメオとしのぎを削ったブガッティの「タイプ35」シリーズ。「35B」はスーパーチャージャーを搭載した高性能モデルで、1924年から1930年まで造られた。拡大
「タイプ35」の後継モデルとしてブガッティが投入した「タイプ51」。
「タイプ35」の後継モデルとしてブガッティが投入した「タイプ51」。拡大

勢力図に変化をもたらした大恐慌

1934年のシーズンに登場したマシンは、どれも2.5リッターを超える排気量のエンジンを搭載していた。アルファ・ロメオは2.9リッター、ブガッティは3.3リッターである。開幕当初はアルファ・ロメオP3が強さを発揮する。シャシーセッティングは熟成の域に達し、操縦性能の高さがレースでの速さにつながった。しかし、P3は次第に勝てなくなっていく。1929年の大恐慌は自動車メーカーに打撃を与え、アルファ・ロメオは1933年から国の管理下に移っていた。レースのために使える予算は限られている。

これに対し、ドイツでは比較的順調に経済が復興していった。政権を握ったヒトラーは一元的な統治機構を確立し、強力な経済政策を推し進めていた。またヒトラーは、グランプリが国威発揚の格好の舞台になると考えた。ドイツ車が優勝すれば、国力の豊かさを世界に向けて顕示することができる。最も優れた成績を上げたチームに対し、50万マルクの賞金を与えることが発表された。ダイムラー・ベンツはレース活動を停止していたが、750kgフォーミュラ制覇に向けてひそかにニューマシンの開発に着手する。

1933年末、ヒトラーはゲッベルス宣伝相を伴ってシュトゥットガルトの工場を視察に訪れている。強い期待の表れだろう。ダイムラー・ベンツが用意したのは、完全に新設計の「W25」である。前輪ウイッシュボーン、後輪スイングアクスルの四輪独立懸架で、ギアボックスをディファレンシャルと一体化して後方に置くトランスアクスルを採用していた。エンジンは3360cc直8 DOHC 32バルブで、最高出力は354馬力に達した。

デビュー戦となったのは、6月3日にニュルブルクリンクで行われた国際アイフェルレンネンである。サーキットにマシンが持ち込まれたのは5月27日で、急ピッチで最終調整が進められた。前日になってセッティングが完了したものの、重大な問題が発覚する。計量器に載せると、メーターの針は751kgを示したのだ。1kgでもオーバーすれば、レース出場はかなわない。精密に計算して組み立てられているので、今からパーツを取り外すのは不可能だ。

1932年にグランプリに投入された「アルファ・ロメオP3」。当初は高い競争力を発揮したが、急成長するドイツ勢を相手に、次第に劣勢に立たされるようになる。
1932年にグランプリに投入された「アルファ・ロメオP3」。当初は高い競争力を発揮したが、急成長するドイツ勢を相手に、次第に劣勢に立たされるようになる。拡大
1933年にドイツ首相に就任したヒトラーは、国威発揚のためにモータースポーツを利用することを考え、グランプリレースに巨額の賞金をかけた。
1933年にドイツ首相に就任したヒトラーは、国威発揚のためにモータースポーツを利用することを考え、グランプリレースに巨額の賞金をかけた。拡大
ダイムラー・ベンツがグランプリに投入したレーシングカー「メルセデス・ベンツW25」。エンジンの出力向上をはじめとした改良が重ねられ、1934年から1937年にかけて活躍した。写真は1934年の国際アイフェルレンネンにおける、ルイジ・ファジオーリの車両。
ダイムラー・ベンツがグランプリに投入したレーシングカー「メルセデス・ベンツW25」。エンジンの出力向上をはじめとした改良が重ねられ、1934年から1937年にかけて活躍した。写真は1934年の国際アイフェルレンネンにおける、ルイジ・ファジオーリの車両。拡大
1934年の国際アイフェルレンネンの様子。
1934年の国際アイフェルレンネンの様子。拡大

奇想天外な方法で1kg軽量化

窮地に陥ったチーム監督のアルフレッド・ノイバウアーは、奇想天外な方法を思いつく。塗装をすべて剝ぎ取れば、1kgの軽量化が可能だと考えたのだ。当時のレーシングカーはナショナルカラーに塗られており、ドイツ車は真っ白なボディーカラーだった。メカニックたちは徹夜で塗装を落とし、朝になってもう一度計量すると針はぴったり750kgを示した。

レースではそれまでのコースレコードを更新し、圧倒的な走りで優勝。銀色に輝くボディーは強い印象を残し、メルセデス・ベンツのマシンには「シルバーアロー」の異名が付けられた。

このレースで2位に入ったのは、ポルシェ博士が設計した「アウトウニオンPヴァーゲン」だった。295馬力の4358cc V16エンジンを搭載するマシンである。メルセデス・ベンツとアウトウニオンが飛び抜けた性能を誇り、グランプリは2強が激突する展開となる。アウトウニオンもシルバーのボディーカラーを採用し、「シルバーフィッシュ」と呼ばれるようになった。

ダイムラー・ベンツのエンジニアは休むことなくW25に改良を加え、性能は飛躍的に向上していく。750kgフォーミュラ最後となった1937年には、新マシンの「W125」が投入された。レギュレーションの中で最高の性能を引き出した完成形である。エンジンの排気量は5660ccまで拡大され、最高出力は646馬力となっていた。最高速度は350km/hを優に超えていたといわれる。

ヒトラーがドイツ勢の進撃をゲルマン民族の優位性の宣伝に利用したのは事実である。ただ、それは一概にダイムラー・ベンツやアウトウニオンがナチスのために働いたことを意味するわけではない。彼らは政権からの補助金をはるかにしのぐ巨額の資金をレースに注ぎ込んでいた。

ダイムラー・ベンツが初年度に用意したのは250万マルクで、その後も毎年それ以上の額がチームのために費やされる。グランプリに勝利して技術力を証明することがエンジニアの願いだった。不幸にも第2次世界大戦でグランプリは終了するが、スキルとノウハウは継承される。ドイツの自動車産業が戦後目覚ましい復活を遂げることができたのは、グランプリで培われた技術のおかげなのだ。

(文=webCG/イラスト=日野浦 剛)

1kgの軽量化を図るために塗装が剥ぎ取られた「メルセデス・ベンツW25」。後にグランプリを席巻した銀色のマシンは、「シルバーアロー」と呼ばれた。
1kgの軽量化を図るために塗装が剥ぎ取られた「メルセデス・ベンツW25」。後にグランプリを席巻した銀色のマシンは、「シルバーアロー」と呼ばれた。拡大
長年にわたりダイムラー・ベンツのレーシングチームを指揮したアルフレッド・ノイバウアー(左)。レース中、ドライバーとの意思疎通を図るため、ピットサインを考案したことでも知られる。写真は1938年のもの。
長年にわたりダイムラー・ベンツのレーシングチームを指揮したアルフレッド・ノイバウアー(左)。レース中、ドライバーとの意思疎通を図るため、ピットサインを考案したことでも知られる。写真は1938年のもの。拡大
「タイプA」から「タイプD」までつくられた「アウトウニオンPヴァーゲン」。ミドシップのエンジンレイアウトが特徴で、「シルバーフィッシュ」とも、メルセデス・ベンツともども「シルバーアロー」とも呼ばれた。写真は1394年の「タイプA」。
「タイプA」から「タイプD」までつくられた「アウトウニオンPヴァーゲン」。ミドシップのエンジンレイアウトが特徴で、「シルバーフィッシュ」とも、メルセデス・ベンツともども「シルバーアロー」とも呼ばれた。写真は1394年の「タイプA」。拡大
1937年のスイスグランプリにて、白熱したレースを繰り広げる「メルセデス・ベンツW125」と「アウトウニオン・タイプC」。ダイムラー・ベンツとアウトウニオンの戦いは、第2次世界大戦がぼっ発する1939年まで続いた。
1937年のスイスグランプリにて、白熱したレースを繰り広げる「メルセデス・ベンツW125」と「アウトウニオン・タイプC」。ダイムラー・ベンツとアウトウニオンの戦いは、第2次世界大戦がぼっ発する1939年まで続いた。拡大
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