第65回:ノックダウン生産に学べ
欧州を範とした戦後日本の自動車産業
2019.12.26
自動車ヒストリー
戦災によりゼロからの再出発を余儀なくされた、戦後日本の自動車産業。再起のために日本のメーカーが範としたのは、欧州の自動車メーカーだった。部品を輸入してのノックダウン生産から、自社開発モデルの製造に至るまでの道のりを振り返る。
フォードとGMが日本市場を席巻
日本で自動車のノックダウン生産が始まったのは、1925年のことである。1905年に日本への輸出を開始したフォードが、アジア最大の経済大国の市場を重視し、横浜に「T型フォード」の工場を建てて現地生産に乗り出したのだ。部品はすべて本国アメリカから運び、横浜では組み立てのみを行った。当時の日本の技術水準では、精度の高い部品を製造することはできなかったからだ。1927年にはゼネラルモーターズ(GM)もシボレーのノックダウン生産を開始する。
日本の自動車市場は、またたく間にフォードとGMに席巻された。道を走る自動車は増えてきたものの、そのほとんどはこの2社の製品だった。フォードの横浜工場は年産1万台の規模に達し、輸出も行うようになる。それでも日本は組立工場として利用されているだけであり、自動車の製造技術を学ぶことはできなかった。
この状況に危機感を持ったのが、トヨタの創業者・豊田喜一郎をはじめとした、黎明(れいめい)期の自動車開発者だった。彼らは国産乗用車の実現を目指して研究に没頭する。商品が完成し、ようやく国産車の生産が軌道に乗りかけた頃、日本におけるフォードとGMのノックダウン生産は終了した。日米関係の悪化を受け、両社の工場は操業停止を余儀なくされたのだ。
戦争が終わると、日本ではGHQの指令で自動車の生産が禁止される。それどころか、戦時中に自動車会社が軍用車を生産していたこともあり、工場が接収されるおそれさえあった。それでも自動車産業の再興を模索する動きはやまず、やがてトヨタが「SA型」を、日産が「ダットサンDB型」を発表し、乗用車生産に乗り出した。しかし欧米との技術レベルの差は歴然としていた。戦争中には民生用自動車の開発がストップしていたので、またゼロから始めなければならない。
日野、日産、いすゞが欧州メーカーと提携
経済復興を急ぎたい政府は、海外メーカーとの提携で技術移転を図るよう働きかけた。ノックダウン生産を行うことで、欧米との差を縮めようとしたのだ。戦前と違い、部品を製造する工場は育ってきているので、ただの下請けにはならないとの判断だった。提携先は、日野がフランスのルノー公団、日産がイギリスのオースチン、いすゞが同じくイギリスのルーツに決まる。トヨタはこの路線に乗らず、アメリカ車の研究を進めて独自開発する道を選んだ。
3社のうち日野といすゞは戦前のヂーゼル自動車工業から発展した会社で、もともと製造していたのはトラックである。乗用車製造の経験はなかったが、新たな分野に挑戦しようとしていた。
1953年、3社によるノックダウン生産が開始される。日野が組み立てたのは、戦後のフランスで大人気となっていた「ルノー4CV」である。748ccの直列4気筒OHVエンジンをリアに搭載した小型車で、リアはスイングアクスル、フロントはウイッシュボーンの四輪独立懸架を採用していた。収監中だったフェルディナント・ポルシェ博士が設計にアドバイスを与えたともいわれる、先進的なクルマである。
4CVは広い室内と高い動力性能、快適な乗り心地が評価され、ヨーロッパ各地、さらにアメリカにも輸出された。1961年の生産終了までに、合計110万台以上を販売したヒット作である。それをベースとした「日野ルノー」は、73万円からという価格の安さもあり、タクシーとして広く利用された。1963年までに約3万5000台がつくられた。
日産は、オースチンの「A40サマーセット」を生産した。1.2リッター直列4気筒エンジンを搭載したセダンで、日野ルノーよりひとまわり大型だった。価格は111万4000円である。日本にはすでに多くのオースチン車が走っていて、ブランドは広く知られていた。1955年には本国でのモデルチェンジを受けて、生産車が「A50ケンブリッジ」に切り替わる。ボディーはさらに大型化し、エンジンも1.5リッターに拡大されたが、日産はこのモデルチェンジを大過なくこなし、自動車製造のノウハウを身につけていった。
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習得した技術を生かして完全国産化
いすゞが組んだルーツグループは、ヒルマン、サンビーム、タルボといったメーカーが合同して誕生した会社である。いすゞが生産したのは、「ヒルマン・ミンクス」だった。当初採用していたのは1.3リッター直列4気筒のSVエンジンだったが、1955年に1.4リッターOHVに変更されている。このクルマも1956年にモデルチェンジを経験し、1964年まで生産された。
いずれの例でも最初は多くの部品を輸入していたが、徐々に国産化比率を高めていった。いすゞヒルマンは1957年に、日野ルノーと日産オースチンは1958年に完全国産化を成し遂げている。ノックダウン生産で、ヨーロッパの先進技術を学んでいったのだ。
海外メーカーと提携しなかったトヨタは、1955年に「クラウン」を発表する。アメリカンスタイルのボディーに1.5リッター直列4気筒OHVエンジンを積み、リアはリーフリジッド、フロントはダブルウイッシュボーンの独立懸架を採用していた。頑丈なつくりと柔らかな乗り心地が好評で、タクシー業界に広く受け入れられる。ようやく純国産の乗用車が、世界と対等に戦える水準になったのである。
一方、ノックダウン生産で腕を磨いた3社も、習得した技術を生かしてオリジナルモデルの開発に着手する。部品の国産化率は100%になっており、独自開発のクルマを生産する基盤は固まっていた。日野が1961年に発売したのが、「コンテッサ900」である。RRの駆動方式はルノー4CVと同じだ。ミケロッティの手になるボディーデザインは繊細で、伯爵夫人の意味を持つ車名にふさわしい優雅さを持っていた。1964年にはエンジンが大型化され、「コンテッサ1300」となった。
その後、日野は1966年にトヨタと提携。バス、トラックの製造に特化することになり、1967年のコンテッサの生産終了を機に乗用車事業から撤退した。
「セドリック」「ベレット」などが登場した1960年代
日産はオースチンの組み立てと並行してダットサンブランドの乗用車を生産していた。1955年の「110」、1957年の「210」には、オースチンから吸収した技術がつぎ込まれていた。そして、A50に代わるモデルとして1960年にデビューしたのが「セドリック」である。モノコックボディーに71馬力の1.5リッター直列4気筒OHVエンジンを積んだ意欲的なモデルで、トランスミッションは4段だった。当時としては非常に進歩的なクルマである。オースチンから学んだものは大きかったのだ。
いすゞは、ヒルマンの生産がまだ続いていた1962年、独自モデルの「ベレル」を発売した。クラウンやセドリックと同じクラスの中型セダンで、ガソリンエンジンに加えディーゼルエンジンも採用していた。ただ、ベレルは商業的にはさほど成功しなかった。ヒルマン・ミンクスでの経験が生かされたといえるのは、1963年発売の「ベレット」だろう。日本初のディスクブレーキを備えたスポーティーなモデルで、翌年に登場した「GT」は60年代の名車として名を残している。
戦前のフォードとGMのノックダウン生産は、日本の自動車産業にほとんど恩恵を与えなかった。その点、戦後の1950年代に行われた欧州メーカーとの提携はまったく様相が異なる。彼らの進んだ技術を学んだことで、日本のメーカーは急速に世界の水準に追いつくことができた。その後世界を席巻するに至る日本車の実力は、この時に鍛えられたのである。
(文=webCG/イラスト=日野浦剛)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。
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