第248回:日仏合同の生誕50周年記念イベント開催
「日野コンテッサ1300」と「R8ゴルディーニ1100」の関係は?
2014.07.08
エディターから一言
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このところ毎年、何らかのモデルの生誕50周年が祝われている。例を挙げれば、昨年は「ポルシェ911」の生誕50周年記念イベントが世界中で開催され、今年は4月のニューヨークオートショーにおける新型のデビューと前後して、「フォード・マスタング」の50周年イベントが全米各地で開かれた。
911やマスタングのような今日まで継続生産されている人気車種ともなればイベントの規模もケタ違いだが、そうでない車種であっても、熱心な愛好家によって、さまざまなメモリアルイベントが開かれている。
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瞳の色が異なるいとこ
そんなイベントのひとつが、去る4月に静岡県沼津市で開かれた「日野コンテッサ1300」と「ルノー8ゴルディーニ1100」の生誕50周年記念合同ミーティングである。
現在は大型車専門メーカーである日野が、かつて生産していた小型乗用車であるコンテッサ1300と、ルノーの小型セダンだったルノー8(R8)を、アメディ・ゴルディーニが高度にチューンしたR8ゴルディーニ1100。どちらもさかのぼること半世紀、東京オリンピックの開かれた1964年生まれというわけだが、合同誕生会が企画された理由はそれだけではない。かたや日本、かたやフランス生まれのこの2台は、実はルーツが同じなのだ。
そのルーツとは、戦後間もない1946年に生まれたリアエンジンの小型セダン「ルノー4CV」。61年の生産終了までに110万台以上が作られ、戦後ルノーの礎を築いた傑作である。R8ゴルディーニ1100はわかるが、なぜコンテッサ1300のルーツも4CVなのかというと、日野は53年から63年までの10年間にわたって4CVを「日野ルノー」の名でライセンス生産していたからだ。大型車専門メーカーだった日野は、50年代に乗用車市場に進出するにあたってルノーと技術提携を結び、4CVの国産化を通じて乗用車づくりを学んだのである。
本国では1956年に4CVを拡大してアップデートした「ルノー・ドーフィン」が登場する。そして62年には、そのドーフィンから発展したR8がデビュー。いっぽう日本では、4CVの国産化から学んだ経験をベースに日野初のオリジナル乗用車となる「コンテッサ900」が61年に誕生。それから3年後の64年に拡大発展型としてコンテッサ1300がデビューした。
つまりルノー4CVから見れば、R8ゴルディーニ1100もコンテッサ1300も孫世代にあたる。言うなればR8ゴルディーニ1100とコンテッサ1300は、瞳の色は異なるが、同じ祖先を持つ本家と分家の“いとこ”のような関係なのである。
環境が違えば
4CVという同じルーツを持ち、リアエンジンという基本レイアウトを受け継いだいとこ同士とはいうものの、「ルノー8」(R8)と「日野コンテッサ1300」の見た目は大いに異なっていた。フランスの小型車らしくR8は実用第一で、まさしく3ボックスという感じの角張ったボディーを持つ。いっぽうコンテッサ1300は、カロッツェリア・ミケロッティが手がけた優雅さを感じさせるスタイリングだ。イタリアンデザインが流行(はや)っていた風潮に沿ったものだが、乗用車がまだぜいたく品だった当時の日本では、R8のような機能主義的なデザインでは受け入れられにくかったといえよう。
中身のほうも合理性を追求した軽量設計のR8に対して、コンテッサ1300は女性的なルックスに似合わず過剰品質と思われるほど骨太で、車重は同クラスのライバルより重かった。小型タクシーに大量に採用された日野ルノー(4CV)は、当時の日本の劣悪な道路状況に対応するために各部に補強を重ね、最終的には本国仕様より100kg近く車重が増えたが、そうした経験がコンテッサ1300の設計に反映された結果だった。同じ血が流れているとはいうものの、生まれ育った環境の違いによって、いとこ同士はスタイルも性格も異なってしまったのである。
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共通する趣味
ただしこのいとこ同士には、スポーツという共通する趣味があった。本家には4CVの時代から「R1063」というコンペティション仕様が用意され、ルマンやミッレミリアなどで活躍した。後継モデルのドーフィンにはカタログモデルとして「ドーフィン・ゴルディーニ」をラインナップし、競技仕様の「R1093」も数々の戦績を残した。50回目の誕生日を迎えた「R8ゴルディーニ1100」については、言わずもがなであろう。チューニングの魔術師と呼ばれたアメディ・ゴルディーニが、シリンダーヘッドをOHVのままながらターンフローからクロスフローのヘミヘッドに大改造するなどして、大幅にスープアップ。66年に登場した発展型の「R8ゴルディーニ1300」ともどもレース、ラリーの双方で大暴れした。
あまり知られていないが、国産初のスポーツセダンは1963年に登場した「コンテッサ900S」だった。翌64年にデビューした「コンテッサ1300」にも、追ってスポーティーな「1300クーペ」とスポーツセダンの「1300S」が加えられる。そしてクーペには、薄い鋼板をボディーに使用したコンペティション用のライトウェイト仕様である「1300クーペL」まで作られたのだった。また市販化されなかったものの、66年の東京モーターショーにはDOHCエンジンを積んだ「1300クーペS」も展示されている。というわけで、本家のいとこのように競技において目立った結果は残せなかったものの、スポーツ指向という点ではコンテッサも同じだったのである。
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リアエンジン小型車なるもの
去る3月のジュネーブショーで発表された新型「ルノー・トゥインゴ」がリアエンジンを採用していたことは、まだ記憶に新しい。1998年の誕生当初からリアエンジンを採用していた「スマート」と共同開発されたものだが、新型登場のニュースにも記したように、ルノーとしては73年にR8の生産を終了して以来、およそ40年ぶりのリアエンジン車復活となる。
小型車設計において、スペース効率に優れているという理由からリアエンジンが多く採用されていたのは、1940~60年代のことである。その嚆矢(こうし)となったのは戦後間もなく量産化された「フォルクスワーゲン・ビートル」や「ルノー4CV」で、VWとルノー、そして「フィアット600」に始まるフィアットがリアエンジン小型車を大量に世に送り出した。もちろんこれら3社のほかにも多くのメーカーがリアエンジン車を作っており、例えばわが国の「スバル360」もそのひとつである。
そのいっぽうで、アウディの前身となる「DKW」や「シトロエン」などは戦前から前輪駆動(FF)を採用していた。そして1959年には、画期的なエンジン横置きFFを導入した「オースチン・セブン/モーリス・ミニ マイナー」すなわちオリジナル・ミニが登場。これを機にスペース効率においてはFFのほうが有利という考えが広まり始めた。
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FFも作っていたが
ルノーはいち早くこの流れに呼応し、1961年に4CVの市場を受け継ぐベーシックモデルの「ルノー4」(キャトル)を発売。今日の小型実用車の定番であるFFハッチバックの先駆けとなった。実はルノーはそれにさかのぼること2年、59年に発表した商用ワンボックス車の「エスタフェ」ですでにFFを導入していたのである。しかし62年に登場した主力車種の「ルノー8」はFFに転換せず、十分な実績のあるリアエンジンを継続して採用したのだった。
おもしろいことに、日野が1960年に発売した商用ワンボックス「コンマース」もFFを採用していた。日本に存在したFF車といえば、スズキの軽ボンネットバン「スズライト」のみだった時代にである。だがFFの技術は未熟で商業的には失敗し、本家のエスタフェが20年以上作り続けられたのに対して、わずか2年で姿を消している。
「コンテッサ1300」がデビューした1964年の時点で、小型車設計においてはリアエンジンはすでに過去の技術という印象が否めなかった。日野は専門である大型車やコンテッサのコンポーネンツを流用した小型トラック「ブリスカ」などでFRを作っており、前述したコンマースでFFにもトライしていた。しかし乗用車となると、やはり経験のあるRR(リアエンジン・リアドライブ)しか選択肢はなかったのだろう。
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極めて希少なモデルも
姻戚関係にある「日野コンテッサ1300」と「ルノー8ゴルディーニ1100」だが、今回のミーティングは、国産旧車ワンメイククラブの草分け的存在である「日野コンテッサクラブ」(以下HCC)と、アルピーヌとルノー・ゴルディーニに乗る走り好きの集いである「クラブ・ゾーン・ルージュ」(以下CZR)のジョイントにより実現した。HCC会長のS氏がCZRの副会長も務めることから、年に一度の恒例となっているHCCの総会にCZRが合流する形で合同誕生会が実施されたのである。当日集まったのはコンテッサ1300が16台(デラックス×3台、S×2台、クーペ×10台、クーペL×1台)、R8ゴルディーニが5台(1100×3台、1300×2台)。ほかにCZRメンバーの「アルピーヌA106」や「A110」も友情参加し、全部で30台近くを数えた。
参加車両のなかで特に希少なのが、S氏が所有する「コンテッサ1300クーペL」。ノーマルの0.9mmに対して0.7mm厚の鋼板をボディーに使用し、フロントを除くウィンドウのアクリル化や内装の簡素化などによって、車重をノーマルより100kg以上軽い830kgまで軽量化したレース用のライトウェイト仕様である。1966年に20台だけ作られ、現存が確認されているのは3台のみという。
20台のうち数台は国内でレースを戦い、4台はアメリカに送られたというが、そもそもこのクーペLは北米からのリクエストで生まれたものだった。声の主は「シェルビー・コブラ」(コブラ・デイトナ クーペ)や「ヒノ・サムライ」を手がけた、元レーシングカー・デザイナーのピート・ブロック。彼が率いるレーシングチーム「ブロック・レーシング・エンタープライズ」(BRE)は、1960年代後半から70年代にかけて、日産とのジョイントで「フェアレディ2000」「510ブルーバード」や「フェアレディ240Z」を走らせ、成功を収めたことで知られている。そのBREは日産より前に日野と契約しており、コンテッサ1300の対米輸出プロモーションの一環として「チームサムライ」の名でコンテッサ1300クーペを走らせていた。S氏の1300クーペLは、チームサムライのスペアカーだった個体という。
そうした希少なモデルも参加した「日野コンテッサ1300」と「ルノー8ゴルディーニ1100」の生誕50周年記念合同ミーティング。開催規模はともかく、世界で唯一の価値あるイベントだったことは間違いない。
(文=沼田 亨/写真=沼田 亨、日野自動車、富士重工業、フィアット、フォルクスワーゲン、ルノー)
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沼田 亨
1958年、東京生まれ。大学卒業後勤め人になるも10年ほどで辞め、食いっぱぐれていたときに知人の紹介で自動車専門誌に寄稿するようになり、以後ライターを名乗って業界の片隅に寄生。ただし新車関係の仕事はほとんどなく、もっぱら旧車イベントのリポートなどを担当。