第89回:いすゞと日野が紡いだ近代化
トラックから始まった日本自動車産業の歴史
2020.12.02
自動車ヒストリー
日本の自動車産業を支えてきたのは、トラックとバスだった。政府による自動車国産化政策や、関東大震災と第2次世界大戦からの復興を担った黎明(れいめい)期の商用車群。それらを製造したいすゞと日野の足跡から、“もうひとつ”の日本の自動車史を振り返る。
ルーツは水戸藩の造船所
2019年5月、いすゞと日野が共同開発した国産初のハイブリッド連接バス「エルガデュオ」が誕生した。いすゞ自動車と日野自動車は日本を代表する商用車メーカーとして競い合ってきたが、2004年に国内向けのバスの製造や部品供給を行う合弁会社、ジェイ・バスを設立。バス事業の効率化と新世代商品の開発を進めてきた。ライバル同士の協業ではあるものの、これまでの経緯を知っていれば不自然なことではない。いすゞと日野は、ひとつの会社だった時期がある。
歴史は幕末にまでさかのぼる。ペリー来航を受け、幕府の命で水戸藩が江戸石川島に造船所を設立したのが始まりだ。ここでは西洋式帆船の「旭日丸」や軍艦「千代田形」が建造されており、高い技術力を持っていたことがわかる。明治に入ると民営化され、1893年に石川島造船所株式会社に改組。船舶はもちろんのこと、火力発電機や蒸気機関車なども製造し、日本の近代化に貢献した。
第1次世界大戦が始まると、造船の注文が殺到して巨大な利益が生まれる。そこで新たな投資先として選ばれたのが、自動車製造だった。1916年に自動車部門を設立し、2年後にイギリスのウーズレー社と提携契約を結ぶ。当時の日本では自動車製造の試みは始まっていたものの、まだ産業と呼べる段階には達していなかった。技術を習得するためには、ヨーロッパの自動車メーカーから学ぶのが早道だと考えたのである。これがいすゞ自動車の起点とされている。
一方、日野自動車の母体とされているのは、1910年に設立された東京瓦斯(ガス)工業株式会社。ガス事業を始めた千代田瓦斯会社の子会社として、ガス器具の製造を行っていた。主な製品は、ガス灯の発光体として使われるマントルという部品である。ガス灯の代わりに電灯が使われるようになると、社名を東京瓦斯電気工業(瓦斯電)と改め、電気製品の部門にも進出した。
経営状態は思わしくなかったが、やはり第1次世界大戦が飛躍のきっかけとなる。ガス計量器の開発で培われた精密機器の技術が認められ、砲弾の信管の発注が舞い込んだのだ。小火器の製造も請け負うようになり、会社の規模は急激に拡大。1917年、新工場を東京・大森に建設すると同時に自動車製造部を設立する。日野自動車の歴史は、ここから始まった。
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軍の国産車推進政策が転機に
次世代を担う工業製品が自動車であることは、石川島も瓦斯電も気づいていたのだ。しかし、参入は容易ではなかった。当時の日本では欧米の自動車メーカーの安価で高性能なモデルが市場を独占していたからである。状況を変えたのは、1918年に制定された軍用自動車補助法だった。
第1次世界大戦で自動車の有用性が明らかになると、軍部は国産化推進を図る。規格を定め、合格したモデルを軍用保護自動車に認定し、補助金を交付する制度をつくったのだ。補助金は購入者にも与えられるので、販売促進にもつながる。軍が直接購入するのではないが、民間に自動車を普及させることに意味があった。有事には徴用して軍用車として利用することをもくろんだのである。輸送車として使う必要性から、補助金の対象はトラックなどに限られた。
瓦斯電の社長だった松方五郎は、かねて自動車に興味を抱いていた。それまでは乗用車やトラックの輸入事業を行っていたが、補助法制度を利用すれば、念願の自動車製造事業に参入することができる。しかし、自動車の開発を進めるためには、専門的知識を持った技術者が必要だった。松方が目をつけたのが、大倉喜七郎の日本自動車で技師長として働いていた星子 勇である。
星子はイギリスとアメリカに留学して研修を積んでおり、『ガソリン発動機自動車』という著作も執筆していた。彼は自ら乗用車を設計・製造することを志していたが、自動車の輸入と整備をするだけの日本自動車では、技術を生かすことができない。星子にとっては、瓦斯電の誘いは千載一遇のチャンスだった。
大阪砲兵工廠(こうしょう)からの依頼で4トン自動貨車を製造したのが初めての仕事である。シュナイダーの軍用トラックを参考にしたモデルで、5台を納入した。星子は並行して別のトラックの設計を行っていた。アメリカのリパブリックを参考にしつつ、独自の設計を取り入れた「TGE-A型」である。TGEとは、瓦斯電の英文名 "Tokyo Gas & Electric Inc." のイニシャルからとっている。1917年に完成したこのモデルが、軍用保護自動車認定第1号となった。
震災からの復旧で自動車の普及が加速
一方、石川島は東京・深川に自動車工場を建設し、「ウーズレーA9型」乗用車の製造にとりかかっていた。ところが、なんとか車両は完成させたものの販売のめどが立たず、同社は商用車事業に傾注することを決める。1923年には「ウーズレーCP型」トラックとその図面を取り寄せ、国産化の準備を推し進めた。しかし、ようやく組み立てを始めようとした矢先に関東大震災に見舞われ、工場は半壊。機械は使用不能になってしまう。苦心の末、軍用保護自動車の認定を受けたのは1924年のことだった。
損害をこうむったものの、震災は瓦斯電と石川島には有利に働いた。復興期に自動車の有用性があらためて評価され、普及が加速したのだ。軍に納入するだけでなく、他の官庁や企業からも注文が入るようになる。各地で運行が始まったバスの需要も高まっていた。
自動車の販売台数は増えたが、国内メーカーの生産能力は貧弱だった。1926年の国内生産車は、わずか245台である。これは輸入車の10分の1の規模でしかなく、フォードとゼネラルモーターズ(GM)が日本でのノックダウン生産を始めると、さらに差は開いていった。性能でも価格でも、国産車は輸入車にかなわなかったのだ。追い打ちをかけたのが、補助金の減額である。当初は1.5トン車に1500円、それ以上のモデルには2000円が支給されていたが、緊縮財政で軍の予算が減らされると支給額も削られ、1931年にはわずか150円になってしまった。
当時の各社の取り組みを見てみると、石川島は1927年にウーズレーとの提携を解消し、独自の設計でトラックやバスを製造するようになっていた。商標も工場の所在地にちなんで「スミダ」に改称。六輪駆動車やクレーン車などの製造にも手を広げていった。この後、同社の自動車部門は1929年に造船所から独立。石川島自動車製造所が誕生した。
同じころ、瓦斯電では航空機用エンジンの開発に手を伸ばしていた。ダイムラーなどのライセンス生産を手がけた後、独自設計でつくり上げたのが空冷星形7気筒エンジンの「神風」である。これは国産初の航空エンジンで、海軍の練習機に採用された。同社では「天風」「初風」などのエンジンに加え、機体の製造も行うようになり、この部門は後に日立航空機となる。
自動車事業では軍から戦車の製造も依頼されるようになり、“豆タンク”と呼ばれる「94式軽装甲車」が年間200~300両の規模で生産された。こうした需要に応えるために日野製造所が建設され、これが今日の日野自動車にいたる直接の源流となった。なお、瓦斯電は1930年に宮内庁御用達になったのを機に、商標を「TGE」から「ちよだ」に変更している。
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商工省の指導で生まれたヂーゼル自動車工業
第1次世界大戦以降、日本の自動車産業は軍が先導する形で育成されてきたが、1929年の国産振興委員会で自動車が大きく取り上げられてからは、商工省が前面に立つこととなった。フォードとGMが市場を席巻している状況を打破するためである。政府は軍用保護自動車を生産していた石川島、瓦斯電、ダット自動車製造の3社に対し、合併して効率的に自動車を生産するよう勧告。また商工省標準形式自動車の規格を定め、3社が協力して開発を進めるよう指導した。試作車が完成したのは1932年である。これが「TX型トラック」で、公募により愛称は「いすゞ号」となった。
1933年、石川島はダットと合弁し、新会社の自動車工業となる。単独での生き残りを模索していた瓦斯電も、1937年に合流。3社を母体とする東京自動車工業が誕生した。1941年にはディーゼル自動車の製造許可を受けたことに伴い、ヂーゼル自動車工業と改称。1942年には特殊車両を受け持っていた日野製造所が、日野重工業として独立した。
戦時中、日本の自動車メーカーは軍需によって支えられていた。戦争が終わるとGHQによって解体される危機もあったが、その多くは民間産業として再出発を切ることになった。1946年に日野重工業は日野産業となり、ヂーゼル自動車工業は1949年にいすゞ自動車に改称している。
戦後の復興が始まると、日本政府は海外メーカーとの提携によって自動車産業の立て直しを図る。いすゞはルーツグループ、日野はルノーからの技術供与を受け、ノックダウン生産を行うことになった。両社とも戦前は商用車と軍用車ばかりを製造していたが、もともとは乗用車をつくることを目標にしていたのである。
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生き残りをかけた合従連衡
1960年代に入ると、両社はノックダウン生産の経験を生かし、独自の乗用車の生産を開始する。日野はRRの小型乗用車「コンテッサ」を生み出し、ミケロッティの手になる繊細なデザインと車体後方から空気を吸い込むユニークな冷却方式で高い評価を受けた。しかし商業的には成功とはいえず、1966年にトヨタと業務提携を結んだのを機に、乗用車事業からは撤退することとなった。
いすゞは、スポーティーな「ベレット」や高級パーソナルカー「117クーペ」などにより、独自の地位を確立する。それでも資本自由化の波からは逃れられず、1971年にはGMの傘下に入ることとなった。1974年に発表した「ジェミニ」は、GMグループの共同開発車である。その後、日本では1993年に小型乗用車市場から撤退。「ビッグホーン」などのSUVに特化していたが、それについても2002年に国内での生産・販売を終了した。
日本自動車産業の起点となったいすゞと日野の歴史には、トラックとバスから始まった日本の自動車史が常に投影されてきた。そして今、自動運転や電動化といった次世代技術の開発のため、生き残りをかけた新たな合従連衡が模索されている。いすゞは2018年にトヨタとの資本関係を解消し、翌年ボルボグループと戦略的提携で合意。日野はトヨタ傘下のままでフォルクスワーゲングループと手を結んだ。商用車ビジネスは、ワールドワイドな転換期を迎えているのだ。
(文=webCG/イラスト=日野浦剛)

鈴木 真人
名古屋出身。女性誌編集者、自動車雑誌『NAVI』の編集長を経て、現在はフリーライターとして活躍中。初めて買ったクルマが「アルファ・ロメオ1600ジュニア」で、以後「ホンダS600」、「ダフ44」などを乗り継ぎ、新車購入経験はなし。好きな小説家は、ドストエフスキー、埴谷雄高。好きな映画監督は、タルコフスキー、小津安二郎。