第57回:信念の技術者、豊田喜一郎
国産車づくりに懸けた生涯
2019.09.05
自動車ヒストリー
今や世界屈指の巨大メーカーに成長した、日本のトヨタ自動車。その基を築いたのは、一人のエンジニアの自動車に懸けた情熱だった。あまたの困難をはねのけ、“国産車づくり”にまい進し続けた豊田喜一郎の生涯を振り返る。
欧米視察で受けた衝撃
豊田喜一郎は、1894年に発明王として知られた豊田佐吉の長男として生まれ、父の工場で日常的に機械に触れながら成長した。仙台の第二高等学校甲組工科へ進み、東京帝国大学に入学。卒業後は佐吉のもとで自動織機の研究開発に取り組む。彼が開発したG型自動織機は杼換(ひがえ)装置を自動化した画期的なもので、世界的な紡織機メーカーであるイギリスのプラット社が特許権買い取りを要望するほどだった。
1929年、喜一郎は契約締結のためにイギリスを訪れ、時間をつくっては各地の自動車工場を訪れて製作の現場を見学した。彼は時代が軽工業から重工業に移りつつあり、中でも自動車工業が将来的に経済の中心になることを見抜いていたのだ。喜一郎は同年、アメリカも訪問している。デトロイトでフォードの工場を訪れると、流れ作業ですさまじい数の自動車が生産されている様子に驚嘆した。
欧米視察から帰国すると、世界恐慌の影響で豊田自動織機製作所は業績不振に陥っていた。自動織機だけでは生き残れないと判断した喜一郎は、事業の多角化を目指して精紡機の研究を始める。1931年、ハイドラフト精紡機を完成させ、会社は危機を脱して繊維機械の総合メーカーへと発展した。喜一郎は改良を進めて1937年までに32件もの特許・実用新案権を取得している。彼は同時に自動車事業進出に向けて準備を進めていた。
その頃、日本ではまだ自動車工業はゼロに等しい状態だった。1923年に起きた関東大震災からの復興のために自動車が必要とされたが、日本国内で調達することはできず、フォードから「T型トラック」のシャシーを輸入しなければならなかった。1925年、フォードは横浜に工場を建設し、T型のノックダウン生産を始める。翌年には、GMが大阪で自動車生産を開始。圧倒的な技術力と資本力を持つアメリカの自動車会社は、瞬く間に日本の市場を制覇した。
“道楽”と称して自動車研究を始める
喜一郎は、アメリカ車に対抗できる国産乗用車をつくることを決意した。しかし豊田自動織機製作所には自動車をつくる技術も設備もない。しかも、喜一郎は長男ではあるが、会社の社長は10歳年上の義兄・利三郎である。喜一郎が根っからの技術者なのに対し、利三郎は実業畑の人で、国産車をつくりたいなどという夢のような話をそのまま受け入れるはずがなかった。実際、彼は喜一郎に理解を示しつつも、無謀な事業化にはくぎを刺した。自動車製造は、豊田自動織機製作所が取り組むには危険すぎる大事業なのだ。
それでも喜一郎は着々と準備を進めていった。まずは“道楽”と称して、4馬力の小型エンジンを組み立てた。1933年には工場の倉庫の中に板囲いをつくり、33年型のシボレーを持ち込んで分解と組み立てを繰り返すようになる。生産に必要となる高価な工作機械を次々と発注予定表に書き込み、いずれ必要となるだろう工場用地としては、名古屋の西にある挙母町論地ヶ原(現在の豊田市)に目をつけた。
この年の12月30日、喜一郎の要請で豊田自動織機製作所の緊急取締役会が開かれた。議題は、自動車部の正式な開設と増資である。この取締役会を経て、ついに会社の定款に自動車関連の業務が加えられることになった。増資は200万円である。今で言えば数百億円に匹敵する、巨額な投資だった。
![]() |
![]() |
1年半で試作車をつくる
1934年1月の株主総会で、豊田自動織機製作所の自動車事業進出が正式決定されると、豊田喜一郎は技術者を集めて「年内に試作第1号車を完成させる」と宣言した。自動車開発部門のメンバーだった大島理三郎取締役が米国に渡り、ボーリングマシンやプレス機などを買い付けるとともに、最新式の自動車を持ち帰った。クライスラーの「デソート・エアフロー」である。
メカニズムについては、喜一郎は東京大学の同窓生で、同大学の教授になっていた隈部一雄と相談しながら概要を決めていった。エンジンはGMに学び、シャシーはフォードを範とする。デザインはクライスラーのものを取り入れるのだから、アメリカのビッグスリーのいいとこ取りをしようというのだ。トヨタ初の自動車となるべきクルマは、「A1型乗用車」と名付けられた。
開発は順風満帆とはいかなかった。エンジンのシリンダーブロックをつくるには、鋳造の技術が必要となる。自動織機の製造で鋳造の経験は積んでいたが、やってみるとまったく勝手が違った。織機とは比べものにならないほど構造が複雑で、不良品が続出。大島取締役が米国から持ち帰った油中子を参考に試行錯誤を繰り返した結果、ようやく8月にシリンダーブロックが完成する。試作第1号のエンジンが組み上がったのは9月だった。
問題は続いた。試作エンジンをトラックに搭載してみたところ、パワーが足りないのだ。手本にした3.4リッター6気筒のシボレー製エンジンは60馬力なのに、試作品のパワーは48~49馬力しか出なかった。新しい形状のシリンダーヘッドを設計し、なんとか65馬力を実現。試作第1号車が完成したのは5月のことだった。結局、当初の予定はオーバーしたものの、喜一郎らはほとんどゼロの状態から1年半で自動車をつくったのだ。
とはいえ、状況は逼迫(ひっぱく)していた。すでに自動車部は500万円を超える資金を費やしている。それでも製品の自動車は1台もないのだから、利益はゼロ。早く自動車を販売して資金を回収しなくては、とても会社がもたない。
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
なにもかもが紙一重だった自動車生産開始
さらに、タイムリミットが迫っていることも判明した。対米英の関係が悪化し、軍事的な必要性から政府は自動車の国産化を進めようとしていた。自動車製造の認可を実績のある日本の自動車会社に絞り、独占的に生産させる計画を進めていたのだ。急いで“実績”をつくらなければ、自動車製造に乗り出すことができなくなる。
政府が求めるのは乗用車ではなく、軍用に使えるトラックである。喜一郎は、乗用車の開発と並行してトラックをつくることを決意する。「G1型」と名付けられたトラックの試作第1号車が8月に完成すると、喜一郎はすぐさま量産に移るように指示を出した。
1935年11月21日、東京の芝浦ガレージでG1型トラックの発表会が開催された。豊田自動織機製作所は、トラック製造の“実績”を示したのだ。ただし、なにもかもが見切り発車だったことは否めない。工場から発表会場までの自走では、途中の箱根越えでステアリングのサードアームが折れるなどのトラブルが続出。会場にたどり着いたのは発表会当日の午前4時という危うさだった。
生産体制も万全とは言い難かった。販売面はもっと準備不足で、ディーラー組織は影も形もなかった。喜一郎は日本GMの社員だった神谷正太郎を引き抜き、販売の全権を任せる。名古屋の大池町にあった社屋の屋上には、「国産トヨダ」のネオンが誇らしげに輝いた。翌年に図案マークを公募した際にブランド名が「トヨタ」に変わり、濁点が除かれた。
G1型トラックがショールームに並べられ、完成車は3200円という価格で販売されるようになった。工場渡しのシャシー価格は2900円で、これはシボレーやフォードよりも200円ほど安い値付けだった。年内に販売されたのは、合計14台である。わずかな台数だが、ディーラーは大忙しだった。初期トラブルが頻発し、修理に追われたからだ。
翌年9月、東京府商工奨励館で開かれた国産トヨダ大衆車完成記念展覧会の会場には、A1型を改良した「AA型乗用車」、G1型を改良した「GA型トラック」、さらにはバスや消防車など合計15台が華々しく展示された。この頃には一時の危機を完全に脱しており、喜一郎らは自動車メーカーとして力強い歩みを進めていた。1937年にはトヨタ自動車工業株式会社が設立。喜一郎は1941年に社長となり、彼の夢はすべて実現したかのように見えた。しかし、戦争へと突き進む日本で必要とされたのは、あくまでも軍用のトラックである。喜一郎が本当につくりたかったのは、アメリカ車に対抗しうる乗用車だったはずだ。
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
焼け跡からの出発
1945年8月15日、喜一郎は東京・世田谷の自宅で玉音放送を聞いた。日米の工業力の差から日本が負けることを予期していた彼は、敗戦に驚くことはなかった。挙母の工場は爆撃の被害に遭っていたが、これで自由に自動車をつくることができる。彼の頭の中では、すでに新しい量産小型乗用車の構想が膨らんでいた。
喜一郎は国産乗用車づくりの夢に、再び取り組もうとしていた。挙母工場に帰ってくると、いとこの豊田英二を呼んで量産小型乗用車の研究を始めるよう指示。戦争が終わったのだから、これからは大衆に自動車が普及していくことになる。しかし、挙母工場は爆撃を受けて半壊状態。動員を受けてトラック生産に携わっていた人々の中には退社するものも多く、9500人ほどいた従業員は秋までに3700人に減っていた。
さらに1945年9月25日、進駐軍は「製造工業操業に関する覚書」を発令して乗用車の生産を禁止。11月には財閥解体に着手し、その難を免れたトヨタも、さまざまな制約を課せられることとなった。それでも喜一郎は乗用車の開発を諦めなかった。まずは、1リッター4気筒のサイドバルブ式エンジンの開発を進めるよう指示を出す。このエンジンはS型と名付けられ、多くのモデルに搭載されることになる。
販売網の再建も急務だった。戦争中は自動車の販売が統制され、配給会社を通じて売るしかなかったのだ。トヨタの販売部門のトップにいた神谷正太郎はいち早く動く。戦時中に全国の共販会社を訪ね歩いて築いた人脈を生かし、自由販売への体制を整えた。
1947年6月、GHQは乗用車の生産再開を許可する。10月には小型乗用車の生産・販売を開始。S型エンジンを搭載した第1号車ということで「SA型」と名付けられ、「トヨペット」という愛称も付けられていた。SA型に先駆け、「SB型トラック」の生産も始まっていた。1000kgの積載能力を持つSB型は人気を博し、1952年2月までに約1万3000台が出荷される。
SB型は従来どおりのはしご型フレームだったが、SA型乗用車は当時としては画期的なバックボーンフレームを採用していた。室内スペースを大きくとることが可能になり、デザインは流線形。サスペンションは四輪独立懸架で、A1型と比べるとはるかに先進的な機構を持った意欲作だった。
喜一郎の夢がつくった純国産乗用車
SA型の性能を広く知らしめたのは、名古屋・大阪間を急行列車と競走したイベントである。1948年8月7日、朝4時37分発の下り列車が名古屋駅を動き出すと同時に、SA型が線路と並行する道路を走りだした。SA型が大阪駅に到着したのは、8時37分だった。急行列車の到着予定時刻は9時23分で、46分の差をつけての圧勝だった。SA型は235kmの行程を、平均車速60km/hで走破したのである。
しかし、会社をめぐる状況は厳しさを増しつつあった。戦後の復興景気で悪性インフレが発生し、政府は金融引き締めに動く。1949年には、いわゆるドッジ・ラインが実施された。各種補助金を削減し、復興金融公庫の融資を停止する。1ドル360円という公定為替レートを定め、政府予算には超均衡編成を求めるというものだった。インフレは収束していったが、代わりに“ドッジ不況”が猛威をふるう。1949年9月にいすゞが約1300人、続いて10月には日産が約1800人の解雇を発表した。
トヨタでは、1949年12月に2億円もの資金不足が明らかになる。銀行から融資を断られ、喜一郎は窮地に立たされた。日銀の仲介により協調融資団が結成され、ギリギリで破綻は回避されたが、銀行は目に見える形での改革を求めた。協調融資団は、販売部門を切り離し、製造部門は売れるだけの台数を生産する仕組みをつくるように要求。さらに人員整理を強硬に申し入れる。家族経営を旨とする喜一郎は頑強に抵抗したが、人を減らすことなしには危機を打開できなかった。翌年6月に組合は人員整理を受け入れ、喜一郎は辞任を発表した。
代わりに豊田自動織機製作所社長の石田退三が社長に就任すると、トヨタに追い風が吹く。朝鮮戦争が始まり、米軍からトラックの注文が殺到したのだ。業績はV字回復し、1951年3月の決算では約2億5000万円の純利益をあげるに至った。
喜一郎は新たな研究に取り組んでいた。小型乗用車とヘリコプターの開発に向け、準備を進めていたのだ。経営の苦労から解放され、エンジニアとしての意欲がよみがえったのだろう。会社再建を果たした石田は、喜一郎に社長復帰を要請。最初は拒絶した喜一郎だったが、度重なる説得に復帰を承諾する。1952年7月に行われる予定の株主総会で承認される運びとなったが、その日は訪れなかった。3月27日、喜一郎は57年の生涯を閉じた。
1955年、「トヨペット・クラウン」が発表される。純国産乗用車と胸を張って言えるクルマがついに誕生し、喜一郎が夢見た未来はようやく現実となった。すべては、一人の男の決意から始まったのだ。
(文=webCG/イラスト=日野浦剛)
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。