第64回:「パジェロ」から始まった4WDの“民生化”
都市を支配したオフローダーの変節
2019.12.12
自動車ヒストリー
洋の東西を問わず、今日の自動車市場で大きな存在感を示しているSUV。このジャンルが成長を始めた際、その旗手となったのが「三菱パジェロ」だった。長年にわたりブームを主導しながら、ニーズの変化によって姿を消すこととなった時代の寵児の歴史を振り返る。
ジープから自動車製造を再開した三菱
1990年代に日本を訪れたヨーロッパ人が、街の風景を見て驚いたという。戒厳令が発令されたと思ったのだ。もちろん勘違いで、彼が見たのは道を走るいかついSUVの群れと、修学旅行で東京にやってきた中学生の隊列だった。それが軍用車両と少年兵に見えたというわけだ。
実情を知ればばかげた思い込みだということはわかったのだが、確かにその増殖ぶりは都市の景観を変えるほどだった。中でも際立っていたのが、三菱パジェロである。オフロードにはまったく興味を持たない人々が、ライフスタイルを表現するアイテムとしてパジェロを選ぶようになっていた。
三菱は戦時中は主に兵器製造を行っていたが、終戦を迎えて他分野への事業の転換を図る。自動車製造の第一歩となったのは「ジープ」のノックダウン生産だった。ウィリス社からライセンスを受け、自衛隊への製品供給を行ったのである。1953年から生産が始まり、朝鮮戦争特需もあって販売台数を伸ばしていった。1957年には4000台近くを生産している。最初は部品を輸入して組み立てていたが、徐々に部品の国産化を進めて、エンジンも自社開発。名実ともに「三菱ジープ」となり、4WD市場では7割ほどのシェアを持つに至った。
モデルバリエーションを増やし、自衛隊への供給だけでなく、一般ユーザーにも販売を広げていく。アメリカ軍が戦地で使用していたモデルであり、頑丈さと悪路走破性にはもともと定評があった。国内では無敵だったが、弱点は輸出ができないことである。三菱ジープは独自の進化を遂げていたものの、当初の契約に縛られて国外進出が難しかったのだ。
最初に契約したウィリス社から、カイザー社、AMCとライセンサーは変わっていったが、自由な輸出が許されないことに変わりはない。東南アジアに年間400台ほどが輸出されるにとどまっていたのである。トヨタが独自開発の「ランドクルーザー」で順調に輸出を増やしているのを横目に見ながら、三菱はどうすることもできなかった。
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小型ピックアップトラックが人気に
日本では、1970年代に入ると4WD車で釣りやキャンプに出掛けることを楽しむ人々が増えてくる。ジープの販売も、官庁や法人から個人ユーザー向けが主になりつつあった。4WD車で集まり、情報交換を行ったり親睦を深めたりする「ジープジャンボリー」も始まる。
そうした中にあって、三菱ではジープに代わる新たな4WD車を開発しようという機運が生まれた。ジープの基本設計は1941年のもので、軍用車両としての生い立ちから快適性への配慮は乏しかった。レジャー用途の増大もあり、時代に合わせたモデルをつくる時期にきていたのである。海外進出を果たすためにも、ライセンスに縛られない新車種が必要だった。
1973年の東京モーターショーに、「ジープ パジェロ」という名のコンセプトモデルが出品されている。ジープのシャシーにバギー車のようなボディーをのせたもので、パタゴニア地方に生息する野生猫の名前が付けられた。実現性のあるモデルではなく、「ギャラン」や「ランサー」が売れていた三菱ではこれを発展させて市販化しようとする動きは生まれなかった。
流れが変わるのは、1970年代も後半に入ってからだ。1978年、三菱から小型ピックアップトラックの「フォルテ」が発売される。人気が高まりつつあったジャンルで、日産の「ダットサン・トラック」や、トヨタの「ハイラックス」などが北米への販売攻勢を強めていた。遅ればせながら三菱も参入を果たし、国内外ともに好調な売れ行きを示す。4WDモデルを追加する運びとなり、そこで同じシステムを使ったジープの後継車をつくろうという提案がなされた。ジープの販売台数は年間1万台に満たず、単独で開発するのは難しかったのだ。
曲折を経て、初代パジェロが発売されたのは1982年である。輸出も含めて予定月販台数は1900台だったが、2年目には2800台に達し、5年目を迎えると7000台を超える数字を記録するようになった。快適な乗車環境を持ちながらオフロード性能も高いモデルを、市場は待っていたのだ。
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パリダカの活躍で売り上げが伸びる
追い風となったのは、パリ‐ダカールラリーでの活躍である。初参加となった1983年の第5回大会で、パジェロはマラソンクラスと市販車改造クラスで優勝を果たしたのだ。ヨーロッパでの反響は大きく、初年度に8カ月で7023台だった輸出が、翌年は3倍半の2万5886台にまで伸びる。第9回大会で篠塚建次郎が総合3位に入賞すると、日本国内でも販売台数が急増した。
パジェロは発売以降も改良を重ね、バリエーションを増やしていった。売り上げを伸ばし、三菱の基幹車種ともいえる存在になる。熱狂的に支持したのはオフロード車のファンだったが、そこから徐々にユーザー層を広げていった。高級車やスポーツカーからの乗り換えが多かった初期から、中級車やコンパクトカーからの移行も多くなっていった。パジェロに対するユーザーの要求は、少しずつ変化していくことになる。
1987年に発売した高級仕様の「エクシード」への反応が、ユーザーの好みが変化したことを象徴している。本革シートなどの豪華装備を付け加えたモデルで、開発陣は月にせいぜい50台も売れればいいと考えていた。発売すると注文が殺到し、月販1000台という予想外の売れ行きを示したのである。機能性を重視することに加え、乗用車としての満足感を求める人々が増えていた。市場ではピックアップトラックを乗用車風にしつらえたトヨタの「ハイラックスサーフ」が人気になっており、ユーザーのニーズが確実に変化していたことがわかる。
一方、ヨーロッパでは4WD車であっても高速道路でコンスタントに120km/hで快適に走る性能を求める声が多かった。2代目パジェロのコンセプトは、機能性と野性味を残しつつ、乗用車の持つ快適性や都会的なファッション性を併せ持つというものに決定する。一方で、オフロード性能をさらに充実させるよう求める声も多く、相反する要因を両立させる必要があった。
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大きく変化したSUV市場のニーズ
1991年に登場した2代目パジェロは、角を落とした丸みを帯びた姿が特徴だった。それでもクロカン四駆のフォルムは保っており、都市でも自然の中でも調和するよう工夫されていた。四輪独立懸架を採用することを推す声もあったが、リアサスペンションは堅牢(けんろう)なリーフリジッドを踏襲した。
4WDシステムについても議論があった。フルタイム四駆を採用することも検討されたが、後輪駆動モードを残したいという意見が多く、最終的にはフルタイムとパートタイムの両方の機能を併せ持つ「スーパーセレクト4WD」を採用。手動による2WDと4WDの切り替えは、100km/hまでなら走行中に操作することも可能だった。その他の機能も前モデルからは大きく進歩している。4輪ABSも装備され、安全性も高まった。オフロード性能を犠牲にすることなく、街中や高速道路での快適性を高めることを目指したのだ。
初年度の販売台数は6万5000台近くになり、輸出を加えると総生産台数は14万5000台に達した。ギャランの数字を抜いて、三菱の売り上げトップに躍り出たのである。1989年には80系トヨタ・ランドクルーザーがデビューしており、1990年には「ランドクルーザープラド」が誕生した。パジェロがモデルチェンジした1991年には、「いすゞ・ビッグホーン」も新しいモデルを発売している。どのモデルも都市での使用を強く意識していて、日本中の街角に背の高い4WD車があふれることになった。
2000年代に入り、SUVはクルマの選択肢としてごく当たり前の存在になっていった。乗用車と変わらない快適性を手に入れ、スペースやユーティリティーの点でのメリットも多い。スタイルはSUVでも、駆動方式はFFでオフロード走行には向かないモデルも珍しくない。
4代目となったパジェロも四輪独立懸架を採用し、内外装の高級感が増していた。しかし、時代はさらに洗練とファッション性を求めるようになり、プレミアムブランドやスポーツカーメーカーも続々とSUVを発売するようになっていた。SUVが隆盛を極める中、2019年8月にパジェロは国内販売を終了した。700台限定の「ファイナルエディション」には注文が殺到したという。
(文=webCG/イラスト=日野浦剛)
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鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。