第43回:フォード・コスワースDFV
F1最多勝の“汎用エンジン”
2019.02.21
自動車ヒストリー
世界最高峰のレース、F1の歴史において、通算154勝という記録を打ち立てた名機「コスワースDFV」。モータースポーツ史にさん然と輝くこのエンジンは、どのような経緯で誕生したのか? その輝かしい歴史を、あまたのプライベーターのエピソードとともに紹介する。
F1の規定変更が生んだ傑作
2019年のF1は10チーム20台で争われ、使用されるパワーユニットは4種類。メルセデスとフェラーリをそれぞれ3チーム、ルノーとホンダをそれぞれ2チームが選んだ。シャシーの空力特性やサスペンションの出来栄えに加え、どのパワーユニットを搭載するかが勝負の行方を左右する。今ではそれが当たり前だが、かつてはエンジンに選択の余地がほとんどない時代があった。たった1種類のエンジンが、グランプリを支配していたのである。
1960年代から1980年代にかけ、F1を席巻したのがフォード・コスワースDFVだ。通算154勝(改良型のDFYも含めると155勝)という驚異的な成績を残し、9人のドライバーに12回の年間チャンピオンをもたらしている。電子制御や材料・加工の水準などを除けば、最先端のエンジンと比べても見劣りしない。DFVは近代レーシングエンジンの完成形ともいえるものだった。
誕生にはF1のエンジン規定の変更が関わっている。1961年より1.5リッターまでに制限されていた排気量が、1966年から倍の3リッターに拡大されたのだ(過給器付きエンジンの排気量の上限は1.5リッター)。新エンジンの調達には各チームが苦戦し、間に合わせのような対応を取らざるを得なかったケースも多い。ロータスは8気筒ボクサーエンジンを2段重ねにしたBRMのH型16気筒エンジンを採用したものの、重い上に信頼性に難があった。
ロータスのコーリン・チャップマンは、新興のレーシングエンジンビルダーであるコスワースに、3リッターエンジンの製作を依頼する。彼らは直列4気筒1.6リッターのFVAエンジンを持っており、それを組み合わせたV8エンジンを開発する構想を持っていた。「Double Four Valve」と呼ばれるもので、DFVとはその頭文字である。ただ、コスワースにはエンジン開発のための資金が不足していた。費用を提供したのは、「ロータス・コルチナ」の受託生産で縁のあったフォードである。資金面での懸念がなくなって開発は順調に進み、新エンジンはフォード・コスワースDFVの名で呼ばれることになった。
「ロータス49」がデビュー戦で勝利
DFVの開発と並行して、ロータスは新型マシンの製作を進めていた。葉巻型ミドシップマシンの名機とされる「49」である。バスタブ式モノコックのミドにDFVを搭載し、バランスのとれたマシンに仕上がっていた。エンジンを構造部材としても利用する設計である。「ホンダRA271」や「ロータス43」で採用された最新のテクノロジーだった。
DFVを独占使用するロータス49のデビュー戦となったのは、1967年の第3戦オランダGPである。開発ドライバーを務めていたグラハム・ヒルは新マシンを見事に乗りこなしてポールポジションを獲得。一方、チームメイトのジム・クラークはサスペンショントラブルに悩まされ、8位にとどまった。決勝ではヒルの乗ったマシンにタイミングギアのトラブルが発生してリタイアするが、調子を取り戻したクラークが素晴らしい走りを見せて優勝を勝ち取った。DFVは初戦から高いポテンシャルを見せつけたのである。
この年、ロータス49とコスワースDFVは第3戦から最終戦まですべてのレースでポールポジションを獲得している。決勝ではトラブルに悩まされて4勝にとどまったが、DFVの優秀性は明らかだった。フェラーリやホンダのV12エンジンはパワーではDFVを上回っていたものの、重量や大きさの面での不利は否定できない。ドライバーにとっても、ピークパワーより低回転からトルクを生み出すことを重視したDFVのほうが使いやすかった。トータルのバランスに優れたDFVは、3リッター時代のF1にフィットしたのだ。
DFVの採用で、ロータスのアドバンテージは強固なものとなった。しかし、フォードは翌年から、このエンジンを他のチームにも販売することを決定する。他のエンジンとの差は明らかで、ロータスが独占するとレースが成り立たなくなってしまう恐れさえあったのだ。後に名門として名をはせることになるマクラーレンに加え、ケン・ティレルもDFVを購入し、マトラから参戦することを決めた。
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市販化で多くのコンストラクターが採用
1968年の開幕戦南アフリカGPではクラークとヒルがワンツーフィニッシュを決め、熟成を重ねたロータスはまだ優位性を保っているように見えた。しかしその直後、クラークが事故で命を落としてしまう。ヒルが第2戦、第3戦と連勝した後、第4戦ではDFVを導入したマクラーレンが勝利を収めた。この年はロータスとヒルがコンストラクターとドライバーのタイトルを手にしたが、マクラーレンが4勝しマトラも3勝している。自社製のエンジンを搭載するフェラーリがフランスGPで一矢を報いただけで、12戦のうち11勝はDFVユーザーで占められた。
1968年から1974年までの7年間、コンストラクターズタイトルを獲得したチームはいずれもDFVのユーザーであり、ドライバーズタイトルに輝いたドライバーは皆DFVのマシンに乗っていた。ホンダはF1を去り、フェラーリ対DFVユーザーという構図が固まっていった。小規模なチームでも、安価なDFVを購入して市販のシャシーと組み合わせればレースに出られるようになったのだ。スポット参戦も含めて数多くのコンストラクターがF1に挑むようになり、日本からも1974年にマキレーシングが参戦している。
V12エンジンに比べてV8のDFVはメンテナンス性に優れており、わずかな人数のメカニックでも扱うことができた。プライベートチームにとっては、部品の互換性が高いことも重要である。シリンダーヘッドは両バンクで共通のものが使われており、ピストンやコンロッドはFVAエンジンのパーツを流用することができた。レーシングエンジンは性能に特化してギリギリのラインで設計されるものだが、DFVは量産効果を出せる工業製品という性格をも有していた。汎用(はんよう)品だからこそ、使い勝手がよかったのだ。
DFVはペントルーフ型燃焼室を備える自然吸気のDOHC 4バルブV8エンジンで、バンク角は90度。カムシャフトはギアで駆動する。シリンダー内のタンブル流を巧みにコントロールし、高圧縮化と相まって高出力と低燃費を両立させることに成功した。2993ccの排気量から、当初は400馬力、後期には500馬力以上を絞り出している。重量は150kg程度と軽く、コンパクトな形状でどんなマシンにも合わせやすい。クランクケースの底部はハシゴ状になっていて、高い剛性を確保していることから構造材としても優秀だった。
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覇権を脅かしたターボパワー
DFVの覇権を脅かしたのは、ルノーが持ち込んだV6ターボエンジンだった。初参戦の1977年から2年間は芳しい結果を残せなかったが、1979年のフランスGPで初優勝を果たす。1981年には3勝を挙げてコンストラクター4位となり、DFVユーザー以外では唯一気を吐いた。ターボエンジンはピークパワーに至るまで時間がかかるターボラグと呼ばれる現象があり、レースでは不利だとされてきた。ルノーは弱点を克服してターボエンジンの可能性を広げたのだ。
1981年からはフェラーリもV6ターボを投入し、翌1982年にはコンストラクターズタイトルを獲得する。同じ年、BMWもターボエンジンの供給を開始。1983年にはホンダとポルシェがエンジンメーカーとして復帰し、どちらもターボを選択していた。この年は16戦中13戦でターボエンジン搭載車が優勝する。DFVの勝利は、モナコGPでのケケ・ロズベルグが最後となった。第7戦のデトロイトGPではティレルのミケーレ・アルボレートがショートストローク仕様のDFYで勝利するが、時代はすでにターボエンジンのものだった。
1987年から3.5リッター化されたことに対応して改良されたDFZも、栄光を取り戻すことはできなかった。F1は高いレベルでターボテクノロジーが競われる場となり、1980年代後半にはホンダパワーが覇権を握ることになる。それでも、DFVは消え去ったわけではなかった。F1の直下のカテゴリーとしてF3000が創設され、活躍の場が与えられたのだ。
もともと基本性能の高いエンジンであり、各チームがチューニングに工夫をこらす余地が多く残されていた。ブロック以外はほとんど別物というほどの徹底した改良を施した例も多い。中でも画期的だったのは、ヤマハが1987年にデビューさせたOX77である。シリンダーヘッドを5バルブ化し、ピストンとコンロッドは新造した。吸排気効率を高めたこのエンジンを搭載したマシンで、鈴木亜久里が1988年の全日本F3000選手権のチャンピオンに輝いている。
現在のF1ではパワーユニットにエネルギー回生システムが導入されており、極めて複雑な制御が必要となっている。大規模な開発部隊を持っていなければ、とても参入はかなわない。DFVを買えばF1にチャレンジすることができた1970年代から1980年代は、F1の民主化が進んだ奇跡の時代だった。
(文=webCG/イラスト=日野浦 剛)
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鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。