第26回:フェルッチョ・ランボルギーニ
一代でスーパーカーメーカーを築いた情熱の男
2018.06.21
自動車ヒストリー
希代の企業家の情熱が生んだスーパーカーメーカー、ランボルギーニ。“戦後生まれ”の新興メーカーは、いかにしてフェラーリと双璧をなす存在となったのか? 創業者フェルッチョ・ランボルギーニのエピソードとともに、その歴史を紹介する。
機械いじりばかりしていた少年時代
1970年代中盤、日本にスーパーカーブームが吹き荒れた。エキゾチックなスタイルと目覚ましいスピードを持つマシンに、子供たちが夢中になったのだ。火付け役となったのは、マンガの『サーキットの狼』である。「ロータス・ヨーロッパ」に乗る主人公の風吹裕矢が、「ポルシェ911カレラRS」 や「フェラーリ365GT4BB」などと公道バトルを繰り広げるストーリーだ。マンガで世界のモンスターマシンを知った子供たちが実車に興味を持つのは自然の流れである。各地でスーパーカーショーが開かれるようになり、大勢の観客を集めた。
ショーでダントツの人気を誇ったのは、1974年に発売された「ランボルギーニ・カウンタック」である。V12エンジンをミドに搭載する高性能スポーツカーで、ウエッジシェイプのゴツゴツしたデザインが他のモデルとはまったく違うオーラを放っていた。しかも跳ね上げ式ドアというわかりやすい特徴を備えていて、子供たちを熱狂させたのである。
ランボルギーニは、フェラーリと並ぶ世界トップのスポーツカーブランドと目されていた。創業は1963年で、歴史は浅い。フェルッチョ・ランボルギーニが一代で作り上げた自動車会社である。しかし、日本がスーパーカーブームに沸いていた頃、彼はもう自動車の製造には関わっていない。イタリア中部のパニカロール村にあるフィオリータ農園に移り住み、田舎暮らしを始めていた。
フェルッチョの出自は、もともと農家にある。1916年、彼はイタリア北部エミリア・ロマーニャ州の町チェントに生まれた。少年時代のフェルッチョは農作業の手伝いを好まず、家畜小屋の片隅で機械いじりばかりしていた。ミシンや自転車の修理などはお手のもので、小学校を卒業すると鍛冶屋に弟子入りする。その後ボローニャに出て自動車整備工場に就職。知識と技能を身につけてチェントに戻り、自ら修理工場を開く。商売のかたわら、オートバイをチューンしてレースに明け暮れた。
第2次世界大戦が始まると、フェルッチョは徴兵される。ギリシャのロードス島で自動車部隊に配属された彼は、そこでも自動車の知識を蓄えていった。トラックの整備を任されたことで、ディーゼルエンジンの扱いにも習熟していったのだ。
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トラクター事業で成功した時代の風雲児
戦争が終わってチェントに帰ると、再び自動車修理工場を始めた。主に手がけたのは、“トッポリーノ”こと「フィアット500」である。イタリアは戦災からまだ立ち直っておらず、戦前型の自動車を直して乗る需要が大きかった。それなりに成功を収めるが、フェルッチョは新たな事業を模索していた。彼が目をつけたのは、農民たちが使うトラクターである。
イタリアでは農業の機械化が進んでおらず、人力での作業が普通だった。家畜のラバを使って畑を耕すのがせいぜいである。大企業のフィアットでさえ満足のいく製品を供給できていない状況で、参入の余地があると考えたのだ。
1947年、フェルッチョは初めての製品「カリオカ」を作った。連合軍の払い下げ物資の中にモーリス製のトラックを見つけ、4気筒のガソリンエンジンを軽油で動くように改造してトラクターに仕立てたのだ。安価で高性能な製品は評判となり、フェルッチョは1949年にランボルギーニ・トラットリーチ社を設立して本格的にトラクター製造を始めた。
1960年代には、ランボルギーニはトラクター業界のトップ企業に成長していた。エンジンも自社開発し、製品のバリエーションを増やした。新規の事業にも挑戦している。アメリカに旅行した際に近代的なライフスタイルを目の当たりにし、イタリアにも消費社会が訪れることを直感したのだ。彼は暖房機とボイラーの製造・販売を始め、見事に成功させた。暖炉でまきを燃やすのが当たり前の時代だったが、彼の目は先を見通していた。
イタリアは、好景気に浮かれていた。戦災からの復興を果たし、誰もが快適な生活を求めて消費に走った。製品は飛ぶように売れ、街には物があふれる。フェルッチョ自身の生活も、見違えるほど豊かになった。彼は、イタリアの“奇跡の経済成長”を象徴する風雲児だった。高価なスポーツカーだって手に入れることができる。成功者としての生活を楽しんだが、彼はクルマの性能に心から満足してはいなかった。
フェラーリのクラッチに不満を持つ
フェルッチョは、1948年にミッレミリアに挑戦したことがある。トッポリーノをベースに自作のOHVヘッドを組み込み、レーシングマシンを作ったのだ。トラクター製造に忙しかったが、夜は速いクルマ作りに情熱を傾けた。しかし、レースでは一緒に乗った若いドライバーがコーナーでクラッシュし、完走すらできなかった。フェルッチョはレースから遠ざかったが、スピードへの憧れは静かに心に秘めていたに違いない。
だから、高価なスポーツカーが完全ではないことに彼はいらだった。フェラーリのクラッチが弱くて何度も交換していたが、自分で修理しようと分解してみると、使われていたクラッチ板は自社のトラクター用と同じものだった。試しに純正のSOHCヘッドを自作のDOHCに交換してみたら、驚くほどスピードが上がった。フェルッチョが、自分でクルマを作ったほうがいいものが作れると考えたのは不思議ではない。
フェルッチョがエンツォ・フェラーリに会いに行き、邪険にされたことでリベンジのためにクルマを作ろうと思い立ったという説がある。チェントからモデナまでは50kmほどの距離。自らクラッチを買いに行ったのは確かなようだ。「200km/hまで加速してからギアをニュートラルに入れると滑らかに走る」と話し、ディファレンシャルギアがうるさいことを皮肉ったのも事実らしい。ただ、門前払いにされたというようなことはなく、怒りと対抗意識から事業を始めたというのは誇張かもしれない。
理由はともかく、1962年末にフェルッチョは会社の役員を集めて自動車産業への進出を宣言した。懐疑的な意見も出たが、走りだした彼はもう止まらない。マセラティの技術者ジャンパオロ・ダラーラ、フェラーリで「250GTO」を手がけたジオット・ビッザリーニを雇い入れた。フェルッチョは、V12エンジン、DOHC、6連キャブレターを用いるという指針を示し、世界最高のグラントゥーリズモを作るように指示する。デザインは、新進気鋭のフランコ・スカリオーネに委ねられた。
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有名人が争って購入した「ミウラ」
1963年6月、チェントから近いサンタアガタ・ボロネーゼにアウトモビリ・フェルッチョ・ランボルギーニ(フェルッチョ・ランボルギーニ自動車)が誕生する。その年の10月、トリノショーに出展されたのが「350GTV」である。フロントノーズには勇ましい闘牛をかたどったエンブレムが付けられていた。フェルッチョがおうし座生まれであり、自らをタフな闘牛になぞらえていたからである。350GTVは前衛的なスタイルが評判を呼び、さっそく生産に移すためにモディファイが施された。翌年のジュネーブショーに展示された「350GT」がその生産モデルである。
350GTは排気量を拡大して「400GT」に発展し、完成度を高めて評価を確立した。トラクターのイメージは薄れ、ランボルギーニは急成長を遂げた自動車会社と認識されるようになった。さらに名声を高めたのが、1966年に発表された「ミウラ」である。V12エンジンをミドに搭載した画期的な2シータースポーツカーで、多くの自動車メーカーが追随することになる。
デザインを担当したのは、マルチェロ・ガンディーニである。流麗な美しいボディーはこれまでに誰も見たことのないもので、ミウラは世界中で話題となった。ランボルギーニには注文が押し寄せ、14カ月のバックオーダーを抱えることになった。顧客リストには有名人が名を連ね、フランク・シナトラ、ディーン・マーチン、グレース・ケリー、イランのパーレビ国王らが争って手に入れた。
ミウラとはスペインのセビリアにある大農園の当主の名で、強くたけだけしい闘牛を育ててきたことで知られる。ランボルギーニのモデル名には闘牛にちなむ名が付けられるのが恒例となった。1971年に発表された「カウンタック」は例外である。イタリア語では本来“クンタッチ”と発音される言葉で、ピエモンテ方言で驚いた時に口に出す感嘆詞なのだ。再びガンディーニがデザインしたこのモデルは、ランボルギーニの名声を揺るぎないものにした。しかし、この頃ランボルギーニ社は危機に陥っていたのである。
イタリアでは1969年から“熱い秋”と呼ばれる政治の時代を迎え、ランボルギーニ社でも労働争議が頻発した。トラクター会社では従業員が工場を占拠し、生産不能状態になった。折悪(あ)しくボリビア政府から受けていた5000台ものトラクターの受注がキャンセルされ、大量の在庫を抱え込むことになってしまう。1970年代に入ると状況は好転の兆しを見せたが、フェルッチョの情熱はすでに失われていた。自動車会社とトラクター会社を売却し、自らは58歳で農園に引っ越したのである。
ランボルギーニ社は何度も危機的な状況を繰り返し、1987年にクライスラーの傘下に入った。1999年からはアウディグループに移り、現在では見事に復活を果たしている。フェルッチョは混乱に関わることはなく、農園で新たな事業を始めた。ワイン作りである。自ら畑に出てトラクターを操り、ぶどうを収穫した。赤ワインの名は、“ミウラの血”。フェルッチョは、情熱を向けるべき新たな道を見つけたのだ。
(文=webCG/イラスト=日野浦 剛)
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鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。