第702回:シトロエンの「SM」や「CX」はどんな発想で生まれたのか? カーデザイナー、ロベール・オプロンをしのぶ
2021.04.15 マッキナ あらモーダ!SMとCXの創造主
シトロエンの「SM」や「CX」などのデザインを手がけたロベール・オプロン氏が2021年3月29日、パリ郊外のアントニーで新型コロナ感染症のため死去した。89歳だった。
オプロン氏は1932年、フランス北部のアミアンに生まれた。軍人だった父親の関係で少年期はコート・ジボワールで育ち、その後は故郷のアミアンおよびパリの美術学校で聴講生として学んだ。
北部航空機製造公社(SNCAN)の設計部門で職業人としての第一歩を記したあと、自動車メーカーのシムカを経て、家電ブランドのアーサー・マルタンでデザインダイレクターとして働いた。
シトロエンには1962年9月、まず嘱託として採用され、同社のデザイン部門を率いていたフラミニオ・ベルトーニ(1903~1964年)のアシスタントとなる。
ベルトーニの急逝後、後任としてデザイン責任者に就任したオプロン氏は、「アミ8」と「GS」、そしてSMとCXのデザイン開発を主導した。
筆者が知る仏・伊の自動車デザイン関係者によれば、当時のオプロン氏は「口ひげ」とともに「ちょうネクタイ」がシンボルであった。
1975年にはルノーに移籍。「フエゴ」「25」などのデザインに携わる傍らで、当時同社の傘下にあった米国AMCの先行デザイン開発室の立ち上げに参画した。
続いて1986年からはフィアットのデザイン開発室を主導。その間を代表する仕事として「アルファ・ロメオSZ」がある。
1991年にはオプロン・コンサルタントを立ち上げてフリーランス活動を開始。2000年には、オトモビル・リジェのマイクロカー「ビーアップ」の開発計画にジウジアーロ・デザインなどとともに参加した。
オプロン氏が息を引き取ったのは、長年にわたって住居となっていたアントニー市内にある病院だった。
オプロン氏と親しかった知人が筆者に伝えたところによれば、新型コロナによる死去だったため、葬儀の規模は極めて限られたものにせざるを得なかったという。
オプロン氏との出会い
筆者にとっては、自動車関係者はもとより、知己のなかで初の新型コロナによる犠牲者である。動揺を隠せない。
筆者がオプロン氏に最初に出会ったのは、2003年4月のことであった。
イタリアのシトロエンCX愛好会がSMやGSなどのクラブと共催で「ロベール・オプロンのシトロエンミーティング」なるイベントを開いたときだ。会場は、北部パドヴァ郊外のモンセリチェだった。
その日、オプロン氏はスペシャルゲストとして招かれていた。
筆者が発見したオプロン氏は、ファンが乗りつけた愛車を一台ずつ詳細に眺めているところだった。
筆者が感想を問うと、「こんなに生き残っていたなんて。まるでネクロポール(古墳)を見るようだ」と言って笑った。
オプロン氏はイタリアでのバカンスも兼ねていて、夫人のジュヌヴィエーヴさんとお孫さんも来場していた。
筆者が夫人に「自宅には今もシトロエンがありますか?」と聞くと、「SMと『2CV』があります」と教えてくれた。「さらにメルセデス・ベンツと『スズキ・ワゴンR+』も持っていますよ」という。特に、ワゴンR+はバカンスのときに重宝していると教えてくれた。
その日は150人ものファンが欧州各地から集結。オプロン氏との交流を楽しんだ。
なかにはシトロエンへの情熱からプジョー・シトロエン(PSA)の研究所に就職してしまったフランス人の愛好家や、地中海のキプロスから遠来したオーナーもいた。後者は自身の愛車CXで参加できなかった代わりに、写真を収録したアルバムを持参。それを丹念に見るオプロン氏からは、自身の歴代作品に対する深い思い入れが感じられた。
以来、毎年2月に開催されるパリのヒストリックカーショー「レトロモビル」も含め、筆者は幸運にもオプロン夫妻とたびたび会い、話を聞くことができた。
小柄な方だったが、混んだ会場でもすぐに発見することができた。今思えば、本人が発するオーラのなす業だったのかもしれない。
伝説的スタイリストの後継として
前述のとおり、オプロン氏はシトロエン時代、「トラクシオン アヴァン」や「DS」のデザイナーとして有名なベルトーニのもとで約2年間助手を務めている。
第641回で紹介したフランス人ジャーナリスト、故ティエリー・アスティエール氏の貴重なインタビューによると、オプロン氏はベルトーニとの採用面接にあたり過去作品のスケッチを携えて臨んだ。しかし、ベルトーニはそれを見るなり、床に投げ捨ててしまったという。当然のごとくオプロン氏は気を悪くしたが、3週間後に採用通知を受け取ったという。
筆者が考察するに、ベルトーニはオプロン氏の才能を見抜き、ある種、嫉妬のような感情を抱いたのではないか。
ともかく、そのような通常の人間では考えられない行動をとる上司ベルトーニのもとで、なぜ働けたのだろうか。
その疑問にジュヌヴィエーヴさんは「夫とベルトーニ氏とは、当時作風があまりに違いすぎた。だからこそ、うまくやっていけたのです」と説明する。
「上司のベルトーニは創造的で、何にでも興味を抱く天才だった」と評価するオプロン氏は、シトロエンDSの後期型におけるフロントフェイス誕生秘話も明かしてくれた。
「彼は(初期型DSの)実車の前に立ったかと思うと、巨大なハンマーで突然前部を破壊し始めた。やがて造形材料を使って、瞬く間に新しいかたちをつくり上げていった」
1964年2月にベルトーニが61歳で急逝すると、オプロン氏はシトロエンデザインを急きょ率いることになった。
ベルトーニのデザインで変えたかったのは何だったのだろうか。
その質問にオプロン氏は「変えたかったのは、ベルトーニのバロックな部分だ」と回想した。「Baroque」とは「いびつな真珠」を語源とするバロック様式、もしくは奇妙な状態を示す。
その具体的な一例として、オプロン氏は「アミ6」のフロント部分における造形を手ぶりとともに示した。
そして彼が完成させたのが、日本で言うところのビッグマイナーチェンジ版である「アミ8」であったという。
いっぽうで、彼から継承したかたったものは? との問いには「それはフィロソフィー(哲学)だった」と答えてくれた。ベルトーニが目指したように他車とは一線を画する、未来的かつ独創的なデザインを模索する精神をオプロン氏は受け継いだのである。
注目すべきシトロエン以外の作品
前述したように、その後オプロン氏はルノーに移籍する。背景には、1974年にシトロエンがプジョー傘下に収まったことがあった。プジョーは彼の続投を望んだが、異なる社風のなかでは自らの創造性を生かせないと考えたオプロン氏は、ライバルからのスカウトを承諾した。
ルノー時代のオプロン作品に関しては、一般的にシトロエン時代ほどは取り上げられていない。本人も能力を発揮できる体制ではなかったことをフランスのメディアに明かしているし、度重なる筆者との会話のなかでも、ついぞルノー時代の話は登場しなかった。同国人であるアスティエール氏でさえ、移籍の経緯を聞き取れたにとどまっている。
しかし筆者の視点からすれば、オプロン時代のルノーには意味がある。例えば1983年のフエゴには、それまでのルノーには見られない軽快な塊感が感じられたものだ。グラスエリアを挟んでサイドを貫く大胆なプラスチックの使い方が目に飛び込んでくるが、この塊感はそれ以上に評価すべきポイントだ。
同じ1983年のルノー25についても同様で、ブランドのアイデンティティーを維持するとともに、ドイツ車とは異なるフレンチネス(フランスらしさ)を漂わせる高級車づくりに成功している。
最もアバンギャルドであった民間企業のシトロエンから、当時公団であったルノーというまったく社風が異なる現場で、可能な限りの奮闘をしたといえる。
独立後に手がけたリジェのマイクロカー、ビーアップも秀逸だった。従来、そのカテゴリーは「クアドリシクル」もしくは「無免許カー」とも呼ばれ、普通免許の更新が難しくなった高齢者が主な顧客層だった。それを小粋なタウン用ムーバーとして再定義すべく、独創的なデザインを提供したのだった。
彼がいたから今がある
オプロン氏と最後に会ったのは、2019年2月のレトロモビルだった。
筆者とオプロン氏が初めて出会ったイタリアの話を持ち出したところ、彼は「モンセリチェ!」と、開催地の地名を即座に発し、記憶力の明晰(めいせき)ぶりを見せつけた。そして筆者が当時雑誌用に描いたイラストの似顔絵を見せたところ、「私だ!」と喜んだ。
同時に上司のベルトーニについて、彼が40代半ばで結婚した夫人がバレエのプリマドンナだったことなども懐かしく話してくれた。
さらにオプロン氏が去ったあとのシトロエン製コンセプトカーのデザイナーについても話題は及び、デザインへの情熱が衰えていないことを感じさせた。
時代は前後するが、思えば筆者がオプロン作品に最初に出会ったのは1970年代末、東京の小学生時代だった。
当時シトロエンの日本輸入元だった西武自動車販売から親のもとに送られてきた総合カタログに、GSとSM、そしてCXの写真が載っていたのだ。
いずれも日本で撮り下ろされたものだったが、CXの純粋なフォルムに心打たれると同時に、ホイールキャップの単純ながらも考え抜かれたリフレクションに目を奪われた。背景にある目黒の東京カテドラル聖マリア大聖堂のモダンさとも恐ろしいほどマッチしていた。
いわゆるスーパーカーにはまったく興味を示さなかった当時の筆者が、CXには身震いした。
オプロン作品は、ジウジアーロによるアイデアあふれるコンセプトカーとともに、自動車デザインの奥深さを、少年時代の筆者に暗示してくれた。
オプロン氏が創造したクルマと出会っていなければ、今日の筆者はいなかったと言っても過言ではない。
今、彼はCXのハイドロニューマチックに揺られながら空に向かっていることだろう。そして宇宙船が到来したと間違える天国の先住人たちを見て、笑みを浮かべているに違いない。
(文=大矢アキオ<Akio Lorenzo OYA>/写真=ステランティス、ルノー、イタルデザイン、Akio Lorenzo OYA/編集=藤沢 勝)

大矢 アキオ
コラムニスト/イタリア文化コメンテーター。音大でヴァイオリンを専攻、大学院で芸術学を修める。日本を代表するイタリア文化コメンテーターとしてシエナ在住。NHKのイタリア語およびフランス語テキストやデザイン誌等に執筆活動を展開。NHK『ラジオ深夜便』では、22年間にわたってリポーターを務めている。『Hotするイタリア』、『イタリア発シアワセの秘密 ― 笑って! 愛して! トスカーナの平日』(ともに二玄社)、『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)、『メトロとトランでパリめぐり】(コスミック出版)など著書・訳書多数。