第256回:スポーツカーを復活させた多田哲哉の苦闘を描く
『どんがら トヨタエンジニアの反骨』
2023.03.03
読んでますカー、観てますカー
豊田章男社長も実名で登場
主人公は多田哲哉。webCGの読者には、2022年5月から始まった連載記事『あの多田哲哉の自動車放談』でおなじみだろう。多田は2021年までトヨタ自動車に在籍し、エンジニアとしてさまざまなクルマを開発してきた。『どんがら トヨタエンジニアの反骨』は、彼が手がけたスポーツカー「トヨタ86/スバルBRZ」が誕生するまでの苦闘の日々を描いたノンフィクションである。
“どんがら”とは、エンジンや内装を持たないむき出しのクルマのボディーのこと。オークションサイトでは、ガワだけ残った中古車がドンガラと表示されている。自動車メーカーでは、開発のプロセスで作られるホワイトボディーをドンガラと呼ぶのだ。幾多の困難を乗り越えて仕上がった試作車を見て、エンジニアたちが歓喜する描写がある。
別の意味も込められているような気がする。がらんどう、空虚の象徴として選ばれた言葉なのかもしれない。外見はしっかりしていても、内部は空洞になっている。強固な組織に見えても、内部から崩壊する危険がある。エンジニアが成し遂げた輝かしい成果を描いているが、日本の自動車メーカーが抱える脆弱(ぜいじゃく)性をえぐり出すルポルタージュでもあるのだ。
多田だけでなく、多くの人物が実名で登場する。86の開発に携わった今井孝範、野田利明、佐々木良典、古川高保といったトヨタのエンジニアやデザイナーだ。スバルの賚 寛海、神林茂実の名前もある。豊田章男、内山田竹志といった経営陣も重要な役割を担う。自動車メーカーでどんなプロセスを経て新型車が作られるかが、リアルに描かれている。
新しいハチロクを作る
多田が常務の河上清峯から「スポーツカーを作ってくれ」と指令されたのは2007年1月。「ウィッシュ」のモデルチェンジを担当して多忙を極めていたが、迷わず引き受けた。学生時代からラリーに熱中していた彼にとっては、願ってもないチャンスである。チーフエンジニアとして「ラウム」や「ラクティス」などを手がけてきて、順調にキャリアを積み重ねてきた。そのままファミリーカーを作り続ければ安泰なのはわかっていても、情熱を止めることができない。
売れ筋はミニバンとコンパクトカーで、スポーツカーは売れないというのが常識になっていた。トヨタでも1999年に「MR-S」を発売してから、スポーツカーの企画が通っていない。開発に金がかかるのに販売の見通しが立たないのでは、会社がGOサインを出せないのは当然だ。確かにデータを見れば勝ち目はないが、数は少なくともトヨタのスポーツカーを待ち望むクルマ好きはいるはずである。そう考える人もいて、「スポーツカー復活プロジェクト」が始まった。
ゼロから新型スポーツカーを考えるなかで、トヨタの歴史を振り返った。「2000GT」や「スポーツ800」という名車もあるが、開発チームが手本としたのは4代目「カローラレビン/スプリンタートレノ」である。AE86という車両型式番号からハチロクの愛称で呼ばれるライトウェイトスポーツクーペだ。絶対的パワーはないが、FRレイアウトで高い操縦性能を持ち、今も人気が高い。新しいハチロクを作ることが、チーム全員の目標となった。
しかし、トヨタにはスポーツカー用のエンジンがない。新しく開発するには莫大(ばくだい)な予算が必要だ。苦境を打開するために、他メーカーとの共同開発というアイデアが生まれた。パートナーに浮上したのはスバルである。トヨタは2005年にスバルの筆頭株主になっており、関係強化を模索していた。スバルには水平対向エンジンがある。低重心化にはおあつらえ向きの武器だ。
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「インサイドハンドル」と「インナーリモート」
初めてのコラボレーションは、さまざまな障害にぶち当たる。トヨタスタンダードと呼ばれる開発手法はそのまま使えない。用語すら違うのだ。トヨタでは試作を終えた量産車を「号口」と呼ぶが、スバル社員には通じない。内側のドアハンドルはトヨタでは「インサイドハンドル」、スバルでは「インナーリモート」。エンジンルームは「エンコパ」と「房内」。さらに、言葉以上に異なるのがクルマ開発の哲学である。
『プロジェクトX』のように、計画を実現するために心を一つにして課題を解決していく過程が描かれていく。葛藤のなかで露呈してきたのが、それぞれの企業文化だ。トヨタとスバルだけでなく、マツダや日産の社内事情にも言及がある。比較することで見えてくるのは、トヨタの特異な製品開発方式だ。「Z」と呼ばれる技術者集団ではチーフエンジニアが巨大な権限を持ち、企画、開発、宣伝、販売を横串に刺して突き進んでいく。
トヨタのクルマ作りを支えるシステムだが、完璧な仕組みではない。多田がいつも頭を悩ませているのは関係各所の調整だ。「チーフエンジニアの仕事の九割は辛抱すること」と嘆く場面がある。官僚的な態度で保身を図る上司たちを説き伏せたり懐柔したりしなければならない。「内山田が好かれるのはその聞く力のためである」と書いてあるのは、聞く力のない役員がたくさんいたということなのだろう。
86/BRZは無事に完成し、ユーザーからも評論家からも高く評価される。めでたしめでたしとなるはずが、その後にBMWと共同で「スープラ」を開発するというもっとハードな体験が待っていた。楽観的な未来は示されず、読後感は苦い。著者の清武英利は、2011年の“清武の乱”で解任された元巨人GMである。甘い結末などないことを知っているのだ。
(文=鈴木真人)
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鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。
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