モデルチェンジの「ここは絶対変えちゃダメ」は一体誰が決めるのか?
2026.06.09 あの多田哲哉のクルマQ&Aクルマのモデルチェンジの際、「ここは絶対に変えてはダメだ」というのは、一体誰がどのように決めるのでしょうか? 代々続く伝統的なモデルが多い自動車の世界において、世代交代時に「変えるところ」と「変えないところ」の判断はチームの総意なのか、チーフエンジニアの決断なのか、あるいは役員の判断なのか、そのプロセスについて教えてください。
いくつか挙げていただいたパターンについて、結論からいうと、「そのすべてである」というのが答えです。どれか一つだけということはありません。
もちろん基本としては、開発チーム内で議論を重ねたり、これまでに蓄積されてきたお客さまの声を分析したりして決めていく流れが最も一般的です。
しかし、そうした通常どおりの進め方ばかりをしていると、どうしてもマンネリ化してしまい、大きな技術革新やブレイクスルーが生まれにくくなるという弊害も生じます。
特に、「カローラ」や「クラウン」のような「伝統のあるクルマ」で、その車名自体がブランドになっているようなケースでは、かつてそのクルマの開発に携わったOBの方たちの多くがご存命で、ずっと注目されています。そうした方々の集まりなどでは「今度の新型はなんだ、あれは!」といった話が当然のように出ますし、それらの声は、現役の開発チームの耳に間接的にでも聞こえてきます。
それで開発チームのメンバーが「うーん……」と悩んでしまうようなことも現実にありますし、逆に、OBの先輩方が現役チームに気を使ってあえて意見を言わずに「新しいチームにすべてを任せるべきだ」と公言してくださるケースもあります。
このように、さまざまな事情が絡み合うなかで、なかなか方向性が決まらなくなったり、逆に周囲に忖度(そんたく)しすぎて代わり映えのしないモデルチェンジが続いたりすることがある。それで「このままではいけない」となった時には、経営トップによる“鶴の一声”で大きく変えるという判断が下されることもあります。近年では、4兄弟展開となったクラウンの大胆な刷新などは、まさにトップダウンによって大きく変革を遂げた分かりやすい例だと思います。
長い歴史を持つブランドのモデルチェンジにおいては、チームの合意や担当者の努力だけで変えていけるのであればそれも理想的ではありますが、現実には難しいことも多いため、こうした大きな舵切りが非常に重要な要素になってくるのです。
ただ、何でもかんでも上に判断を仰ぐばかりでは、それはそれでまた大きな弊害を生むことになります。そのあんばいを見極めていくことこそが、経営陣の大きな仕事だといえるでしょう。
そういう視点でいうと、さまざまなメーカーがあるなかで、特に近年のホンダのデザインは、そのあたりのサジ加減がうまく機能していないのではないかと、個人的に感じることがあります。クルマそのものの出来は非常に良いのに、なぜかデザインがちぐはぐで、実際の売り上げに結びついていないように見えるのです。
昔の元気だった頃のホンダは、形がすごくユニークで「こうきたか!」と思わせるような製品が次々と登場したものです。メカニズムも斬新で、その両方がかみ合うことでファンを増やし、成長してきました。ですが、会社がそこそこ大きくなってからは、トップダウンなのか社内の合意なのか、その方向性がお客さまにうまく伝わってこないように思えます。奇抜な方向を狙おうとして行きすぎてしまい、少し不自然なデザインになっているという印象を受けることもある。こうしたサジ加減というのは、経営者にとっても非常に難しい部分です。
他のメーカーは、いろいろなバランスを考えながらなんとかうまくやっているようですが、ホンダに関しては、メカの出来が良いだけに、デザインのちぐはぐさが余計に目立ってしまっているような、もったいなさを感じます。どのようなプロセスでデザインを決めているのだろうかと、大きなクエスチョンマークが付くのです。
私自身が開発を担当したクルマはどうかといえば、例えばFRスポーツカーの「トヨタ86」は全く新しい車名・ジャンルで世に出した製品だったので、過去の伝統について周りからあれこれ言われることがほとんどなく、プロジェクトとして非常にやりやすかった。同じ時期に、社内の隣のチームはカローラやクラウンといった伝統あるクルマの開発を進めていて、非常に多くの配慮を強いられ、大きなプレッシャーも受けていて、大変そうだなと感じていました。開発者としては、そうしたしがらみに関係なく自由にチャレンジできるというのは、本当にありがたいことでした。
一方、「スープラ」の時は少し状況が異なりました。スープラは過去何代か継がれた歴史ある名前ですが、当時の歴代開発者の方々はもう社内に残っていませんでした。かつて80型スープラを担当されていた主査の都築 功さんもすでに亡くなっておられましたが、実はその都築さんこそが、私をこの開発主査の部署へと引っ張ってきてくれた人なのです。
そのため、私は現役時代に都築さんから「スープラはこうあるべきだ」という話を直接、最も多く聞いていました。だからこそ、復活させる際に周囲から「スープラの伝統とは?」などと問われた際には、「都築さんはこうおっしゃっていました」と自分から明確に主張することができ、周囲の意見をうまく一本化して開発を進めることができました。都築さんの遺志を自分なりに解釈し、時には適度に脚色も交えながら、いらっしゃらないのをいいことに(苦笑)、都築さんならこう言いたかったはずだという軸を持って進められたことは、開発において非常に大きな強みになりました。
このように、モデルチェンジで「ここを変えてはいけない」と決める要素は、ケース・バイ・ケースであり、チームの合意、責任者のリーダーシップ、そして時には役員のトップダウンといったさまざまなパワーバランスのなかで決まっていくといえるでしょう。

多田 哲哉
1957年生まれの自動車エンジニア。大学卒業後、コンピューターシステム開発のベンチャー企業を立ち上げた後、トヨタ自動車に入社(1987年)。ABSやWRカーのシャシー制御システム開発を経て、「bB」「パッソ」「ラクティス」の初代モデルなどを開発した。2011年には製品企画本部ZRチーフエンジニアに就任。富士重工業(現スバル)との共同開発でFRスポーツカー「86」を、BMWとの共同開発で「GRスープラ」を世に送り出した。トヨタ社内で最高ランクの運転資格を持つなど、ドライビングの腕前でも知られる。2021年1月に退職。