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第877回:「マセラティを社員販売」がNGだった理由

2024.09.19 マッキナ あらモーダ! 大矢 アキオ
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“炎上”のきっかけ

ステランティスが擁する14ブランドのひとつで、2024年に創業110年を迎えたマセラティの行方が注目されている。

2024年9月上旬、イタリアのステランティス従業員が受け取った社員向けメールが大きなニュースとなった。原文はイタリア語で、内容は以下だった。

「親愛なる同僚の皆さまへ。このたび、9月よりマセラティの新車を購入いただける機会をご用意いたしました。マセラティの新車を、あなたやあなたのご家族、ご友人がご購入いただけます。マセラティの特別なラインナップが皆さまをお待ちしております! 『グレカーレ』『グラントゥーリズモ』『グランカブリオ』のなかからお好きなモデルをお選びいただけます。maserati.itのウェブサイトでお好みに合わせてカスタマイズできます。ただし、フォーリセリエのカスタマイズは除きます」

内容的にはマセラティ車の社員向け優待販売であるが、イタリア政界・労働界を巻き込んで大きな議論となった。

イタリアのメディアは、一時帰休(レイオフ)中の従業員にもメールが届いたと報道。一時帰休手当が月額1180ユーロ(約18万4千円)にもかかわらず、80万~200万ユーロ(約1248万〜3120万円)の車両購入を勧めるメールに、困惑する従業員の様子を伝えた。

さらに火に油を注ぐかたちになったのは、同年9月11日のステランティスの発表だった。米国での電動車生産を拡大すべく、ミシガンの3生産拠点に総額4億0600万ドル(約580億円)を投ずるとの内容で、イタリアとの明暗を指摘する声が巻き起こった。

続く9月13日、イタリアのマッテオ・サルヴィーニ運輸および国土整備大臣は「ミラフィオーリの工場従業員と同様に(私は)憂慮している」とコメント。あわせて、すでに多額の自動車購入補助金が公的資金から拠出されていることを指摘することで、暗にステランティスを批判した。対してステランティスは、サルヴィーニ氏にミラフィオーリ工場を視察してもらい、いかに環境や新技術への投資を行っているかを確認してほしい旨の声明を発表した。

大統領専用車にも採用された「マセラティ・クアトロポルテ」(1976年)。今回は販売不振が取り沙汰されているマセラティについてお伝えする。
大統領専用車にも採用された「マセラティ・クアトロポルテ」(1976年)。今回は販売不振が取り沙汰されているマセラティについてお伝えする。拡大
「マセラティ・レヴァンテ」。2023年、ローマきっての高級ブランド街、コンドッティ通りで撮影。
「マセラティ・レヴァンテ」。2023年、ローマきっての高級ブランド街、コンドッティ通りで撮影。拡大
グルリアスコ工場にて、10万台目の生産車両となった「ギブリ」のラインオフ式。2019年。
グルリアスコ工場にて、10万台目の生産車両となった「ギブリ」のラインオフ式。2019年。拡大
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販売台数が58%減

マセラティの不振が表面化したのは2022年だった。最初の舞台は「クアトロポルテ」「ギブリ」を生産していたトリノ郊外グルリアスコ工場である。この施設は1959年に稼働したカロッツェリア・ベルトーネの車体生産工場だった。同社の倒産後、2009年に旧フィアットが購入し、マセラティ専用工場として2012年に操業を開始。最盛期の従業員数は1400人を数えた。しかし2022年に人員削減を発表。翌2023年には2024年中に工場を売却する計画であることが明らかにされた。後述するミラフィオーリ工場に配置転換されるのはわずか200人であることも労働界に衝撃を与えた。

2023年11月1日、グルリアスコ市役所は、一般のインターネット不動産売買サイトにグルリアスコ工場が掲載されていることをリリースで指摘。「MASERATI」の看板が残ったまま、他の売り物件と並んで掲載されていることに地元関係者は意気消沈した。

2024年に入ると、今度はミラフィオーリ工場で一時帰休と操業停止が相次ぐようになる。「レヴァンテ」「クアトロポルテ」を相次いで生産終了するいっぽうで、新モデル生産開始の見通しが立たないことが理由であった。

2024年7月10日、イタリア金属労連(FIOM)の代表者は、ステランティスおよびマセラティ経営陣とバロッコのテストコースで会談。結果として「彼らは現在と将来の生産状況を説明したが、特に新しい要素は見いださせなかった。マセラティは利益面で成果を上げているにもかかわらず、労働者とその家族の肩に社会的緩衝を押し付けている」とリリースで批判している。

さらに同年7月25日、ステランティスによる2024年上半期決算で、マセラティが苦境に立たされていることがさらに明らかになった。世界販売台数は前年同期の1万5300台から6500台へと58%減。純利益は48%減となり、8200万ユーロ(約136億円)の営業損失を記録した。ステランティスの最高財務責任者ナタリー・ナイト氏が「ブランドにとって最善の居場所はどこかを検討する時期が来るかもしれない」と発言したことから、マセラティ売却を検討か? といった臆測が流れ、それは7月30日に同社によって否定されるまで続いた。

2024年8月末、今度はカッシーノ工場で行われていたグレカーレの生産が、需要減少のため9月13日まで停止されることが発表された。

モデナのマセラティ本社。2023年撮影。
モデナのマセラティ本社。2023年撮影。拡大
かつてはフィアットの本社だったステランティスのトリノ・ミラフィオーリ本部棟。ここ数年は門扉が閉じられたままだ。2024年7月撮影。
かつてはフィアットの本社だったステランティスのトリノ・ミラフィオーリ本部棟。ここ数年は門扉が閉じられたままだ。2024年7月撮影。拡大

めまぐるしく変わった経営者

自動車史に詳しい読者なら承知のとおり、マセラティは創業以来、さまざまな経営者や企業のもとで生き延びてきた。

ブランドは1914年にアルフィエーリ・マセラティがボローニャに興したレーシングカー工房にさかのぼる。しかし、技術に傾倒した経営は世界恐慌をはじめとする経済状況の荒波にはあまりにも無力だった。そのため、1937年にはモデナの資産家アドルフォ・オルシの一族によって買収される。オルシ家の庇護のもと、第2次世界大戦後のマセラティは、さまざまなカロッツェリアによる流麗な車体をまとった高級GTの米国輸出で成功した。

やがて技術の高度化に、オルシ家の資本力では追いつかなくなってきた。そこで1968年からシトロエンの資本投入を受け入れる。「シトロエンSM」用V6エンジンの開発・生産は当初順調で、経営を支えるかに見えた。ところがシトロエンが経営危機に陥り、1974年から段階的にプジョー傘下となる。これを契機に、翌年からマセラティは操業停止状態となった。

管理を担当したイタリアの機関GEPI(経営管理および参加公社)は、デ・トマゾの創業者でアルゼンチン出身のアレハンドロ・デ・トマゾにマセラティの経営を託す。デ・トマゾ時代は、当初こそデ・トマゾ ブランドとのいわゆるバッジエンジニアリング車もつくられたが、その後は意欲的な新型車が次々と導入された。1984年にはクライスラーからの資本も導入。同社とのジョイントベンチャーも展開された。

しかし1993年のアレハンドロの病気をきっかけに、マセラティはさらなる変化を迎えることとなる。実はマセラティは1989年から一部フィアット資本を受け入れていたが、アレハンドロが発作で倒れた年、フィアットの100%管理下となった。

そのフィアットの支配下で、マセラティは相次ぐ社内再編に翻弄(ほんろう)された。1997年にはフェラーリ傘下に組み入れられたものの2005年には切り離され、アルファ・ロメオと同じユニットに組み入れられた。その後、2021年にステランティスが誕生すると、同社を構成する14ブランドのうちのひとつとなって現在に至っている。

ここからは、2024年5月にコモで開催されたコンコルソ・ヴィラ・デステにおける“マセラティ110周年”クラスの参加車両を。フルアのボディーをまとった1955年「A6GCS/53スパイダー」。
 
ここからは、2024年5月にコモで開催されたコンコルソ・ヴィラ・デステにおける“マセラティ110周年”クラスの参加車両を。フルアのボディーをまとった1955年「A6GCS/53スパイダー」。
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同じくフルアによる1966年「5000GT」。
同じくフルアによる1966年「5000GT」。拡大

凋落の原因を探る

では、なぜマセラティは不振に陥ったのか? ステランティスは2024年7月25日の同年上半期決算のリリースで、純利益と営業利益の減少を「グレカーレの不振と製造終了製品の影響による出荷減少」と説明している。だが、もう少し掘り下げて3つの原因を指摘してみる。

第1に中国市場の失速である。2024年上半期の中国向け出荷は6500台で、前年同期の1万5300台と比較すると58%減である。それに伴い、純利益も52%のマイナスを記録している。1位の米国に次ぎ、欧州地域と2位を争ってきた中国市場の経済成長の減速が響いているのは明らかだろう。

第2に挙げるのは、欧州在住である筆者の印象と観測に基づくものだが、ブランドを「フェラーリの下位互換」にしてしまったことだ。

本来マセラティは、スポーティーでありながら品格を備えたブランドであった。イランのパフラヴィー元国王は熱心な愛好者で、今日でもコンクールデレガンスには彼の愛車だったマセラティがたびたび登場する。イスラム教指導者で実業家のアーガー・ハーン4世もフォーリセリエを発注している。クアトロポルテは1982年にサンドロ・ペルティーニ大統領が採用して以来、イタリア共和国を代表する公用車の一台として今日まで歴代モデルが用いられてきた。

しかし、2005年にアルファ・ロメオと同じユニットとなった頃から、徐々にフェラーリとの違いが曖昧になっていった。さらにフェラーリがSUVの「プロサングエ」を発売してしまったことにより、4ドアを擁する高級GTブランドのイメージはより薄れていってしまった。従来からのマセラティ愛好者を当惑させたのである。

第3は「市場拡大を急ぎすぎてしまったこと」と考える。フィアットグループ入り以前、マセラティは創業の地イタリアにおいても販売店は大都市に限られていた。デ・トマゾ時代にはテレビCMの放映が試みられたものの、広告活動はフィアットやアルファ・ロメオの比ではなかった。同じく当時デ・トマゾ傘下にあったイノチェンティの販売店を経営していた知人によれば、イベントにマセラティを臨時展示すると、それなりに呼び物になったと振り返る。極言すれば、大多数の人にとって「名前は聞いたことがあるけれど、どこで買えるのかわからないブランド」であり、それゆえにエスクルーシブ性が維持されていたのである。

そうした状態に変化が表れたのは、筆者の記憶では1998年の「3200GT」であった。ガソリンスタンドのアジップの敷地内に大判ポスターが貼られたのである。そうした大胆な展開は加速し、2013年の3代目ギブリ、ブランド初のSUVである2016年レヴァンテでは、経済紙やラジオ、動画投稿サイトでも広告が展開されるようになった。ローンやカンパニーカーとしての導入も積極的にアプローチが行われた。

ヨーロッパを代表する中古車検索サイト「オートスカウト24」で、2024年9月中旬にマセラティの出品を調べてみると、その数は1988台。うちデ・トマゾ時代までのものはわずか150台ほどにとどまり、それ以外はフィアット以降のモデルである。コモディティー化したあとのモデルは台数も多いが、初めて購入した顧客も多く、飽きられやすかったとみることができる。

カロッツェリア・ギアのスパイダーボディーをまとった1970年「ギブリ」。
カロッツェリア・ギアのスパイダーボディーをまとった1970年「ギブリ」。拡大
フルアによる1971年「クアトロポルテ(AM21)」。
フルアによる1971年「クアトロポルテ(AM21)」。拡大
イタルデザインの公式フォトから。1972年のコンセプトカー「ブーメラン」。シャシーは量産車「ボーラ」のものを使用していた。
イタルデザインの公式フォトから。1972年のコンセプトカー「ブーメラン」。シャシーは量産車「ボーラ」のものを使用していた。拡大
かつて知人(黄色いセーターの人物)が営んでいたイノチェンティ販売店の写真から。左には「ビトゥルボSi」と思われる車両が見える。
かつて知人(黄色いセーターの人物)が営んでいたイノチェンティ販売店の写真から。左には「ビトゥルボSi」と思われる車両が見える。拡大

もしもの場合も

厳しい現状を記したが、筆者にとってマセラティは、敬意を表するブランドのひとつである。イタリア共和国大統領の専用車として、国賓をもてなす車両、また各国に駐在する大使の公用車として、ランチアに該当するモデルがない現在、格式という点で唯一のブランドである。

また、もっと高価なマセラティをお持ちの読者からは失笑ものであろうが、このような思い出もあった。東京での自動車誌の編集記者時代、部内で中古車の長期テストをしようという企画が浮上したとき、筆者が候補として挙げたのは「マセラティ・ビトゥルボ」だった。「故障した場合、予算では到底修理費をまかなえない」という理由で却下されてしまった。

イタリアに来て初めてのクルマを物色したときも、近所の自動車販売店に中古車として置かれていたビトゥルボを買いそうになったことがあった。こちらは修理を頼ろうとしていたクルマ好きのイタリア人医師が、「V6までは面倒見きれない」とおじけづいたことで断念した。

まあ、無理に手に入れて編集部の予算が尽きて廃刊になったり、イタリアでの生活費が修理代で底を尽いてしまったりしたかもしれないと考えると、よかったのかもしれないが。

閑話休題。マセラティは当初2025年までに新型レヴァンテ、EVオンリーの新型クアトロポルテを発表する計画だったが、イタリアの一部メディアによると前者は2027年、後者は2028年に延期された。

2024年7月のコメントどおり、ステランティスはブランドを維持する姿勢だが、将来は他のメーカーの手中に収まる場合だってありうるだろう。その際、新たな所有者には、マーケットは異なるが上海汽車(SAIC)のもとで再生したMGの成功事例を参考にし、励みにしてほしい。時代ごとに有力なパトロンのもとで育てられてきたのは、あたかも音楽家や画家のごとくであり、ある意味イタリアの企業家精神を代弁している。それを、いっときの都合で葬ってしまうのは、あまりに惜しい。

(文=大矢アキオ ロレンツォ<Akio Lorenzo OYA>/写真=Akio Lorenzo OYA、Mari OYA、Andrea Betti、ステランティス、イタルデザイン/編集=堀田剛資)

「ビトゥルボ」の派生車種で、イタリア市場で販売された「2.24V」と思われる。2006年シエナで撮影。
「ビトゥルボ」の派生車種で、イタリア市場で販売された「2.24V」と思われる。2006年シエナで撮影。拡大
ゲストが乗ってきた5代目「クアトロポルテ」を、ホテルのポーターが駐車しているところ。2007年シエナ旧市街で撮影。
ゲストが乗ってきた5代目「クアトロポルテ」を、ホテルのポーターが駐車しているところ。2007年シエナ旧市街で撮影。拡大
マセラティ・ギブリ(M157)。
マセラティ・ギブリ(M157)。拡大
ミラノの高級ブティック街、モンテナポレオーネ通りにたたずむ6代目「クアトロポルテ」。2024年4月。
ミラノの高級ブティック街、モンテナポレオーネ通りにたたずむ6代目「クアトロポルテ」。2024年4月。拡大
「マセラティ・レヴァンテ」。2023年、ローマのコンドッティ通りで撮影。
「マセラティ・レヴァンテ」。2023年、ローマのコンドッティ通りで撮影。拡大
大矢 アキオ

大矢 アキオ

Akio Lorenzo OYA 在イタリアジャーナリスト/コラムニスト。日本の音大でバイオリンを専攻、大学院で芸術学、イタリアの大学院で文化史を修める。日本を代表するイタリア文化コメンテーターとしてシエナに在住。NHKのイタリア語およびフランス語テキストや、デザイン誌等で執筆活動を展開。NHK『ラジオ深夜便』では、24年間にわたってリポーターを務めている。『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)、『メトロとトランでパリめぐり』(コスミック出版)など著書・訳書多数。近著は『シトロエン2CV、DSを手掛けた自動車デザイナー ベルトーニのデザイン活動の軌跡』(三樹書房)。イタリア自動車歴史協会会員。

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