「いすゞ・ジェミニ」誕生から50年 いま振り返るGMのグローバルカー構想
2024.08.28 デイリーコラム今とは違う「グローバルカー」
「世界的な規模であるさま。国境を越えて地球全体にかかわるさま」という意味の英語である「グローバル(grobal)」という言葉。グローバリズムだのグローバリゼーションといった変形を含めて、今では珍しくもなんともないだろう。
この「グローバル」を筆者が初めて意識したのは、今からちょうど50年をさかのぼる1974年のこと。同年10月にデビューした「いすゞ・ジェミニ」、当初は前年の1973年に生産終了した「ベレット」の後継車ということで「ベレット ジェミニ1600」と称していたが、これが世界一の自動車メーカーだったゼネラルモーターズ(GM)の世界戦略「グローバルカー構想」から生まれたモデル、と伝えられたのがきっかけだった。
GMのグローバルカー構想とは、当時GMの子会社あるいはグループ会社だったドイツのオペルやイギリスのボクスホール、ブラジルGM、オーストラリアのホールデン、そして日本のいすゞなどで、基本的に共通のモデルをベースに、それぞれの生産設備や国情に合わせてアレンジしたモデルをつくる。そうした開発・生産の合理化、スケールメリットによってコストダウンを期待したもの……ごく簡単に言えばそういうことである。
構想の発端はこうだ。1960年代末、オペルは主力となる大衆車「カデット」の次期モデルの開発を進めていた。ボクスホールはカデットの英国版ともいえる「ヴィヴァ」に代わる新たなモデルを、そしてブラジルGMは市場でひとり勝ち状態の「フォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル)」の対抗馬を欲していた。
そうした状況に対し、すべての子会社をコントロールしているデトロイトのGM本社で生まれたのがグローバルカー構想だったのだ。その背景には、ライバルのフォードが1967年にヨーロッパ・フォードを設立し、それまでそれぞれ独自の製品をつくっていたドイツ・フォードと英国フォードの一元化政策を始めた影響もあるだろう。しかしフォードの目指すところが英独の完全一元化だったのに対して、GMのグローバルカー構想は各国の事情に合わせ、自由裁量の範囲を残したという違いがあった。
拡大 |
拡大 |
拡大 |
拡大 |
開発リーダーはオペルが担当
グローバルカー構想がデトロイトで「Tカー」プロジェクトと命名され、正式に動き出したのは1970年3月。開発のリーダーを任されたのはオペルで、すでに開発が進行していた次期型カデットをTカープロジェクトを前提に修正することになった。とはいうものの、もともとオペルは斬新でも個性的でもないが、全体的に高水準でバランスのとれたインターナショナルな性格のクルマづくりを旨としていたため、大きな変更は必要なかったという。
当時、欧州製小型車の主流はFFに移行しつつあったが、生産技術のレベルが異なる各国でつくられるグローバルカーであるTカーはオーソドックスなFRを採用。基本的に全世界で共通となるのはボディーシェルとシャシーで、エクステリアデザインの細部とインテリアデザイン、搭載エンジンは各社の判断に委ねられることとなった。
けれん味がなくクリーンな、基本となるカデットのエクステリアデザインを担当したのは当時オペルに在籍していた、海外で活躍する日本人カーデザイナーの先駆者である児玉英雄氏。ボディーは2/4ドアセダン、2ドアクーペ、3ドアワゴンという従来のラインナップに加えて新たに3ドアハッチバックが用意された。
開発スタートからちょうど3年、1973年3月に最初のTカーがデビューした。意外なことに、それはカデットではなくブラジルGMの「シボレー・シェヴェット」だった。ボディーは2ドアセダンのみで、このモデルのためにデトロイトで開発された1.4リッター直4 SOHCエンジンを積んでいた。なぜブラジルが先行したかというと、ビートルへの対抗馬を渇望していたこと、またドイツでもカデットはビートルと競合するから先行実験的な意味合いもあった。
それから約半年後の同年8月に新型オペル・カデット、戦後の3世代目ということで「カデットC」と呼ばれるTカーのオリジナルがベールを脱いだ。ボディーは2/4ドアセダン、2ドアクーペ、3ドアワゴンの3種で、先代から受け継いだ1.2リッター直4 OHVエンジンを搭載。その後1975年5月に3ドアハッチバックが追加された。
拡大 |
拡大 |
拡大 |
拡大 |
拡大 |
続々とリリースされるTカー
カデットCのデビューから約1年後の1974年10月、いすゞからジェミニが登場する。いすゞがGMと業務提携を結んだのは1971年7月なので、Tカープロジェクトの発足当時はサークルに加わっていなかった。だが、旧態化していたベレットの後継モデルの開発に頭を悩ませていたいすゞにとって、Tカープロジェクトへの参加はタイムリーだったのだ。ちなみにジェミニ(gemini)とは英語で双子座を意味するが、いすゞとGMという2社の協力関係の象徴として命名された。
いすゞが選んだボディーは4ドアセダンと2ドアクーペ。それにベレットや「フローリアン」に積んでいた1.6リッター直4 SOHCエンジンをクロスフロー化して搭載。発売当時の広告のキャッチコピーは「これからのジェミニ。誕生」。それに「ムダなく、ムリのない今日のクルマを目指して――ヨーロッパで実証された走りと合理性。長くつきあえるクルマ、これがISUZUとGM3年目の結論です」というフレーズが続いていた。広告とはいえ、自賛や誇張することなく、ジェミニというクルマの成り立ち、性格を率直に語った文句だと思う。
さらにそれから約半年、1975年3月にイギリスで「ボクスホール・シェヴェット」が誕生した。先代にあたるヴィヴァから受け継いだ1.25リッター直4 OHVエンジンを積んだ3ドアハッチバックのみだったが、カデットCをはじめとする兄弟とはまったく異なるアグレッシブな顔つきを持っていた。
それまで年々国内シェアが低下していたボクスホールは、没個性的で地味という印象を払拭(ふっしょく)して新たなブランドイメージを創り出すことを熱望していた。そのためには新たなファミリーの顔の確立が必要と判断。選ばれたモチーフが1973年秋に少数が限定生産された高性能クーペ「フィレンザ」の空力的なスラントノーズ。これに倣った顔つきを以後登場するモデルに採用することを決め、その第1弾がシェヴェットだったのだ。
こうした主だった国のほか、アルゼンチンでは「オペルK180」、オーストラリアでは「ホールデン・ジェミニ」といったTカーが生まれていた。後者のホールデン・ジェミニは、いすゞから半完成品の状態で輸入して現地で組み立てていた。
拡大 |
拡大 |
拡大 |
拡大 |
プランにはなかったアメリカ版も登場
当初の計画では、ボクスホール版の登場をもって主だったTカーは出そろうはずだった。つまりGM本社のあるアメリカでのリリースは予定されていなかったのである。ところが1973年の秋に予期しなかった石油危機が発生。アメリカ市場はそれまでとは打って変わって燃費にシビアになり、日本車の売り上げが急増した。
その時点でGMの最小モデルは、日本車でいえば「トヨペット・コロナ マークII」や「日産ローレル」くらいのボディーに2.3リッター直4 SOHCエンジンを積んだサブコンパクトの「シボレー・ヴェガ」だった。だがそれより小型のモデルの市場投入が急務となったことから、Tカーに白羽の矢が立ったのである。
選ばれたのは3ドアハッチバック。アメリカンな味つけをされたそのボディーに、もともとブラジルGM用にデトロイトで開発した1.4リッター直4 SOHCとそれを拡大した1.6リッターエンジンを積んだモデルを「シボレー・シェヴェット」の名で、1975年9月に送り出したのだった。
セールスはまずまずだったことから、1978年にはアメリカ独自のボディーとなる5ドアハッチバックが追加され、以後はこちらが主流となった。ちなみにこのシボレー・シェヴェットは日米貿易摩擦解消の一環として日本にも輸入され、シェヴェットでなく「シボレー・シベット1600」の名でいすゞで販売された。
1980年当時、200万円前後というシベット1600の価格は「ジェミニ1600」の約2倍。輸入されたのは最高級グレードとあって装備は充実していたが、当然のごとく販売は苦戦。末期にはたたき売りに近い大幅値引きがあったとも伝えられている。
また1981年になって、シェヴェットのポンティアック版が「T1000」の名でデビューした。いっぽうビュイック部門では、1950年代からオペルを輸入販売していた経緯からカデットを輸入販売、とはいかなかった。代わりに1976年からいすゞ製のジェミニ、それもシェヴェットやT1000と競合しない4ドアセダンとクーペを「オペルbyいすゞ」やら「ビュイック・オペル」の名で売るという、ややこしいことになっていた。
拡大 |
拡大 |
拡大 |
拡大 |
拡大 |
ジェミニの変遷をたどる
各国のTカーは、その後バリエーションを追加したり、マイナーチェンジしたりして、それぞれ独自の発展を遂げていく。そのなかから、われらがいすゞ・ジェミニの変遷を簡単に振り返ってみよう。
1974年10月に発売された当初は、パワーユニットは1.6リッター直4 SOHCのシングルキャブ仕様のみで、セダン、クーペともに「LD」「LT」「LS」という3グレードを設定。ボディーカラーはホワイトのほかはブルー、グリーン、ブラウン、シルバーのいずれもメタリックで、いささか地味な印象だった。
翌1975年からレッド、ライムグリーン、イエロー、サックスなどカデットCに設定されていたような欧州車っぽいビビッドなボディーカラーが徐々に追加され、明るいイメージに脱皮していく。1976年11月のマイナーチェンジ以降はF1ドライバーの故ジェームス・ハントをイメージキャラクターに起用し、広告では走りのイメージも訴えるようになっていった。
そして1977年6月にはカデットのような角形ヘッドライトを備えたボディーに1.8リッター直4 SOHCユニットを積んだ「1800」シリーズを追加。同年11月にマイナーチェンジされた1600にも角形ヘッドライトが与えられた。クリーンなスタイリングに明るいボディーカラーで、このころになるとジェミニは「ちょっとシャレた都会的なモデル」という評価が固まりつつあった。
1979年6月、ジェミニは大がかりなマイナーチェンジを実施してフロントおよびリアエンドのデザインを一新した。特にスポーティーグレードのLS系のみ円形、ほかは角形ヘッドライトを備えた顔つきは従来とはまったく印象が異なる。従来の通称“逆スラント”からスラントノーズとなったこの変身は、ファンの間では賛否が分かれた。
それから5カ月後の1979年11月には、2種類の新たなパワーユニットが与えられた。ひとつは新開発された1.8リッター直4 SOHCディーゼル、もうひとつは「117クーペ」に使われていた1.8リッター直4 DOHC。以後ジェミニのセールスは、いすゞお得意のディーゼルユニットを積んだ経済的なモデルと、DOHCエンジンを積んだホットな「ZZ(ダブルズィー)」に二極分化していくことになる。
1981年11月には生涯最後となるマイナーチェンジを実施。全車異形ヘッドライトを採用して当時のオペル各車に似た雰囲気の顔つきとなり、インテリアデザインもデビュー以来初めて全面的に刷新。その後も1982年11月にディーゼルターボを加えるなど車種追加や小変更を重ねながら生き延び、1985年5月に自社開発され、ダウンサイズとFF化を果たした新型が「FFジェミニ」の名で誕生した後も、「セダンZZ/R」に限りしばらく継続生産された。
拡大 |
拡大 |
拡大 |
拡大 |
拡大 |
第2弾の「Jカー」も登場したが……
ジェミニがいすゞ車らしく11年近くにわたってつくられた間に、Tカーの兄弟たちはどうなっていたかというと……オペル・カデットは1979年にフルモデルチェンジし、欧州製小型車の主流となっていたエンジン横置きFFハッチバックに転身。ボクスホールも翌1980年にそれに準じた「アストラ」をリリースした。アメリカのシボレー・シェヴェットやポンティアックT1000は1987年まで、ブラジルのシボレー・シェヴェットは1993年まで20年の長命を保った。だが、次世代のTカー計画はなかった。
グローバルカー構想としては、Tカーの後に第2弾の「Jカー」があった。Tカーよりひとクラス上のエンジン横置きFFのセダンで、1981年にまずは本家アメリカで「シボレー・キャバリエ」「ポンティアックJ2000」「キャデラック・シマロン」がデビュー。次いでドイツで3代目「オペル・アスコナ」、イギリスで2代目「ボクスホール・キャバリエ」が登場。翌1982年にはアメリカで「オールズモビル・フィレンザ」「ビュイック・スカイホーク」、オーストラリアで「ホールデン・カミーラ」、1983年には日本で「いすゞ・アスカ」が誕生した。
ただしこのJカーは、プラットフォームこそ共有されたものの、Tカーのように全車共通ボディーではなかった。アメリカの5ブランド、オペル/ボクスホール/ホールデン、そしていすゞでは、フロントおよびリアエンド以外のボディーパネルやウィンドウグラフィックスなども微妙に異なっていたのである。
その後はちょうどライバルのフォードのように、オペルとボクスホールは英独で一元化されたものの、このJカー計画をもってGMのグローバルカー構想は終了した。その理由はといえば、結局のところGMが期待したほどのスケールメリットが得られなかったからではないだろうか。
ジェミニの誕生から半世紀。かつての巨大帝国GMは、販売台数(2023年度実績)こそトヨタとフォルクスワーゲンには抜かれたものの世界3位の座を死守している。だが本国ではポンティアックとオールズモビルの2部門はとうになく、海外子会社もオペルとボクスホールはグループPSAを経てステランティスの傘下となり、ホールデンは自動車製造から撤退。いすゞもGMから離れた。実施するしないは別として、グローバルカー構想など描きようがない状況となってしまっている。
翻って、複数のメーカーでモデルを共同開発するケースは今日でもよくある。しかしGMのグローバル構想、なかでもTカープロジェクトのように、同じボディーを持ちつつ各国ごとにアレンジされたクルマがつくられることは、おそらく二度とないだろう。
(文=沼田 亨/写真=いすゞ自動車、ゼネラルモーターズ、ステランティス、フォード、TNライブラリー/編集=藤沢 勝)
拡大 |
拡大 |
拡大 |
拡大 |
拡大 |

沼田 亨
1958年、東京生まれ。大学卒業後勤め人になるも10年ほどで辞め、食いっぱぐれていたときに知人の紹介で自動車専門誌に寄稿するようになり、以後ライターを名乗って業界の片隅に寄生。ただし新車関係の仕事はほとんどなく、もっぱら旧車イベントのリポートなどを担当。
-
GRとレクサスから同時発表! なぜトヨタは今、スーパースポーツモデルをつくるのか? 2025.12.15 2027年の発売に先駆けて、スーパースポーツ「GR GT」「GR GT3」「レクサスLFAコンセプト」を同時発表したトヨタ。なぜこのタイミングでこれらの高性能車を開発するのか? その事情や背景を考察する。
-
高齢者だって運転を続けたい! ボルボが語る「ヘルシーなモービルライフ」のすゝめ 2025.12.12 日本でもスウェーデンでも大きな問題となって久しい、シニアドライバーによる交通事故。高齢者の移動の権利を守り、誰もが安心して過ごせる交通社会を実現するにはどうすればよいのか? 長年、ボルボで安全技術の開発に携わってきた第一人者が語る。
-
走るほどにCO2を減らす? マツダが発表した「モバイルカーボンキャプチャー」の可能性を探る 2025.12.11 マツダがジャパンモビリティショー2025で発表した「モバイルカーボンキャプチャー」は、走るほどにCO2を減らすという車両搭載用のCO2回収装置だ。この装置の仕組みと、低炭素社会の実現に向けたマツダの取り組みに迫る。
-
業界を揺るがした2025年のホットワード 「トランプ関税」で国産自動車メーカーはどうなった? 2025.12.10 2025年の自動車業界を震え上がらせたのは、アメリカのドナルド・トランプ大統領肝いりのいわゆる「トランプ関税」だ。年の瀬ということで、業界に与えた影響を清水草一が振り返ります。
-
あのステランティスもNACS規格を採用! 日本のBEV充電はこの先どうなる? 2025.12.8 ステランティスが「2027年から日本で販売する電気自動車の一部をNACS規格の急速充電器に対応できるようにする」と宣言。それでCHAdeMO規格の普及も進む国内の充電環境には、どんな変化が生じるだろうか。識者がリポートする。
-
NEW
車両開発者は日本カー・オブ・ザ・イヤーをどう意識している?
2025.12.16あの多田哲哉のクルマQ&Aその年の最優秀車を決める日本カー・オブ・ザ・イヤー。同賞を、メーカーの車両開発者はどのように意識しているのだろうか? トヨタでさまざまなクルマの開発をとりまとめてきた多田哲哉さんに、話を聞いた。 -
NEW
スバル・クロストレック ツーリング ウィルダネスエディション(4WD/CVT)【試乗記】
2025.12.16試乗記これは、“本気仕様”の日本導入を前にした、観測気球なのか? スバルが数量限定・期間限定で販売した「クロストレック ウィルダネスエディション」に試乗。その強烈なアピアランスと、存外にスマートな走りをリポートする。 -
GRとレクサスから同時発表! なぜトヨタは今、スーパースポーツモデルをつくるのか?
2025.12.15デイリーコラム2027年の発売に先駆けて、スーパースポーツ「GR GT」「GR GT3」「レクサスLFAコンセプト」を同時発表したトヨタ。なぜこのタイミングでこれらの高性能車を開発するのか? その事情や背景を考察する。 -
第325回:カーマニアの闇鍋
2025.12.15カーマニア人間国宝への道清水草一の話題の連載。ベースとなった「トヨタ・ランドクルーザー“250”」の倍の価格となる「レクサスGX550“オーバートレイル+”」に試乗。なぜそんなにも高いのか。どうしてそれがバカ売れするのか。夜の首都高をドライブしながら考えてみた。 -
日産ルークス ハイウェイスターGターボ プロパイロットエディション/ルークスX【試乗記】
2025.12.15試乗記フルモデルチェンジで4代目に進化した日産の軽自動車「ルークス」に試乗。「かどまる四角」をモチーフとしたエクステリアデザインや、リビングルームのような心地よさをうたうインテリアの仕上がり、そして姉妹車「三菱デリカミニ」との違いを確かめた。 -
ホンダ・プレリュード(前編)
2025.12.14思考するドライバー 山野哲也の“目”レーシングドライバー山野哲也が新型「ホンダ・プレリュード」に試乗。ホンダ党にとっては待ち望んだビッグネームの復活であり、長い休眠期間を経て最新のテクノロジーを満載したスポーツクーペへと進化している。山野のジャッジやいかに!?




























