第4回:純日本車発進! トヨペット・クラウン
自動車産業の礎を築いた自主開発モデル
2017.08.10
自動車ヒストリー
1955年の初代「トヨペット・クラウン」の登場は、日本の自動車産業に大きな影響をもたらした。“純国産乗用車”の完成にいたる戦前・戦後のトヨタの取り組みを、当時の自動車産業のさまや、社会の世相とともに紹介する。
欧米との技術提携を拒んだトヨタ
戦争が終わって10年後の1955年は、日本の自動車史にとって大きな意味を持つ。この年、トヨペット・クラウンが発売されたのだ。日本では戦前から自動車生産が始まっていたし、戦後もさまざまなメーカーが自動車の製造に乗り出している。それでも、クラウンの登場は特別な出来事として記憶されなければならない。“純国産乗用車”と呼べるクルマは、クラウンが発売されるまで皆無だったからだ。
1945年の9月、GHQは軍需工場を民需に転換させる指令を出した。兵器を製造していた三菱重工業や中島飛行機などは解体され、航空機の研究・生産が禁じられた。戦時中に軍用車を製造していたトヨタや日産は、民間用自動車製造に舵を切る。ただ、GHQが指定したのはトラックの生産のみであり、乗用車の生産は許可されていない。
状況が変わったのは1947年である。年間300台という限定付きで1500cc以下の小型乗用車の製造が許可され、ようやく日本の自動車産業が復興に向かった。立川飛行機の自動車開発部門は、ガソリン不足を見越して電気自動車の「たま」を発売する。東洋工業やダイハツが製造した簡便なオート三輪も人気を博した。日産はセダンの「ダットサンDA型」を発表する。しかし、シャシーとエンジンは戦前のものを流用しており、生産台数はわずかだった。
技術レベルを向上させるため、当時の通産省は欧米の自動車メーカーとの技術提携を促した。日産がオースチン、いすゞがルーツ、日野がルノーをパートナーに選び、ノックダウン生産を行うことになる。生産を請け負うことで技術を学び、部品の国産化率を高めることを目指したのだ。提携が一定の成果をあげる中、トヨタは別の道を選んだ。自力で国産乗用車を開発することにこだわったのだ。
戦前から追求していた独自路線
トヨタ自動車の歴史は1933年に始まる。紡織機メーカーの豊田自動織機製作所の中に自動車部が作られたのだ。同年、日産の前身である自動車製造株式会社も設立されている。当時、日本で自動車を量産していたのは、ゼネラルモーターズ(GM)とフォードのノックダウン生産を行う工場だけだった。日本の市場はアメリカに席巻されていたが、2人の企業家が自動車産業を立ち上げるために行動を起こした。トヨタの豊田喜一郎と日産の鮎川義介である。
日産がアメリカから製造設備を購入して技術者も呼び寄せたのに対し、トヨタは当初から独自路線を追求した。もちろん、ゼロから自動車の研究を始めたわけではない。シボレーのエンジンを購入して分解と組み立てを繰り返し、鋳造方法を探った。車体に関しては、最先端だったクライスラーの「エアフロー」をモデルにしてデザインを練っていった。
試行錯誤の末、1936年に初の量産車「トヨダAA型」を発表する。はしご型フレームに65馬力の直列6気筒エンジンを積んだ5人乗りの乗用車だった。AA型は改良を重ねながら、1943年までに1404台が製造された。
トヨタは乗用車の生産を拡大しようと試みたが、時代は戦争へと向かっていた。政府からの要請で、軍用トラックの生産の請負を余儀なくされる。志とは異なっていたが、自動車の量産技術に関しては貴重な経験を重ねていくことになった。それが終戦後に生き、朝鮮戦争特需の際には莫大(ばくだい)な受注をこなして利益を上げ、会社の基礎を固めることができたのだ。
アメリカに学ぶものはないと確信
一方で、乗用車の生産に向けての研究も続けられていた。1947年には、バックボーンフレームと四輪独立懸架を採用した意欲的な製品である「トヨペットSA型」が発売される。しかし、27馬力のサイドバルブエンジンは非力で、当時の劣悪な道路事情の中ではボディーの強度も不足していた。
喜一郎の甥(おい)にあたる豊田英二は、アメリカに渡ってフォードやGMの工場を視察した。進んだ技術を学ぶのが目的だったが、彼は現場を見るうちに自信を深めていく。アメリカの自動車産業は確かに最先端を行っていたが、そこには自分たちの知らないことは何もなかった。彼らに教えを請わずとも、これまで積み重ねてきた技術を洗練させていけばいい。アメリカ車に負けない自動車を製造することができるという確信を得たことで、トヨタの自主開発路線は明確になった。
当時の日本では乗用車はほとんどがタクシー用だったため、開発もその用途に沿って進められたのは当然である。トヨタの先見性を物語るのは、オーナードライバーも視野に入れていたことだ。タクシー用とされたのは1955年1月に同時発売された「マスター」で、クラウンは自家用車として位置づけられていた。
マスターは耐久性を重視してサスペンションは前後輪ともリーフリジッドが採用されていたが、クラウンは前輪が独立懸架のダブルウィッシュボーンだった。デザインも、武骨なマスターとクロームメッキなどで豪華に装ったクラウンでは大きく異なった。
消費社会の要求に合致したクラウン
意外にも、タクシー業界が受け入れたのはクラウンだった。折しも神武景気が始まっており、翌1956年の経済白書には「もはや戦後ではない」と記された。白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が“三種の神器”と呼ばれてもてはやされた時代である。国民の消費意欲が高まっていたところに、軽快なスタイルと豪華な装備をそなえ、公称最高速度100km/hのスピードと快適な乗り心地を持つクラウンが登場したのだ。耐乏生活の余韻を残すマスターではなく、クラウンが時代の要求に合致したのである。
自家用車としても、クラウンは高い人気を集めた。1.5リッターの4気筒OHVエンジンは48馬力を発生し、当時としては強大なパワーを受け止める強力なブレーキが備えられた。観音開きドアを特徴とする初代クラウンは、大衆の憧れとなる。1960年には1.9リッターエンジンが登場し、「トヨグライド」と名付けられたAT版も追加された。
「かくしてクラウンは、その初代の5年間で現在の国産車の基礎を築き上げてしまう。トヨタの、いや日本の自動車技術はこのクラウンを作ったことで一気に向上したのである」
徳大寺有恒氏は、『ぼくの日本自動車史』でそう述べている。独自開発にこだわってトヨタが作り上げた純国産乗用車は、日本の自動車産業が発展していく礎となったのだ。
(文=webCG/イラスト=日野浦 剛)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。