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第22回:ルノー誕生――フランスの革新者
合理的な精神が生んだ小型車作りの伝統

2018.04.19 自動車ヒストリー 鈴木 真人 独創的な技術によって自動車を革新し、フランス随一のメーカーへと成長を遂げたルノー。誕生と隆盛、戦災、そして国有化という、波乱に満ちたその歴史を、創始者であるルイ・ルノーや、その兄弟のエピソードとともに紹介する。

フランス人が推し進めた自動車の進化

1985年、西ドイツは自動車誕生100周年記念行事を開催した。初めて自動車を造ったカール・ベンツとゴットリープ・ダイムラーの偉業を記念する式典である。その1年前に自動車100周年を祝っていた国がある。フランスだ。フランス人のドラマール・ドブットヴィルとレオン・マランダンが自動車を発明したと、今も信じられている。

1番手争いの真相はともかく、自動車の生産と販売を行って産業の基盤を築いたのは、間違いなくベンツとダイムラーである。ただし、自動車を発展させて現代にも続く仕組みを完成させたのは、確かにフランス人だった。

ドイツで造られた初期の自動車は、馬車を模したスタイルを採用していた。エンジンの置き場所として選ばれたのは、座席の下部か後方である。チェーンを介して後輪を駆動するRR方式をとったのだ。このレイアウトだと必然的に着座位置は高くなり、安定性に支障が生じる。解決策を与えたのは、フランス人のエミール・ルヴァソールだった。エンジンと乗員の関係を上下から水平に変えたのである。

エンジンをフロントに置き、クラッチとギアを使って後方に駆動力を伝える。システム・パナールと呼ばれる方式で、現代のFRも同じ考え方の延長にある。重心を低くしただけでなく、前輪に荷重がかかることによって操縦性も向上した。システム・パナールの優秀性が認められ、ダイムラーも1887年にこの方式を採用した。

ルヴァソールの発明によって、自動車の設計の自由度が飛躍的に高まった。しかし、十分ではない。駆動力伝達の機構は旧態依然としていて、効率が悪かった。1899年に革新的な技術を開発したのがルイ・ルノーである。彼はまだ21歳の青年だった。

ドラマール・ドブットヴィルとレオン・マランダンの2人が製作したという四輪自動車。
ドラマール・ドブットヴィルとレオン・マランダンの2人が製作したという四輪自動車。拡大
1894年にベンツが発売した「ヴェロ」。RRの駆動方式を用いた簡便な四輪車で1898年までに1200台が量産されたという。
1894年にベンツが発売した「ヴェロ」。RRの駆動方式を用いた簡便な四輪車で1898年までに1200台が量産されたという。拡大
FRの駆動レイアウトを発明したエミール・ルヴァソールだが、当初はまだ、ファイナルドライブに自転車のようにチェーンを用いていた。
FRの駆動レイアウトを発明したエミール・ルヴァソールだが、当初はまだ、ファイナルドライブに自転車のようにチェーンを用いていた。拡大
ルノーにとって最初のモデルとなった「タイプA」。ルノーが製作した一連のコンパクトカーは「ヴォワチュレット」と呼ばれて人気を博した。
ルノーにとって最初のモデルとなった「タイプA」。ルノーが製作した一連のコンパクトカーは「ヴォワチュレット」と呼ばれて人気を博した。拡大
ルノー の中古車

画期的な駆動装置を持っていたヴォワチュレット

ルノー家は、パリ郊外のビヤンクールでボタン製造業を営む裕福な一家だった。四男として生まれたルイは勉強嫌いの劣等生で、何度もスペリングのテストに落第する。取りえといえば、機械いじりが得意だったことだけ。父親は学業成績には落胆したが、息子の能力に光るものを見つけたようだ。古いパナールエンジンを買い与え、好きに触らせた。

14歳のルイは小屋にこもってエンジンの研究に没頭する。その後兵役につくと、射撃練習用の的を自動昇降させる装置や分解式の橋などを作って上官たちを驚かせた。除隊すると、彼は貯金をはたいてド・ディオン・ブートンの三輪自動車を購入して改造に取り組む。車輪を一つ増やし、四輪自動車に作り変えたのだ。エンジンをリアからフロントに移し、FR方式に変えるという大改造である。

システム・パナールを採用したわけだが、ルイは従来の駆動力の伝達方法に欠陥を見出していた。ファイナルドライブに革ベルトとプーリー、あるいはチェーンとスプロケットを用いる方式である。革ベルトではパワーロスが大きく、チェーンは油を大量に飛散させた。どちらも耐久性に問題があり、切れて走行不能に陥ることも珍しくなかった。

確実に駆動力を伝達するには鋼鉄製のシャフトが適していると考えたルイは、シャフトドライブ方式を発明する。ベベルギアによって車軸に動力を伝えるもので、現代でも同様のメカニズムが使われている。さらに、3段ギアボックスで最適な速度を選べるようにした。トップは直結のダイレクトドライブとなっており、リバースギアも内蔵する画期的な機構だった。

ルイは発明家を志していて、自ら自動車を製造するつもりはなかったようだ。しかし、事業として将来性があると考えていた兄のマルセルに背中を押される。ド・ディオン・ブートンを改造したモデルは年末に完成し、クリスマスパーティーで友人たちに披露された。試乗を希望する者を横に乗せて走ると、帰ってくるなりポケットから金を取り出して机の上に置いた。予約金である。ほかにも試乗希望者が殺到し、その夜のうちに12台の注文が入ってしまった。

ルイは自動車生産の資金を持っていなかったが、兄のマルセルとフェルナンが出資して1899年にルノー・フレール(ルノー兄弟)社が設立される。工作機械を導入して生産を開始し、半年で60台の「ヴォワチュレット」(フランス語で小型車の意味)が製品として出荷された。シャフトドライブの特許も認められ、特許料収入が会社の基盤を強化することになる。ビヤンクールには広大な自動車工場が作られていった。

アトリエで作業にいそしむ、若かりし頃のルイ・ルノー。
アトリエで作業にいそしむ、若かりし頃のルイ・ルノー。拡大
現存する「ルノー・タイプA」。
現存する「ルノー・タイプA」。拡大
「ヴォワチュレット」に使用されたシャフトドライブ式のパワートレインと、3段ギアボックスのイラスト。
「ヴォワチュレット」に使用されたシャフトドライブ式のパワートレインと、3段ギアボックスのイラスト。拡大
ビヤンクールに建てられたルノー・フレールの工場。自動車需要の増加にともない、その規模は拡大していった。
ビヤンクールに建てられたルノー・フレールの工場。自動車需要の増加にともない、その規模は拡大していった。拡大
1900年当時のルノー車に用いられたロゴ。今日のエンブレムに面影を残すひし形のロゴが使われ始めるのは、1920年代に入ってからだった。
1900年当時のルノー車に用いられたロゴ。今日のエンブレムに面影を残すひし形のロゴが使われ始めるのは、1920年代に入ってからだった。拡大

レースで大排気量車相手に勝利を重ねる

ヴォワチュレットが搭載していたのはド・ディオン製の273cc単気筒エンジンで、出力はわずか1.75馬力だった。非力ではあるが車重は350kgと軽量だったので、50km/h近いスピードが出たという。ルイは自らステアリングを握り、レースに参加する。フランスでは1894年に世界初の自動車イベント、パリ-ルーアン・トライアルが開催され、都市間レースが盛んに行われるようになっていた。

1899年8月に行われたパリ-トルーヴィユ間のレースに参加したルイは、平均速度約39km/hという記録で1位タイとなった。マルセルもレースに挑み、兄弟で好成績を挙げることでヴォワチュレットの評判は高まっていく。

レースが人気を集めるようになると、自動車メーカーは専用のレーシングカーを製作するようになる。ハイパワーを得るために、7リッター、10リッターといった大排気量のエンジンを搭載するモンスターマシンが作られるようになっていった。レースは重量によってクラス分けされるようになり、ルノーは400kg以下のクラスで無敵を誇った。

1902年には独自開発の3.8リッター4気筒エンジンを搭載したマシンでパリ-ウィーン・レースに参加。13.7リッターのパナールや国の威信をかけたメルセデスが参戦する中、マルセルのドライブによってルノーが総合優勝を果たした。パワーだけに頼らず、バランスのとれた合理的な設計が勝利したのだ。

しかし、翌年行われたパリ-マドリード・レースで悲劇が起きる。マルセルがタイトコーナーでコースアウトし、事故死したのだ。このレースではほかにも観客と参加者を合わせて10人以上が死亡し、都市間レースは禁じられることになった。レースはクローズドサーキットで行われる時代に移行する。事故が起きてからルイがステアリングを握ることはなくなっていたが、1906年にル・マンで行われた史上初のグランプリレースであるACFグランプリでは、ルノーが初代の勝者となった。

ヴォワチュレット(写真は屋根付きの「タイプB」)に搭載された273ccの単気筒エンジン。1.75馬力という非力さだったが、車体が軽量だったこともあり、十分な動力性能を発揮した。
ヴォワチュレット(写真は屋根付きの「タイプB」)に搭載された273ccの単気筒エンジン。1.75馬力という非力さだったが、車体が軽量だったこともあり、十分な動力性能を発揮した。拡大
1894年に催されたパリ-ルーアン・トライアルの様子。世界初のモータースポーツイベントとされている。
1894年に催されたパリ-ルーアン・トライアルの様子。世界初のモータースポーツイベントとされている。拡大
クラシックカーイベントで走る姿を披露する「タイプK」。ルノーはこの車両で、1902年に開催されたパリ-ウィーン・レースで勝利を収めている。
クラシックカーイベントで走る姿を披露する「タイプK」。ルノーはこの車両で、1902年に開催されたパリ-ウィーン・レースで勝利を収めている。拡大
1906年のACFグランプリで優勝した「ルノー・タイプAK 90CV」。ドライバーはフェレンク・シジズが務めた。
1906年のACFグランプリで優勝した「ルノー・タイプAK 90CV」。ドライバーはフェレンク・シジズが務めた。拡大

ドイツ軍を押し返した「マルヌのタクシー」

ルノーの評判は高まり、1913年になるとフランス第1位のメーカーに成長した。タクシーやバス、トラックなどの事業にも進出し、生産台数は拡大する。第1次世界大戦が始まると砲弾などの軍用品の生産を余儀なくされるが、ルノーは本業の自動車でも戦勝に貢献した。「マルヌのタクシー」と呼ばれる作戦である。1914年にドイツ軍がパリに迫ったとき、タクシー600台が夜間に6000人の兵士を前線まで運び、ドイツ軍を押し返すことに成功したのだ。

順調な発展を続けているように見えたが、水面下では会社の体力が衰えつつあった。成功体験が災いし、新技術の開発が遅れていたのである。フロントブレーキの採用は1922年になってからで、ラジエーターを強制循環式に変えたのは1929年だった。プジョーが1933年に前輪独立懸架を採用し、シトロエンが1934年にモノコックボディーで前輪駆動の「トラクシオン・アヴァン」を発表しても、ルノーは旧式のクルマ作りを固守する。第2次世界大戦の前には、ルノーはフランス3位のメーカーに転落していた。

1944年に連合国によってフランスが解放されると、ルイ・ルノーはナチスに協力したとして捕らえられ、失意のうちに獄中死する。戦後になるとドゴール将軍の指令でルノーは国有化された。過酷な運命だが、ルノーは逆境をはねのけて再生する。1946年に発表された「4CV」は合理的な設計でヒット作となり、100万台以上が生産された。1961年の「4(キャトル)」、1972年の「5(サンク)」が大成功を収め、ルノーは小型車を得意とするメーカーとして高い評価を得る。ヴォワチュレットの伝統は、今も守られているのだ。

(文=webCG/イラスト=日野浦 剛)
 

他の自動車メーカーと同様、ルノーも戦争がぼっ発すると軍用品の生産を担った。写真は戦時中にルノーが生産した戦車「FT-17」をモチーフにしたロゴ。
他の自動車メーカーと同様、ルノーも戦争がぼっ発すると軍用品の生産を担った。写真は戦時中にルノーが生産した戦車「FT-17」をモチーフにしたロゴ。拡大
「マルヌのタクシー」に用いられた「ルノー・タイプAG1」。写真は第1次世界大戦中の、1914年のもの。
「マルヌのタクシー」に用いられた「ルノー・タイプAG1」。写真は第1次世界大戦中の、1914年のもの。拡大
第2次世界大戦後、ルノーは国有化され、1990年まで公団としてフランス政府によって経営がなされた。写真はルノー公団(Regie Nationale des Usines Renault)時代のロゴ。
第2次世界大戦後、ルノーは国有化され、1990年まで公団としてフランス政府によって経営がなされた。写真はルノー公団(Regie Nationale des Usines Renault)時代のロゴ。拡大
「ルノー4CV」
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鈴木 真人

鈴木 真人

名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。

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